128 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

室生寺釈迦如来坐像と坂本繁二郎 その3
2019-08-26
28歳での結婚も良いきっかけになったのか、坂本はさらに様々な挑戦を続けていく。「張り物」(1910年)、「うすれ日」(1912年)、「魚を持ってきた海女」(1913年)、「海岸の牛」(1914年)、「三月頃の牧場」(1915年)、「馬」(1916年)、「髪洗い」(1917年)、「静物」(1918年)、「牛」(1920年)というように次々に行われる挑戦は実に具体的で果敢であり的確だ。どの画面も一見穏やかに見えるが、実は一作ずつ挑戦の内容を自覚的に設定し、きちんとその結果を出している。実に強靭である。このあたりが坂本の最初のピーク、と見た。

 パリ滞在中(1921年〜1924年)の作品にはブルターニュの風景が登場している。ここでもゴーギャンやナビ派とのつながりが暗示されているかのようであった(ナビ派の始まりはセリュジエがブルターニュのポン=タヴェンにゴーギャンを訪ねて直接の指導を仰ぎながら一枚の風景画(「タリスマン、愛の森を流れるアヴェン河」(1888年)を描いてパリに持ち帰り仲間に見せたことだったという)が深読みだろうか? 坂本の滞欧作には、明らかに、ヴュイヤールの「八角形の自画像」(1890年頃)などとの方法上の近似が指摘できると思う。あながち見当違いではあるまいが、私に何か確証があるわけでもない。その完成度において、坂本はまったくナビ派の人々に引けをとっていない。いうまでもなく、坂本の滞欧中の作品は、どれも素晴らしい。年譜をみると、里見勝蔵、石井柏亭、正宗徳三郎、坂田一男というような人々との交流がうかがえる。この時期、明らかに二つ目のピークを形作っている。
 帰国後の仕事ぶりも素晴らしい。時にキュビズムを意識したかのような作品も現れるが、長く振り回されることはない。どの作品も決して手を抜かない。小さな一つ一つの筆触に実感が託され、筆を“走らせる”などということは決してしない。にもかかわらず絵は動いている。
 さすがに、目を悪くしてからは、ものと背景とがはっきりと区分されて、画面に単調さが生じてきていることは否めない。しかし、たとえそうであっても、身の回りのどんなものも絵にしていく柔軟な眼差し、確かすぎる構成力は、自己模倣を回避させてどの絵にもみずみずしさを保持させている。
 逆光の馬小屋内部と馬との場合でも、コントラストで処理しない。見えにくいところにしっかりと色を見出し、色どうしの響きを作り上げていく。
 また、月。ここでも見出しにくい月の周囲の色の変化や色同士の響きに目を凝らしている。これらは、たとえ目が悪くなっても(片眼はほぼ失明状態だったという)、あえて見えにくいところに挑んでいく坂本の強靭さの現れだ。それが十分すぎるほど伝わってくる。
室生寺釈迦如来坐像と坂本繁二郎 その2
2019-08-26
別の日、冷房の良く効いた都バスに乗ってはるばる練馬に向かい、さらに西武線に乗り換えて中村橋は練馬区立美術館に行った。
 「没後50年・坂本繁二郎展」。
 恥ずかしながら、坂本繁二郎をまとめて見るのは今回が初めて。
 何年か前の東京ブリジストン美術館での大規模な回顧展は見逃した。会期をキチンと確認しておらず、気づいたときには終わっていたのである。とても悔しかった。今回はすでに一度見にきて感動しまくっており、一部作品の展示替えが終わったはずなのでもう一度、というわけである。で、また感動してしまった。思い出しながらメモする。
 なんと言っても、まず、最初期の水墨画(当時15歳)、油絵(当時16歳)、水彩画(当時16歳)の完成度の高さ。呆気にとられる。友人・青木繁や師・森三美の作品が合わせて展示されているのも嬉しい。青木繁との切磋琢磨の様子も想像できるが、青木ともども、森三美という本格的な力量の画家から教えを受けたというのがいかにも幸運、というか、九州というところの文化度の底力の一端を示している。すごいな、九州。
 坂本繁二郎は森三美からどのような指導を受けたか? どうやら基本的には模写、というか臨写だったらしい。コンスタブルやターナー、浅井忠などの作品の複製が教材だったようだ。それは、坂本繁二郎自身が書いた文にも記されている。画材もなかったから、キャンバスなどはだいたい手作りだった、との文もある。とはいえ、手作りの画材でお手本の模写・臨写ばかりでもなかったようだ。15歳の時の驚くべき水墨画「立石谷」は、鳥栖市に実際に存在する「御手洗(おちょうず)の滝」の前で描いた上下二枚のスケッチをもとにして描いた、というのである。(まったくの余談ながら、あの会田誠氏の作品に、スクール水着のたくさんの女子学生が滝で遊んでいる絵があったが、あの舞台のモトはこの「立石谷」ではないか、との考えが思わずよぎり、思わず調べたりした自分が悲しい。)
 次に驚かされたのが、上京後の作品だ。特に「早春」(1905年=当時23歳)では、ナビ派(形態の単純化、色彩表現の平面化、陰影部への色彩の発見など)との近似(特にドニとかヴァロットン)を見て取ることができ、とても驚かされた。1900年前後には、日本でもナビ派などが紹介されていたのだろうか? それともナビ派とかはまったく無関係な坂本の試み? ともかく、「早春」や「町裏」などからは上京後の坂本が熱心にまた果敢に学んでいる様子が見て取れる。すでに技量に磨きがかかっている。
つづく→
室生寺釈迦如来坐像と坂本繁二郎 その1
2019-08-26
東京・上野公園は人でいっぱいだった。私と家人は人と人との隙間を巧みにすり抜け、同時に日陰を求めながら東京国立博物館への道のりを急いだのだった。なんでも、室生寺の、あの「十一面観音菩薩立像」がわざわざ上野までやってきているらしい。見逃す手はない。手もないが時間もなかったのだ。
 チケット売り場で知ったが、「奈良大和四寺のみほとけ」展は特別展とはいうものの、常設展示の料金で見ることができるのである。すごく得をした気分になった。
 会場の本館11室は正面入り口から右すぐの一階にある。巡っていくと、やがて思いがけず岡寺の「義淵僧正坐像」に出くわして、ギョギョッと驚かされた。全く予想していなかったからだ。これがとてもリアル。迫力満点。というのも、たとえば、結跏趺坐した足の表現がすごいのである。衣の襞の下に隠れてはいるが確かにそこにある両足裏始め脚の形状など巧みに捉えられている。解説を見れば、なんと塑像。そうかあ、塑像って作り方がちゃんとは分かっていないんだよね、とか思いながらも、像に圧倒されていてそれどころではない。義淵僧正とは岡寺の創健者。思わず長い間あちこち見入って息をつき、ふと隣に目を移して、じぇじぇじぇ、さらにびっくりした(じぇじぇじぇはさすがちょっと古いか?)。
 そこに展示されていたのは、室生寺の「釈迦如来坐像」。一目見て仰天した。すごいぞ。シャープすぎる。この像は、私のような者でも大昔からよく知っている超有名な仏像なのである。ただし、写真図版を通してだったのだ(室生寺には大昔に訪れた事があるが、ほかのことに気を取られ、この像の記憶がない)。この時、目の前に突如出現したのは、見知っていた写真図版からの印象から遥か遠く隔たった像だった。写真図版ではボッテリとした印象だったのに、現物はシャープ極まりない。ついさっき彫り上がったばかり、のように見える。どこをとっても素晴らしい。非常に美しい。ずっと見ていたい。説明に「一木造り」とあって、さらにビックリした。いったい、どれほどの大木を用いたものだろう。とかの“雑念”も、ただちにどこかに行ってしまうのだった。そのくらい没入してしまった。
 当初の目的の室生寺「十一面観音菩薩立像」にももちろん堪能ということをさせてもらったのだが、ともかく、これらの展示には、結界は設けられているものの、ガラスなどはなく、明るい照明の下でかなり近くまで寄ったり、横に回り込んだりして心ゆくまで鑑賞・観察できたのが嬉しい。博物館の粋なはからいに感謝し、後ろ髪を引かれながら会場をあとにしたのである。
 この展示は9月23日まで。ああ、また行きたい。ゆっくりと。
つづく→
暑い夏 その3
2019-08-23
ビニール製の「ポケット」に1973年の「点展」での布製の巨大な「ポケット」の写真が収められた作品がとてもいい、と思った。長さんの映像は全部を見ることができなかった。
 なぜなら、さらに南下して「小田原宿なりわい交流館」に移動し、その二階を訪れなければならなかったのである。太田曜・川口肇・水由章、各氏の実験映画作品を見たかったのだ。開始時間に間に合ったものの、なんとびっくりしたことか。
 そこは、冷房のない部屋だった!
 ムッチャ暑かった。が、三者三様の作品は、とても面白かった。
 今もフィルムにこだわって映画を作り続ける三人が、冷房のないスペースで、暗幕の代わりの布を自分たちで窓に張りスクリーンを準備し映写機を操作し座布団を並べ団扇や氷や冷たいお茶の用意までする。司会進行も資料の配布も全部自分たちでやる。
 観客は決して多いとは言えない。しかし、というか、だから、というべきか、作品は素晴らしかった。とりわけ、独特な方法で多重撮影し自分で現像したというフィルム自体まったく無編集の水由氏の作品。それが捉えていた光の多様な表情には本当に感動させられた。手元のノートにメモしながら撮影後フィルムを巻き取り、メモを見ながら撮影しメモをする、これを4〜5回繰り返して得たのが水由氏の作品だ。絶えず偶然が介入しているはずが、厳密な計算に基づいて厳密に作られているようにしか見えず、ものすごい完成度である。私は実に満足して帰路についたのである。あ、八田作品資料などの搬出もしたけど。
 ともかく、こうして小田原という街の自主企画の「ビエンナーレ」でいくつかの作品の現物に直接まみえる機会をこうして得て、作品に触れることができるのは他にかけがいがない、と確信したのだった。そうした機会=場を作り上げる労力がとても大変なのは理解しているつもりでいる。飯室氏に敬意を表したい。
 そして、蛇足を承知であえて述べておきたい。
 テロ予告めいた「脅迫」があろうが、“危ない”企画であろうが、やると決めたことはやる。「脅迫」に負けない態勢をも整えておく。それが展覧会を組織・運営すると決めた立場の者の責任というものであろう。
 見る側は、多少のリスクを抱えても(つまり時間とお金がかかるということだが)見たいものは見に行く。なぜか?
 現物を実際に見なければ始まらないからだ。こんな当たり前のことを書いているのが悲しい。
                        (8月22日、東京にて)

 ●小田原ビエンナーレ
2019年7月31日~8月26日 https://rarea.events/event/59059
暑い夏 その2
2019-08-23
さて、「あいちトリエンナーレ」に比べれば、もっともっとちっぽけな「ビエンナーレ」の話だ。
 「小田原ビエンナーレ」。
 美術家の飯室哲也氏が中心になって実行委員会を組織し、小田原市の人々の協力を得ながらの自主企画・自主実施の展覧会である。2012年にプレ展を開催し、2013年から隔年で開催してきた。だから今年で4回目。参加作家は少しずつ変化して、小田原市内の画廊や施設などを会場にしてきている。私は2015年の「感性の磁場」と題された展示を見に行ったことがある。小規模で地味だけどなかなか面白く、興味深く見た。
 昨年、私は飯室氏から、故・八田淳氏の若き日の映像作品と、ある作品写真の出品とを求められた。故・八田氏の作品や資料は今私が管理している。もちろん快諾した。
 八田氏は晩年、旅行先の世界各所に座り込んで膝の上の画用紙を継ぎ足しながらそこから見える風景を360度鉛筆でスケッチしたり、拾った針金で作った富士山の輪郭線の形状の「八田フジ」を入れ込んだ写真をやはり世界各所で撮影したりしていたのだったが、2015年にガンで亡くなってしまった。その「八田フジ」が八田作品に登場した最初の作品写真とそれ以前の取り組みの一端を示す映像作品を、と所望されたわけである。確かにこれらはほぼ知られていない。
 八田氏は、八田の「八」と「w」と組み合わせれば「富士山」になるじゃないか、と1975年に気づいて、これは作品に使える、とひらめいたのだろう。その後40年間ほどをその「八田フジ」を自分のトレードマークのようにして、様々に変容させながら自分の作品に登場させてきたのだった。飯室氏の、二つのリクエストの理由は分かる気がした。
 前もって八田氏の作品資料のファイルとDVDになっている映像を飯室氏に届けて、搬入日に額装した写真を会場に届けていた。
 
暑い夏 その1
2019-08-23
夏は暑いに決まっているのだが、それにしても暑いのである。加えていろんなことが起きる。
 例えば「あいちトリエンナーレ」の中の企画展「表現の不自由展・その後」をめぐる出来事。心ない者たちの「脅迫」によって、運営を担う人々がその企画展の展示を中止した一件である。この判断が、様々な波紋を生んでいる。
 公の組織が責任を持って企画した展示。その展示に対して、テロ予告に近い「脅迫」をされた。であれば、普通考えるのは、「脅迫」してきた者を捕まえることと、観客やスタッフの安全確保や展示作品の保全のために必要な態勢(厳重な荷物検査、警備員の増強など)を整える、ということだろう。だから、その態勢が整うまでの間、例えば会場を閉じることで対処する、というのは「あり」だ、と私は思う。態勢が整えば展示を再開・継続する、たとえ異様な状況(荷物検査の長い行列ができるとか、観客より警備員がたくさんいるとか、順路が厳しく制限されるとか、作品が防弾ガラスで囲われるとか、などなど)が生じても安全第一、観客には我慢してもらう、そして企画した展示はきっちりと行う、運営する立場ならこれが当たり前ではないか。
 ところがそうではなかったのである。運営する人々は、結局、展示そのものを中止することにしたのだった。
 これって何? じゃあ、いったいなんのための企画だったの? この事態は本当に「表現の不自由」あるいは「表現の自由」の問題なのだろうか? 
 私は違うと思う。それ以前の問題だろう。
 何よりも、荷物検査や警備増強など、「脅迫」に対抗するに必要な態勢を毅然と構築する予算枠がなかったのではないか、と私は“邪推”している。つまり、物議を醸すことが当然予想される作品を集めた企画を実施したにもかかわらず、それに伴って生じることが予想された事態について、運営側のあらかじめの読みと対策が甘かった、ということではないか。
 展示作品についての議論はどんどんやればよい。展示企画についての議論も同様だ。展覧会はそのためになされる。しかし、作品展示あっての話である。   
 展示そのものが閉じられてしまえば、情報の断片だけが一人歩きし始める。たとえば、いったい何人の人があの話題の「平和の少女像」の実物を実際に見て鑑賞したのだろうか? あの作品(今回展示されたと伝え聞く着彩された樹脂製の彫刻作品の現物)をあの会場で実際に見たなら、どこがどう優れているなど具体的な作品の話を始めることができる。他の出品作品についても同様だ。それこそが展覧会の意義だろう。しかし、この企画展で見ることができたはずの作品の話は、当面、できそうもなくなった。運営側が会場を閉じてしまったからである。残念なことである。
つづく→

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