

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
お相撲、千秋楽
お相撲=九月場所が終わってしまった。
結局、今場所はカド番大関だった貴景勝が11勝4敗で優勝。優勝決定戦では、立ち会いで頭を下げて突進する平幕熱海富士を左にかわしながら熱海富士の頭を押さえつけて土俵に這わせる、という相撲をした。突進した熱海富士の側からすれば、はるか格上の貴景勝は自分の当たりを真っ向から受けてくれなかったわけである。テレビに映し出された熱海富士はとっても悔しそうだった。
大関になってからの貴景勝が、ケガ続きでいかにも大変なのは理解できる。関脇大榮翔を相手に真正面から戦って勝利し、そのまま時間を置かずに臨まねばならなかった優勝決定戦だ。相手は若くて勢いがある。心を鬼にして勝ちにいった、ということだろう。本割りでは力の差を見せつけたわけだし。
とはいえ、テレビの前でぐうたらしながら観戦する私のようなものには釈然としない気持ちも残る。野次馬とはいかにも勝手なものだ。
それにしても、お相撲の世界は大変な世界である。どの力士もむっちゃ強そうで、実際にむっちゃ強い。そして、誰もが熱心に稽古して鍛え上げる。実にひたむきである。全てをお相撲に捧げている、というように見える。貴景勝の優勝インタビューはそんなことをあらためて感じさせてくれた。
幕内の土俵入りを見ていると、こんな人たちの中で戦って、抜きん出るのはいかにも大変だろうなあ、と思う。ゾッとするくらいだ。十両の土俵入りならどうか、と見てみても同じように思う。では、幕下ではどうか。
幕下に土俵入りはない。NHK-BSで午後一時からの相撲中継を見ると、三段目くらいからの取り組みを見ることができる。これを見ると半日が全て潰れてしまうが大変勉強になる。幕下はもちろんのこと、三段目だからといって、手抜きの相撲は一番もない。互いに精一杯ぶつかり合って懸命に相撲をとっている。三段目よりさらに下位の序ニ段、さらに下位の序の口でも懸命さは変わらないだろう。そういう人々が勝ち負けでしのぎをけずっている。すごい世界である。
そんな中で頭角をあらわし、幕下、十両、幕内と登って行って、登るだけでなく落ちたり登ったり、怪我をしたり、治ったり治らなかったりして、その都度格付けされる。お相撲は番付社会なのだ。だから、三役、横綱と簡単に言っているが、これはもうとんでもない人たちなのである。尊敬ということに値するだろう。
尊敬、ということでは、例えば今場所三段目優勝の北播磨。の言葉に感動した。今年37歳で、登ったり降りたり、今三段目の北播磨は「相撲がますます好きになった」というのである。
コラムINDEX
セザンヌを見に永青文庫に行った
家人が情報をくれたのである。永青文庫で今やってる「細川護立の愛した画家たち」展に初期のセザンヌの絵が一点出てるって、24日までだよ。
なので、ありえないほどの残暑にもめげず、都バスの「椿山荘前」バス停に降り立ったのである。バス停から少し歩いたが、矢印のついた“標識”があって、永青文庫まで迷うことはなかった。が足取りは重かった。筋力の低下か? まずいぞ。
チケットを買い終わると、4階からご覧ください、と受付のお姉さんが言った。エレベータで4階まで登った。
4階会場には順路が示されていて、安井曽太郎のパレット(サイン入り)の展示から始まっていた。満州の喇嘛廟を描いた絵やデッサンや安井から細川宛の手紙など数点。中に横山大観を描いた肖像デッサンがあって、説明文に戸惑ってしまった。当時人気の画家たちが集まって、横山大観の肖像を描く会を何度か行なった、というのである。横山大観を皆で描く、その意味が分からない。安井も細川からの呼びかけに応じて参加し、きっとぶつぶつ言いながら描いて、頭部の周囲に、えいっ! とばかり緑色を塗りつけている。安井とか梅原とかになると、「古池や、、、」みたいなもので、優れているのかどうか分からなくなっている自分が悲しい。
そして、セザンヌである。「登り道」と題されたその水彩を見たことがなかった。わざわざやってきて入場料を払っただけの値打ちがあった。横長の絵である。絵に見入ろうとしていると、私より先に入場していたと思われるご婦人同士の会話の大きな声に気づくことになった。
たまらず声の方に目をやれば、梅原龍三郎の「紫禁城」の前で、ちょっとおしゃれをしてきた様子の三人の老婦人が、楽しそうに鑑賞ということをしている。誘い合わせての久々のハレの日で、きっと互いに耳が遠いのだろう、だからつい声が大きくなっている、と考えた。それにしても声が大きい。大きすぎる。
大きな声で互いに感想を述べ合い、知識の“ようなもの”を披露し合い、連想ゲームも行なって、それが果てしなく続く。いわゆる“マウントの取り合い”である。堪忍してほしいが、そのうちにこの部屋から出て行って下の階へと移動するだろう、と思って我慢した。我慢したが、セザンヌの絵には集中できない。しょうがないので、絵から離れて、高見澤忠雄という人が取り組んだというそのセザンヌの絵の複製の制作過程を見たり、武者小路実篤から細川宛の手紙を読んだりしていた。
「ウポポイ」に行ってきた
私はJRに縁もゆかりも利害関係も何もないが、「大人の休日倶楽部」というのがあって、私どもは夫婦で“会員”である。吉永小百合さんがCMやポスターに登場するアレだ。その「休日倶楽部」メンバーを対象に五日間乗り放題の格安チケットが販売されているのを家人が見つけたのである。家人は、このチケットなら用事が済んだら鉄道で北海道のどこにでも移動できるでしょ、と言った。北海道までの行程も割引対象だったので、ふだんなら飛行機にするところだが、えいっ、と新幹線に乗り、青函トンネルをくぐり、在来線にも飛び乗って、用事を真っ先に済ませるべく頑張ったのであった。
用事を終えて“自由”になった次の日は、「台風13号」の影響で北海道にも断続的に土砂降りが襲っていた。ならば屋根のある「ウポポイ」に行ってみようではないか。ずっと気になっていたし、傘も持ってきたし。
白老(しらおい)駅に降り立つと、ちょうど雨は小降りになっていた。駅も駅周辺もとてもきれいに整備されていて驚いた。件の用事のために訪れた倶知安(くっちゃん)、各駅停車の乗り継ぎのために生じた時間を駅から海まで往復しながら駅前の様子も見物した長万部(おしゃまんべ)、宿をとった登別(のぼりべつ)。これらの駅前の寂れた感じに比べれば、白老は国立の「ウポポイ」が開設されたからだろうか、別格といえるほどの整備のされ方だった(倶知安などは数年後には北海道新幹線の停車駅になるそうだから、時を経ずどんどん整備されていくのだろう。それが良いことなのかどうか、私には分からない)。
白老駅から「ウポポイ」までの遊歩道では、雨がほぼやんでいた。遊歩道の脇の野草たちが瑞々しかった。可愛らしい花々でいっぱいの野草もあったが、名前がわからない。朝ドラの「万太郎」のようにはいかないのである。
遊歩道が終わって、今度は幹線道路沿いを進む。車の行き来が多い。「ウポポイ」は道路の向こう側。が、歩行者が横断するための信号機がない。かわりに(?)人々が道路を横断するあいだ車をとめていてくれる交通整理の年配の男性が旗を持って控えてくれている。安心して道路を渡ると、「ウポポイ」の敷地入り口にも年配の男性が控えていて、こっちです、と案内してくれた。
「ウポポイ」敷地内の、最初のアプローチに設営されているコンクリート製の壁の構成に意表を突かれた。特別な場所へと誘われている感じが巧みに演出されている。コンクリート壁の表面には、北海道の原生林に入り込んで動物や鳥たちに出会ったかのような画像がかなり精巧に仕込まれている。勉強不足で、どうやってこの画像を作ったものか、わからない。わからないが、壁の上部に姿を見せるまだ小さな樹木が、やがて大きく育ってコンクリート壁と絶妙なコントラストを作り上げるのだろう。
入場券を購入して、「国立アイヌ民族博物館」の入り口でビニール袋をもらって中に濡れた傘を収めた。一階にショップ。エスカレータで2階に上がると、大きな窓からポロト湖を含む辺りの景色が一望できる。しばらく堪能ということをして展示室に向かうと、多様な北方民族の人々が映像で出迎えてくれる。彼らの中からアイヌの男女が出てきて、展示場入り口まで案内してくれる。映像が観客の動きに同調するので驚いた。
百人町のWHITE HOUSE 東京ステーションギャラリー
そんな日々の中、この際、近頃耳にしてきた新宿区百人町のWHITE HOUSEに行ってみるべか、と重い腰を上げた。
そろそろ涼しくなっているのではないか、と期待して、じきに夕方になろうとする新宿駅に降り立てば、残念、まだまだ充分暑い。北方向に進み、靖国通りを渡る。昼も夜も、一日中、いや一年中、どんな時も多くの人々でごった返している歌舞伎町を突っ切り、職安通りを渡って左折しJRや西武新宿線の方向に進む。線路手前の一つ、二つ、その二つ目の小さな道を右に入ると、すぐ右側に写真で見たことがあるWHITE HOUSEの建物が見えてきた。美術家のあの故吉村益信氏のアトリエ兼住居だったところである。
この場所が、1960年代に、あの「ネオ・ダダ」やその周辺の人々のアジトのようなところで、建物の設計があの故磯崎新氏だったことは、美術に関心ある人であれば誰でも知っている(はずである)。
とはいえ、私は、この伝説的な建物が残っていたことを知らなかった。若い人たちが、すっかり痛んでしまったこの建物に着目し、手を入れて、”再生”を試みている、ということをどこかで知った。
若林奮を見にもう一度ムサビに行った
が、思い立って、午前中の「鷹の台駅」に降り立ち、玉川上水脇の遊歩道を木漏れ日を浴びながら進んだ。ムサビの「若林奮 森のはずれ」展が数日後に終わってしまうので、その前にもう一度見ておきたかった。
会場一階「アトリウム1」に10点並ぶ「Daisy」にすでに圧倒されている。先に訪れた時、何を見ていたのか? と出会い頭で呆然とした。一点一点が実に丹念に作り込まれており、それぞれ表情を違えている。そして、整然と並んだ展示が、一点一点のその表情の内奥へと分け入ることを促してくる。あるものは、分厚い鉄の板材の溶断の跡と研磨して作り上げたエッジまでの盛り上がりとで絶妙な垂直線を形成している。そのことに気付かされ、その垂直線(=稜線)が上と下とで、内側に直角を抱えた水平線に分岐するはずのところで正三角形に断ち切られていることに改めて気づいて、「彫刻」としか呼べないその様子に長い時間目を凝らしたりした。さらに、直立する4×10、40の面は「絵」のようである。絵の具を用いない「絵」。おそらくは、熱の“絵の具”。背の低い私には、近いところから上面が見えないが、それぞれに施された”細工”には、紅殻、胡粉、黄土という物質が解かされているという。2階アトリウムや階段やスロープからそれらの”細工”や色は見ることができる。また、クレーンで移動するためだろうか、上部に小さな穴があいていることに気づいて覗き込むと、向こうの作品の奥の奥の方まで見通すことができた。展示の技量の確かさに驚かされることになった。
何もはかどらない日々
古くからの知り合いだった写真家・森岡純氏がひっそりと亡くなった。森岡氏は1970年代半ばあたりから、創形美術学校での師であった美術家・高山登氏の作品を撮り始め、高山氏から叱られながら写真のあれこれを身につけ、まずは森岡氏周辺、高山氏周辺の美術家たちから依頼されてさまざまな美術作品を撮影するようになった。以来ずっと、美術作品の撮影のかたわら、自分自身の写真を撮るためにカメラを持ってあちこちを歩くというスタンスで活動してきた人である。作品写真では私も何度かお世話になった。
それよりも何より、思い出深いのは、森岡氏が自分のために撮った写真の多くが、どことなく貧乏そうな風情に満ちた建物などを対象にしていたことである。それらは彼の個展で発表された。
実は、拙宅の玄関の戸を開けたら目の前にカメラを持った森岡氏がいたことがあって、拙宅のあたりをよく徘徊して撮影している、と聞いて苦笑させられた。以来、何度か拙宅を訪れてくれた。ろくな「おもてなし」もできなかったけど、、、。
森岡氏は16ミリ映画も作ったことがあって、それはスジも何もないような映画だったけど、なんと拙宅を捉えたシーンもちゃんと含まれていた。
そんなわけで、拙宅は、結構気に入った彼の被写体だったようである。ということは、拙宅がどういう建物か、すっかりバレてしまうがやむを得まい。
とはいえ、近年の拙宅近辺の変化は凄まじく、大きな道路が開通し、それがさらに先まで整いつつあり、ビルが立ち並び、森岡氏の徘徊に適する場ではなくなってしまった。もうフジムラさんの家のあたりには行かなくなった、と彼もだいぶ前から言っていて、そんな時は、なんだかとても寂しい気がしたものである。
そういうわけで、しばらく会っていなかった。
火葬場からの帰り、ふと思い立ってムサビに行った。「若林奮展」。たまたま道筋が“合理的”だった、という以外に火葬の日に訪れた意味はない。
かなり大掛かりな展覧会で正直驚いた。さすがムサビ、というべきか。会場に奥様の淀井彩子さんらしき方の姿があったが、面識もないのでお声がけなどしなかった。私は内気なのである。
会場のムサビ図書館の一階には「Daisy」のシリーズのうちの二つの連作が10点整然と並んでいた。その右奥の部屋に「所有・雰囲気・振動ー森のはずれ」。階段を登ると真っ白な空間に
黒の不定形が浮いていた(タイトルを失念)。壁に平面。隣の部屋では「森のはずれ」の修復についての映像。別の部屋には「振動尺」のシリーズ。回り込んだりしゃがんだりしながらさまざまに見入る事ができる。そして、デッサンなど各種資料が手際よく並んだ部屋。
以上のように構成されていて、大変見応えがあった。とりわけ、パリ留学から帰国後の若林氏が、彫刻をゼロ地点から考え直すために、抽象化された手指を携えた「振動尺」や、六畳間ほどの鉄の部屋、これらが若林さんにはどうしても必要だった、ということがとてもよく伝わってきて、感銘を新たにした。
「Daisy」のシリーズなど、エッジの扱いひとつで、一見した時は、幾何学的でシンプルな形状が、明らかに「彫刻」へと変じてしまっている。そんなことはわかっていたはずなのに、目の当たりにすると改めて驚かされたのである。二階への階段などから一階フロアを見下ろすと、「Daisy」の上部には謎めいた形状と色が仕組まれていて、ハッとさせられるが、一階に降りて近づいても、チビの私には背伸びしても覗く事ができない。これはやはりイライラする(チビで悪かったわね)。
随分長い時間をムサビ図書館で過ごしたと思う。
帰路、バス停で、友人の見送りであろうか淀井彩子さんらしき人が再びおられたが、やはり気後れしてお声がけなどできなかった。
その後、家人と落ち合って、国分寺・児嶋画廊での「エマニュエル・シャメルート」展に行った。この人が亡くなった、と知らされた時にはほんとにびっくりした。何年か前に、ずっとパリに住む若い友人の細木由範氏が作品展示をする、というので家人と一緒に見物に行った事がある。その展示がエマニュエルとの二人展だった。ふと目があったエマニュエルの焼き物の作品に囚われて、細木氏が案内してくれたエマニュエルのアトリエで、あれがほしい、と言ったら、快くオッケー(あ、ウィだったかな)、とっても安く譲ってくれた。その作品をお貸ししたので今回展示されているはず。そんなこともあったし、エマニュエルの奥さんのリリアンさんが来ている、というので、苦手なパーティーの日に行ったのだが、すでに飲み食いしている人たちでごった返していて、私にはとても耐えられず、初対面のリリアンさんにちょっとだけ挨拶して、すぐに帰ってきた。
これが一週間前である。随分歩いた日だった。
世田谷美術館への行き方を忘れてしまっていた日
わざわざ知らせてくださったんだ、ありがたいなあ、楽しみだなあ、と思ったのだったが、その後ボヤボヤしていたらとっくに「麻生三郎展」は始まってしまって、明日は行くぞ、明日こそは行くぞ、と思っているうちに、会期の残りが一週間になってしまった。
で、雨の日曜日の午前中、家人と共に用賀駅に降り立つと、家人はこの先はバスで行く、と言う。美術館行きバスは一時間に一本だけで、しばらく来ないのが分かった。成城学園駅行きが来たので小田急線方向に行くのならこれでもいいはず、と当てずっぽうで乗り込むと、家人は運転手さんに、美術館に行くにはどこで降りるのかしら? とか何とか聞いている。運転手さんは、えと、砧、、、かな? と自信なさげに言っているのが聞こえた。
バスを降りたところは初めての道筋にあるバス停だった。やむを得ず、時々見える清掃工場の煙突を目印に歩き始めた。じきに案内板が見つかってその矢印に従って行く。つまり、どのバスに乗ればいいのかすら忘れてしまっていたのである。とは言え、初めての道筋をしばらく歩いて何とか公園に辿り着けた。緑が美しかった。
麻生三郎の大きな展覧会は東京国立近代美術館以来、十数年ぶりである。
その間にOさんと知り合った。ある日、Oさんがきちんと額装された麻生三郎のペンデッサンを貸してくださった。本物だ。貸してくださったいきさつは忘れてしまった。運河べりの風景が描かれていた。せっかくだから、と模写してみると、現場でいかにも素早く描かれたかのようなその風景のデッサンが、微細な点の一つ一つに至るまで、実に構成的な意志を伴って描かれていることに気がついて驚嘆した。す、すごい!
模写に「ASO」のサインを真似て「ASSO」と書き込んでおどけ、驚きをごまかした。その模写をしまい込み(行方がわからない)、Oさんにオリジナルをお返しした。その時以来、麻生三郎は特別な人になった。
会場に足を踏み入れると、1948年の「子供」という絵から始まる。その年の暮れに三軒茶屋にアトリエを構えたという。1972年に生田に移るまでの間の仕事が今回は紹介されている。世田谷、というところに着眼しての企画。
1948年、49年、50年と、しばらくの間は娘さんや奥さんがモデルになっていて、背景が黒い油絵が続く。キャンバスの表面が波打っていて、さらに照明で光って、よく見えない。見えないが、黒と言っても単純な黒さではない。厚くなってもなお重ねられた塗り込み、黒さの中に多様な色相が混入しているのが発見できる。一見、アクセントのように朱が与えられたりもするが、アクセントだけの役割にとどまることはない。ある種の象徴性を帯びて、麻生三郎の絵の中に繰り返し現れ出てくる。空襲の火の色か? また、画面の上下に帯状の枠のような領域が現れ出ることがある。これが興味深い。
1950年の「裸A」や1951年の「ひとり」では腕や手の表情が実に巧みである。手や足、目の表情が大きな役割を果たすのは麻生三郎の絵の一貫した特徴だろう。
1953年「母子」を見ていると、額縁にごく小さな虫がついていて、しかも少しずつ動いているのに気がついた。虫を見ていると、やがて額縁を越えて画面上方に”降り立ち”、少し動いては止まり、動いては止まる。監視のお姉さんを手招きして、虫のことを“告げ口”した。お姉さんに、ほら、この辺りに、と言うと、あれま、ほんのちょっとの間に虫の姿が消えていた。お姉さんと並んで虫を探していると、いた。上辺右隅の「ASO 53」のサインの「0」のところにじっとしている(ここも帯といえば帯になっている)。お姉さんも、あ、と言って、学芸員に知らせます、と言う。学芸員はこの虫をどうするのだろう、と思ったが、あとはお姉さんに任せて鉛筆を借りて一旦その場を離れた。
花を描いた絵が登場する。朱色の上と下の帯状の枠が花の絵では四辺に延びようとしている。
振り返るとデッサンがある。
ちょっと進むと土門拳が当時麻生家を撮影した写真パネルがある。
諏訪市美術館に立ち寄ってきた
この美術館には、1994年に63歳で亡くなった彫刻家・細川宗英氏の彫刻作品が多数常設展示されている。以前、全館を使っての回顧展が開かれたときにここを訪れたことがあった。
その時も、1953年作の「F嬢の首」という最初期のブロンズの作品に大変な感動を覚えたが、今回、再びまみえて、感動を新たにすることになった。もちろん他の作品群も彫刻に素人の私ごときが何事かを述べうることなどできず、そんなことから、はるかにとび抜けた問題意識で貫かれている。それだけはわかる。ともかく、最初期の作品がこれなのだから、口あんぐりなのである。
顎をやや前方に突き出した頭部、暗示される両方の肩の方向から右へとわずかに捻りながら頭部を支える首、頭部の正中線は直線状ではなく緩やかに揺れ動いて、眼窩、眼球、瞼、頬骨、小鼻、口元‥、と連動しながら顔の作りに微妙な動勢を生じさせ、図式的・機械的なシンメトリーから隔たって、生き生きした表現に至っている。「彫刻」ならでは表現である。細川氏は1930年生まれというから、当時23歳。若くしてこれだけの力量を示しているのだから、あとはどうなっちゃったんだろ? と思うのが自然というもの。その答えは、これを読んでくださっている方々が、諏訪を訪れて体感なさる意外になさそうである。
ともかく、日本という風土の中で「彫刻」を、とりわけ粘土や石膏、セメントといった素材による“モデリング”で、どう成立させ形作るか、という問題を抱えながら、果敢に「彫刻」と取り組み続けた、と言えるのではないだろうか。諏訪市美術館が常設展示するにふさわしい稀有な作家であろう。
美術館一階の半分ほどのスペースを占有する細川作品群を巡り終えて、次のスペースに移動すると、不意をつかれるように大沼映夫氏の2003年の油画「遊人」に出くわした。そして、つい長い時間没入した。
「大沼映夫氏」とかクールに書いているが、私の学生時代の恩師ともいうべき人である。つい最近、求められて、川俣正氏の1983年作品、札幌での「テトラハウスN-3 W-26」について長い文を書いて、その時に大沼氏のことにも触れたばかりだった。
今回予期せずまみえた「遊人」は、「ライフダンス」と呼ばれるシリーズのうちの作品で、比較的小ぶりな大きさである。「ライフダンス」のシリーズは、発表の当時にたびたび見ていたが、ほとんどちゃんと鑑賞してこなかったことが分かって、その不覚さを恥じ入るほどだった。
多くの人間の姿が線の要素で示されているが、頭部を上から捉えた形状を丸で描いている以外に閉じた形状がない。白い色面のあちこちに人体の形状を暗示する幅広の線が配され組み合わされているが、線が閉じることがないので、オールオーバーと言ってもいいような要素を含んだ作りである。
が、白の色調が尋常ではない。白を筆で塗り付けた複雑な痕跡がマチエールの差異を示して複雑な調子の変化を生じており、そこに極めて微妙に変化する色彩の配置さえをも感じさせる。出会い頭には“黒さ”と感じさせられた微妙な肥瘦を含んだ幅広の線が、実は実に複雑な色相の重なりで成り立っていることがみてとれ、その線の傍らに赤や青や黄色の色相が寄り添っていて、それぞれが画面全体に震えのような影響を及ぼしている。極めて知的に構成された、しかも色彩への超高感度の感性に支えられた画面であるのがよく分かって感嘆することになった。
今年90歳になられたというが、先の国画会でも、新作2点を展示して果敢な挑戦を続けておられ、私はもう随分お目にかかることも無くなってしまったが、またまた、叱られているような気がした。私もとっくにもう爺さんなのに、眉毛や耳から長い毛が伸びていたりするのを見つけてびっくりしたりするのは、いつまでも学生気分が抜けない証拠だ。が、こればかりは如何ともし難い。
「マティス展」をみた
いつの間にか、マチスは「マチス」ではなく「マティス」と表記されるようになったみたいなのだが、私としてはやっぱり「マチス」と言わないと“感じ”がでない。中学や高校の「美術」の教科書で「マチス」と覚えたからだろう。今の教科書でどう表記されているか知らないが、大昔、学生だった頃に出版されたのを買って、今も仕事場の書棚にささっている本は『マティス 画家のノート』(二見史郎訳、みすゞ書房、1978年)と「マティス」となっている。なので、1970年代の終わり頃には「マティス」と呼んでいたようでもある。では、いつから、どなたがどこで「マティス」と呼び始めたり表記し始めたものだろうか? そして、それはなぜ? と、こんなことが気になるのは“病気”の兆候かもしれない。近頃、何をやっても集中力の極端な低下が自覚されるのは、年齢による衰えや隣の解体撤去工事の騒音や揺れのせいだけではないのではないのか? やばいぞ、、、。と、あ、ドンドン話の筋というものが脇にそれて行ってしまっている。モンダイは、そういうことではなくて、「マティス展」なのである。
都美館に向かいながらドキドキしていた。予約が必要だ、というのだが(ホームページとかで)、見物の予約をしていないままなのである。予約以外にも少し当日券がある、というので、当日券はすでにもう売り切れた、と断られるのを覚悟して出かけて来た。こんなことにドキドキしてしまうのも“病気”の兆候かもしれない。
都美館の窓口に直行し、当日券はありますか、と尋ねたら、ラッキー、オッケーだった。加えて老人割引が効いてお安くなった。近頃、展覧会の入場料が高くなって、とってもつらいので助かった。とっても嬉しかった。
展示は1900年作の油彩「自画像」から始まる。画面向かって左側の紫の色面の広がりが印象的だったが、今回この展覧会で展示されたマチスの最初期の作品は、次に登場した1895年の油彩「読書する女」だった。マチスは1969年北フランスの生まれだから、26歳の時の作品だ。
マチスは、1887年から翌年にパリに出て法律を学び、そのまま帰郷して「代訴人見習い」という仕事をしていたが、1890年に体を壊して長期療養し、その間に油彩画を始めて夢中になった。1891年に再度パリに出てきて、アカデミー・ジュリアンでフランス・アカデミーの大親分のあのブーグローに教わり、ボザール(国立美術学校)の受験に備えたものの、1892年の受験には失敗、国立装飾美術学校夜間部に通ってマルケを知った。その年から、あのモローのアトリエにも出入りしつつ、ほぼ毎日ルーブル美術館で模写をして過ごした。1893年にはサン=ミッシェルの河畔のアパートで女性と住み始め、1894年に長女誕生。1895年からボザール(国立美術学校)のモロー教室で学び始めた。1896年には同居してきた女性と離別(長女はどうなった?)。その頃描いた中の一枚が「読書する女」なのである。
有名な絵である。マチスの画集には大体収録されているが、実物は初めてみた(ように思う)。画集で知っていた絵とは全く違う印象で、あれま、ずっと騙されてきた、と思った。まず、大きさの印象。そして色。実にしっとりとしている。筆触などもありありと見て取れる。当時の若いマチスがそこに息づいている。
私は、生活のためにパース(透視図法によるさまざまな完成予想図)と呼ばれる特殊な絵を描いて収入を得ていた時期があったので、パース的=図法的・作図的な形状の“狂い”が気になってしまう悪いクセがある。この「読書をする女」では、それがとっても気になる。
例えば、画面に向かって右に広がる茶色い壁と床との境界の斜めの線的な形状である。壁に懸けられた二枚の額縁の形状から見れば、壁と床との境界線はもっと水平に近いはず。これでは斜めになり過ぎではないだろうか?
さらに、女性が座る椅子の足と床との関係。向かって右側の足が床と接する位置は曖昧過ぎないか? また、女性の腰は小さ過ぎないだろうか、膝の位置、上すぎではないだろうか?
そしてさらに、中央左側の茶色いキャビネットと床との境目の斜めの線の具合も斜め過ぎないか? 、、、といった次第。
はっきり言ってどうでもいいことである。明暗を基調にした色の組み立て、色どうしの関係はとってもきれいなのだから、若きマチスの確かな力量は十分に伝わってくる。
確かにこの「読書する女」という絵は、どこといって取り立てて言うべきところはない。ないが、私がつい気にしてしまうパースの“狂い”は、“狂い”ではなく、ワザと、確信犯的になされたものではないか、と思われてくる。そのくらい色の魅力がある絵である。
アクセント的に挿入され、各所に位置付けられているさまざまな白さが確認できるが、それらの明度の高い不定形の散らばりと微妙な調子は的確で、単にアクセントの役割を果たしているだけではない。また、キャビネットの上面に置かれたツボに与えられた鮮度の高い緑やキャビネットのこれも鮮度の高い茶色。さらに、それらを両側から挟み込んで支えるくすんだオリーブ色と茶系の広がり。つまり、左の模様のある壁の色やキャビネットにかけられた布やカルトンの色と、右の壁、それからキャビネット、椅子や床の色との関係。これは、大まかに補色関係である。そこに、女性の髪、リボン、襟、衣服、グラス、額縁といった不定形の黒さが配され、先に述べた不定形のさまざまな白さも配されて、相互に絡み合っている。さらに、マチスに特徴的な「画中画」の要素の萌芽も伺えて実に興味深い。この時期やもっと以前の時期の油彩やデッサンはもっともっと見たい。
同じ年に描かれた油彩「ベル=イル」があった。ブルターニュのこの島へと旅行したのであろうか。ある種の解放感に支えられた決然とした意志がみうけられ、この絵には、すでにもうマチスが成り立ちつつある。驚異的な飛躍だと言っていいだろう。固有色へのこだわりはすでになく、陰影の表現はなされているものの、それは色相互の関係でなされている。こうなってくると、もうパースのことなんか気にならなくなる。空に明るく広がる雲の切れ目から覗く青空の不定形の“伸び”が筆触や絵の具の物質感を強調して実に大胆だ。「フォーヴィスム」はすでにもう準備万端、といったところだろうか、セザンヌをよく咀嚼していることが伝わってくる。
同様なことは、会場の入り口に展示されていた「自画像」(1890年)や「サン=ミシェル橋」(1890年)「チョコレートポットのある静物」(1900ー1902年)「べヴィラクアの肖像」(1901ー1903年)でも言える。
とりわけ「チョコレートポットのある静物」は西陽が差し込んでいるのだろうか、小ぶりな椅子のようなものの上に皮表紙の大きな書物が横たえられ、その上に果物らしき球体と銀製のチョコレートポットが置かれているところを描いたものだ。銀器の表面には周囲の物たちが映り込んでいる様子を描いているが、それらの周囲には左側にフレンチカンカンの女性を描いたらしき絵が立てかけられていたり(画中画)、半開きの扇らしきをあしらった暖簾のようなものが下がっていたり小物入れの箱が置かれていたりしている。そして陽を受けた絨毯であろうか、椅子の下方に思い切った緑色を塗り込めたり、本の小口のところに向けてホワイトをナイフで衝突させたりして画面に“喝”を与え、他との関係を作り替えつつ全体を引き締めようとしている。ありふれた何気ない部屋の様子をモチーフにしながら、取り組んでいることはかなり激しい。
1899ー1901年作の彫刻作品「野うさぎを貪るジャガー(バリーに基づく)」もまたマチスの非凡な力量を見せつけてくる。バリーというのは18世紀前半に活躍した動物をモチーフにした彫刻で知られる(らしい)。その彫刻を模刻というか手がかりにして作ったわけである。これがいい。そう大きなものでもないのに、形状がうねっている。もうほぼ抽象彫刻である。
そんなわけで、最初のコーナーでもう息切れしてしまった。地階をめぐるだけでもフラフラになった。彫刻が素晴らしい。もちろん絵も素晴らしい。どれもこれも素晴らしい。ああ、ここ住みたい!
サボっててごめんなさい!
今住んでいる建物の耐震補強工事を決めたので、思ってもいなかった細かなことがいろいろ生じてくる。
拙宅は、古くて、増築を繰り返してきて、ちょっと特殊な、しかし極めて“庶民的な”建物なので、
工務店を決めて、工事の基本的な方針が決まるまでにさえ長い時間がかかった。つい先日、やっと積算に入るところまでこぎつけたところである。建物に住みながら工事をしてもらうつもりなので、それを考えて、今から少しずつ“断捨離”をしていたら、その最中、お隣さんが急に土地建物を売り払って引っ越しをしていった。
仲介の不動産屋さんが挨拶に来て、買主さんはアパートを建てるそうです、と教えてくれた。
今、業者がお隣さんの解体工事をしている。騒音、揺れ、埃、重機や車両の出入り、などなど。実に落ち着かない。解体が終われば、次は新築工事でまた落ち着かないだろう。
さらに、昨今の物価の高騰である。建材も例外ではない。職人も不足している、ということだ。耐震補強工事費の見積もりがどのくらいの金額になるか、ゾクゾクするほどのスリルである。
老いた夫婦には、特別な稼ぎがあるわけでもない。潤沢な蓄えがあるわけでもない。また、家人と私に今のような“普通の”生活ができる時間があとどの位残っているのかもわからない。大きな地震がきても、建物は今のままで持ちこたえるかもしれない。逆に補強工事をしたからといって、絶対に大丈夫、という保証があるわけでもない。今のまま、成り行きにまかせる、という手もあった。それが最も賢かったかもしれない。
とはいえ、工事を決断したのである。工事をしないまま、地震で潰れてしまうことをいつも心配しているより、工事をしても潰れたのなら、「諦め」もつくというものだ、そういう回路で出した結論である。
隣の解体工事は、今日ついに、鉄筋コンクリート製の一階の床と基礎部分の取り壊しに入った。テラスから覗いていると、重機を巧みに操って大変な手際のよさである。惚れ惚れとする。作業しているのはたった一人。大きな重機が2台。
しかし、ずっと見物しているわけにはいかない。私だって忙しいのだ。今日も“断捨離”を続けなければならない。“断捨離”作業をしていると、思いがけないものが出てくる。
家人が怒り狂ったのは、水粘土の山。
昔、ある学校に勤務していた時に、不要になった水粘土をもらって、「赤帽」で運んできた。それをビニール袋に入れて解体中の隣家との境の隙間に置いておいたら、雨でドロドロになってしまっていた。それを久々に見つけた家人から、あの粘土をどうするつもり? すぐに片付けて! と厳命が発せられた。なので、資源ゴミの日にどっさり出したら、こんなものは持っていけません、と叱られた。業者に頼みなさい!
しばらく玄関脇に積んでおいたら、家人が、もうガマンできない!レンガ状の塊を作って乾かせば少しは軽くなって扱いやすいはず、と言って、直方体のプラスチック容器を使ってレンガ状の塊に小分けする作業を始めた。7〜8個作ったところで、疲れた、と言ってその日は作業を中断した。そのまま知らんぷりもできないので、残りは私が作業して、晴れた日に外に出して乾かした。玄関脇にそれが積んである。資源ゴミの日にひとつふたつ、、、と出していけばいつかはなくなっていく、という作戦である。
また、家人が怒り狂った(怒り狂っている)のは本の塊である。学校勤めをしている時に爆発的に増えてしまった。悪いことに、本を置いているところも耐震補強工事が必要だ、と言われてしまった。絶望的な気持ちになりながら、仕分け作業をするが、捨ててしまうことができない。どうすればいいか、頭を抱えている(その後、本の場所は工事しないで済ませる、ということにしてもらったので、少し気が楽になった)。
「小池照男のコスモロジー」AプログラムとBプログラムを見た日
中央線国立駅に降り立って富士見通りを直進、徒歩15分、通りの左側にある「キノ・キュッへ(木野久兵衛)」。今日は昨年3月に亡くなった映画作家・小池照男さんの追悼上映会があるのだ。
小池さんは(とか言っても面識も何もない)、私が最初に知った実験映画=個人映画と言われる“分野”の映画作家である。いつかもここに書いたかもしれないが、やはり映画作家の太田曜氏が教えてくれた(太田氏や黒川芳朱氏は昔からの知り合いなのだ)。というか、当時(と言ってももうかなり前になる、30年以上は経ってしまったかもしれないが)、ともかく当時、日本の実験映画のフィルムをフランスに持っていってフランスの各地で上映会をやるという活動を太田氏がやっていたのだが、その年にフランスに持っていく映画の検品を兼ねた試写をするというので、太田氏の家まで押しかけて見せてもらったのである。その時、私は映画は映画で面白いことをやっている人たちがいることを初めて知って、大変興味を持った。その中に、とっても印象的な作品があった。その作者が小池照男さんだったのである。
その映画は、何が映っているのか全くわからない映画だった。おまけに、映像と一緒に音の何の音か分からないノイズが流れ続けた。試写してくれた太田氏は、「これは神戸のコイケさんという人の作品です。一コマ一コマを撮って作ったもので、そうした作り方をコマドリといいますが、アニメーションと言ってもいいかもしれません。音は電気掃除機の音だそうです」と説明してくれた。
その日には、ついでに「スヌケ」とか「クロミ」とか「セッシュウ」とか「ヤオヤ」とかの業界語も少しだけ教えてくれた。それから、ペーター・クーベルカという太田氏の先生のことも教えてくれた。その先生には「スヌケ」と「クロミ」だけで作った映画がある、というので私はびっくりしてしまった。同じような映画を作った人がいるが(トニー・コンラッドという人だとあとで知った。つい先日その「フリッカー」をようやく見ることができたが、そのことをここに書いた記憶がある)、違った作品になっている、ということを太田氏は言った(どんなふうに違うのか、ますます興味が尽きない)。
私は、コマドリ、と聞いた時、思わず「こまどり姉妹」を思い浮かべたが、そんなことはともかく、コイケさんは8㎜カメラを持って歩きながら時々立ち止まり、レンズを路面に向けて一コマずつシャッターを切っていって、フィルム一本撮り終わったら現像して、映写してみたら面白かったので、それをそのままこの作品にしたんだろう、面白いなあ、と勝手にカンチガイしてしまったのだった。そのまま30数年。
正木さんが送ってくれた資料群(つづき)
榎倉さんのお父様は「行動美術協会」を創立した画家達の一人、榎倉省吾さん(1901年〜1977年)。「行動美術協会」は、戦争時の反省に立って、二科会から分離・独立して、1945年11月に創設された。そのことから分かるように、戦前の榎倉省吾さんは、二科展を作品発表の場に、戦後は当然ながら行動展を主な発表の場にしていた。
榎倉省吾さんの仕事について知りたければ、画集と評伝がある(加えて、世田谷区の「スペース23℃」が不定期にではあるが展覧会をおこなっている)。画集は息子である榎倉さんが編集したもので(『榎倉省吾画集』1980年)、評伝は榎倉さんの義兄の黄田光さんが書いたものである(『心月輪 画家榎倉省吾伝』2001年)。それらを繙けば、榎倉さんのお父様のおおよそのことは分かってくる。そのいずれも、拙宅のどこかにある(はずである)。この際、ここで紹介したいと思っていろいろ探したのだが、今日現在見つからない。これ以上、探し続けるわけにもいかない。
そのお父様、榎倉省吾さんだが、1964年に故郷の兵庫県にほど近い(ま、あまり近くはないが、東京よりは近い)小豆島にアトリエを建て、1967年にお母様と共にそこに移住なさったようである。そこには、東京芸大で学びこれからいよいよ独り立ちしようとする息子=榎倉さんへの配慮もあったのだろう、と私には思われる。
榎倉さんは1968年に東京芸大大学院油画を修了している。東京のお父様のアトリエは榎倉さんに引き継がれて榎倉さんの仕事場になり、その空間を縦横に使って作家活動が始まったわけである。
その当時のアトリエの様子は、1995年の榎倉さん急逝後、1996年に東京芸大で開催された「榎倉康二遺作展」に際して、保科豊巳氏らが編集した図録(『榎倉康二遺作展1964〜1995』東京藝術大学芸術資料館)掲載の1967年前後のアトリエの様子を捉えた複数の写真図版をご覧になられるとよい。また、榎倉さん自身の写真作品にもお父様から譲り受けたアトリエは度々登場している。
正木さんが送ってくれた榎倉さんの資料群
2011年、目黒区美術館での開催のために正木さんが精魂込めて準備した『原爆を視る 1945ー1970』展は、同年3月11日の東日本大震災や福島第一原子力発電所の事故が理由になって、開催そのものが中止になってしまった。彼はもちろん、関係者、さらに展覧会を待ち侘びていた人々だけでなく、この国の人々にとって、まことに残念なことであった(中止に至る経緯は、例えば倉林靖『震災とアート』(ブックエンド、2013年)の「第6回」の中の「幻の展覧会「原爆を視る」に詳しく書かれている)。
私はこの正木さんと1983年の夏の終わりに札幌で知りあった。
1982年夏から84年夏まで、私は訳あって帯広市の実家で“家業”を手伝いながら作品を作っていたのだが、1983年夏、川俣正氏が札幌で「テトラハウス・プロジェクト」というのをやっていることを新聞で知った。ちょうど私も札幌で作品発表があったので、合間にその「テトラハウス」を見物に行った。正木さんは、「テトラハウス・プロジェクト」の仕掛け人だったのである。だから、「テトラハウス」でごく自然に知り合った。でも、その話は省略する。当時、正木さんは開館して間もない北海道立近代美術館の学芸員だった。
その後、正木さんは札幌から東京に戻って(彼はもともと東京の人)、目黒区美術館開設準備室に勤務し、やがて1987年に開館した目黒区美術館を根城に怒涛の大活躍を始めた。これぞ! という時には、美術館に泊まり込むまでして時間を惜しんで仕事に集中していたようである。私も1984年秋から再び東京での生活を始めていたので、画廊などで時々顔を合わせることになって今に至っている(正木さんは定年まで目黒区美術館で勤め上げ、今はフリーで活動している)。
“前フリ”が長くなった。
その正木さんが、先日、ズッシーンと大きな重たい段ボール箱を拙宅宛に送ってくれた。もちろん重いのは箱ではなく箱の中身。私が取り組んできたある調査に役立つかもしれないからこしばらくお貸しする、と正木さんは言うのだった。
箱に入っていたのは、1995年に急逝した榎倉康二さんに関する資料群で、頑丈な分厚いファイルが7冊! 正木さんは、1989年に榎倉さんの初めての作品集=『榎倉康二作品集 KOJI ENOKURA 1969-1989』博進堂)を編集し論考も執筆したので、その時に集めた資料群とのことである。
感謝したとともに恐縮した。これだけのものを集めるにはベラボーな手間と時間とを要したに違いない。早速、ファイルの中身をざっと眺めてみて、私は身がすくむ思いがした。実に整然と整理されているのだ。
なるほど、これはプロの仕業である。
資料はこうやって整理するものなのか、と恐れおののいて、今、少しずつ中を見ているところである。
正木さんが想定したように、“正木ファイル”を繙きながらで、私は、私の調査で今まで見逃してきたいくつかのことに気づくことになった。が、ここではそのことにも触れない。ファイルされた資料群を読みながら、考えたり思い出した榎倉さんのことを書いてみたい。
「試展ー白州模写『アートキャンプ白州』とは何だったのか」展
また、なぜ”送迎バス”だったか。地図で確認なされば分かるが、はっきり言って、この美術館は車でなければとても行きにくい場所にある。私は車の運転が嫌いなので、とっくに車を手放し、車庫だった場所は内部を別の用途(超狭小の古本屋)に作り替えてしまった。今回は、表記の展覧会のために東京駅からの特別な“送迎バス”が準備される、というので、その話(というか、バス)に乗っかったのである。表記の展覧会で扱われる「白州」。私はその当事者でもあったので”送迎バス”の情報を得ることができたのであった。
「白州」とは、当時の山梨県北巨摩郡白州町(現在は北杜市白州町)の横手、大坊地区で1988年から「白州・夏・フェスティバル」→「アート・キャンプ白州」→「ダンス白州」と2009年まで展開した“フェスティバル”をさす”略称”である。
舞踊家の田中泯さんが、1985年に八王子(あるいは醍醐?)の稽古場を引き払って「舞塾」の人々と共に大坊地区の農家跡に移り住んで「身体気象農場」を開いたのが事の始まりであった。1985年といえばその年の春、私は、中野のPlanBでの「目盛」という企画で田中泯さんと初めて直接出会ったのだったが、その同じ年に、泯さんが白州町に移住したことなど知る由もなかった。
1988年になって、春の黄金連休に、高山登さんの呼びかけで何人かの美術家と新宿駅で待ち合わせて一緒に白州に行った。久しぶりに泯さんと会ったわけである。その時にはすでに、剣持和夫さんの作品が「身体気象農場」の営む養鶏のための鶏小屋のそばに ズン! と立っていた。映像作家の黒川芳朱さんなどと合流して、田中泯さんがみんなを引き連れて横手、大坊地区の各所を案内してくれながら、この地域に美術作品を設営する構想について話してくれた。その晩は「身体気象農場」のコタツに足を突っ込んでお酒を飲みながらいろいろ話をして雑魚寝した。高山さんと泯さんとが激しい議論をして驚いた記憶が鮮明である。それが私にとっての「白州」の始まりだった。それからのことは、省略する。
さて、乗り込んだ“送迎”バスだったが、思いがけない湾岸線の事故の情報で迂回ルートを取らざるをえず、加えて渋滞につぐ渋滞。予定の倍の時間を経てやっと「市原湖畔美術館」に辿り着いた。入館の手続きを終えると、私はそのまま屋上へと一目散に駆け上がり、ともかくは人目につかない場所で持参のおにぎりを大急ぎで食べて腹ごしらえをし、予定されているシンポジウムまでの時間、大急ぎで会場を巡ったのだった。
会場に入ってすぐ左手に高山登さんの作品。
枕木による作品である。スポットライトで生じる(生じてしまう)枕木のくっきりとした影が枕木の構成をやや見えにくくさせていることは否めない。また、観客の導線から言えば作品の全体感をつかむには不利な状況での設置である。とはいえ、とりわけ枕木を壁に凭れ掛けた領域の厚みの表現に“見どころ”を感じさせられる。
続いて名和晃平さんの複数の作品や、かつてボランティアスタッフとして長く「白州」に関わったという名和さんの撮った写真群などが壁に並んでいく。
さらに1988年の「白州・夏・フェスティバル」のプロジェクション映像が続くが、これらをゆっくりみている時間がない。じきに「シンポジウム」が始まるのだ。あせる。
故榎倉康二さんの“小部屋”がある。じっくり見たい。見たいが、時間がない。どうするか? えい! スマホで「写真」である。見ているのではなく「写真」を撮っている。見たことのないドローイングが多数ある。それらドローイング群と大きな窓。展示の妙を味わっている余裕がない。さらにここには、急逝した榎倉さんを追悼する田中泯さんの踊りの映像もあったが、これもじっくり見ているゆとりがない。さまざまな思いが去来する。
遠藤利克さんの作品は、真っ暗にされた部屋にいかにも謎めいて設置されている。特別な照明の配慮がなされているが、壁に大きくプロジェクションされた故えーりじゅん氏を捉えた映像との不思議な“響き合い”が興味深い。映像をじっくり見ている時間がない。
階段を降りて地下の展示室に向かえば、曲尺の壁全体に剣持和夫さんの圧倒的な数のドローイングがある。ドローイング群の上の方はほとんど見えない。剣持さん、健在である。外にも作品がある、と聞いたが見に行っている時間がない。
「実験映画を見る会」
川があった。お、この川が野川。川沿いの細い道を東にさらに行く。野川といえば、古井由吉だ。いつだったか、『野川』という小説は稀に見る大傑作だ、と言う友人に促されて読んだ。
それにしても、「小金井市中町天神前集会所」とは、渋すぎる名称の会場である。こうした会場を探し出して、映写機とフィルムを持ち込み、実験映画の上映会をやってしまう、このセンスは、本当に素晴らしい。加えて、参加費は無し、つまり完全無料。なんということでしょう(とTV番組「ビフォー・アフター」のナレーションの口調で)。
仕掛けたのは、日本映像学会のアナログメディア研究会。
デジタル化の大波のなかで、アナログメディア、つまりフィルムによる映像の大事さについてさまざまに研究し発表し啓蒙してきている人々である。各所で自家現像による8ミリ映画作りのワークショップなどをはじめとする活動も行ってきているし、今回、彼らが初めて試みた「実験映画を見る会」もそうした活動の一環であろうか。
私は、この研究会の代表の太田曜氏とはずいぶん昔からの知り合いである。
あれはいつごろのことだっただろう。『野川』を読んだそのはるか以前のことだったような気がする。太田氏の家で「実験映画」というものをまとめて見せてもらったことがあって、初めて見たそれらの面白さに、ついつい、私は目覚めてしまったのである。
太田氏はその頃(ここ数年はコロナで控えているようだが)、日本のリアルタイムの実験映画をフランスに持って行って、フランスのあちこちで上映会をやる、ということを定期的に続けていて、私がその時見せてもらったのは、彼がフランスへ持参する複数の作品を出発前に“検品”するための試写だった。太田氏が誘ってくれたので立ち会えたのである。実に幸運であった。そのようにして当時の日本の「実験映画」をまとめて見て、とても面白いものだなあ、と思ったのだった。
その時は、映写の合間に、太田氏のフランスやドイツでの体験の話も聞くことができた。彼はフランスとドイツで映画を学び、「パリ・青年・ビエンナーレ」にも出品したことがある。彼の先生のペーター・クーベルカという人についての話には衝撃を受けた。
以来、太田氏から、奥山順一という人や末岡一郎という人や小池照男という人などを教えてもらったし、「イメージ・フォーラム」という当時四谷にあった(今は渋谷に移った)スペースのことも教えてもらったし、「イメージ・フォーラム・フェスティバル」という催しについても教えてもらったし、国立の「キノ・キュッへ」での有志による映画の研究会のことも教えてもらった。それらを通して、西村智弘という人や石田尚志という人を知った。末岡一郎という人からはオーストリアのマーティン・アーノルドという人の作品も見せてもらった。さらに別ルートで知り合った黒川芳朱という人や水由章という人からもスタン・ブラッケージという人の作品をたくさん見せてもらった。それぞれがとっても懐かしい。最近、水由氏から見せてもらったボカノウスキーの映画については、この「雑記帳」にメモしたので、読んでくださっている方もおられるかと思う。また、京都のある学校に勤務してから、相原信洋という人を知って親しくしてもらったが、相原氏は急に亡くなってしまって、相原氏が真剣に計画していた京都・今出川通での乾物屋を私が店番などで手伝う話も無くなってしまった。
小杉武久の2022
“点呼”のあと指定されたバスは満員、乗り損ねた私(たち)は、おそらくは、こんなこともあろうかと主催者によって周到に用意されていた二台の乗用車に分乗して会場に向かったのだった。
小杉武久という人は知れば知るほど興味深い。というか、どうしてこんなに素晴らしい人のことを知ろうとしてこなかったのだろう、と考えると自分のダメさ加減がよくわかる。
私の仕事机の近くには、この小杉さんが亡くなる前の2017年に芦屋市立美術館で開催されていた『小杉武久 音楽のピクニック』展の図録が置かれている。それは、藤原和通という人に由来するのだが、その藤原和通という人については今回は述べない。いずれ、いつか。
で先に進む。
あ、その前に一つだけ。2018年秋、まだまだ元気だった藤原さんに、新聞で見たけど、と小杉さんが亡くなったことを伝えた時の藤原さんの驚きと落胆の様子を今でもありありと思い出す。言葉をかけるのをためらうほどだった。
会場に到着し、受付を済ませ、待機して、会場に入った。
箱で座席がしつらえてあり、正面に大きな窓、スタインウェイのグランドピアノ、テーブル上に電子機器、マイクなどが配されている。気がつけば頭上に何やら小さな装置がたくさんぶら下がっていて、ごくごく小さな音を断続的に発している。
最初のプログラムが始まる。手に小さな装置のようなもの(タイマーだろう)を持った背の高い痩せた女性が現れ、歩く、止まる、座る。と、あの高橋悠治氏がやはり手に小さな同じ装置のようなものを持って現れ、ヨロヨロと壁に身を預け、女性の方を見て体勢を整え、移動して、ピアノの椅子を蹴る、手で押す、引くなどする。女性は会場のあちこちに移動して静止し、高橋悠治氏はそれを見てピアノを弾いたり、椅子を引きずったりする。女性はなんと、正面の窓を開けて、外の音を取り込もうとするのか、と思えば、外に出て窓を閉め、外で佇んだり歩いたりして、やがて枠の外へと消え去ってしまう。高橋氏は時折そのような女性のふるまいを見て、ピアノを弾いたり、椅子を引きずったりしている。首のマフラーでピアノを拭き始めたのには大笑いしそうになったが、マスクの下で声を出すのを懸命にこらえた。やがて、二人は退場していった。最初の演奏が終わった(らしい)。女性が”譜面”の役割を果たしていたのだろうか。
次に登場したのは藤本由紀夫氏。手提げのジュラルミン・ケースを携えて、最前列中央右の観客近くまできて、しゃがんでケースを開け、「アイパッド」のようなものを取り出し(これもタイマーらしい)床にセットするところは見えたが、私より前の人々の頭で他の仕草は確認できない。やがて、いくつかの箱(のようなもの)を手にして立ち上がり、移動してそれを一つずつあちこちに置き、そのうちの一つの蓋を開く。中には高音の電子音を出し続けている(らしい)小さな装置が入っている。装置を手にしてボリウムを調整し再び箱の中におさめて、蓋を開け閉めして音量を変化させ、あるところでそのままにする。そうしたふるまいを“ステージ”のあちこちで行なっていると、先ほどと同じ女性、そして遅れてメガネの男性が箱などを持って現れ、同じように蓋を開け閉めする。それらの“行い”のたびに空間の拡がりがあらわになり、電子音で空間が満たされていく。やがて、彼らは、それら箱などの蓋を閉じていって、藤本氏はそれらをジュラルミン・ケースに納めて退場していく。二つ目の演奏が終わった(らしい)。
次にはハットをかぶった男と先ほどの女性が現れ、それぞれがマイクの前に座る。男性はふいごや空気入れでマイクに“風”を吹きかけて音を生じさせ、女性は紙風船に息を吹き込んで膨らませた後に両手の指で少しずつたたんだり潰したりして紙風船が発する音をマイクに届けていく。そういう合奏であった。ふいごでいかにも優しくマイクに“風”を送り理始めた時、またも大笑いしそうになってこらえた。
日曜日の東京都現代美術館
まず、高川和也の映像《そのリズムに乗せて》。
ちょうど掲示の開始時刻直前だったので、真っ暗なスペースに入る。ほとんど何も見えない。おっかなびっくりで進む。少しずつ目が慣れてベンチがあることがわかった。空いているところ座ったらタイミング良く始まった。
映像には一人は作家(高川)自身、もう一人はFUNIというラッパーが登場した。むむ、苦手な、というか、何も知らないに等しい分野。一生懸命に見てしまった。
FUNIは高川を励まし、ラップについて語る。高川は昔書いた日記をラップにしてみようとする。それを聞いたFUNIは、自分もまた日記を書いていたことがあってそれが次第にラップのためのメモのようなものになってきたことを作家に示し、さらに高川を励ます。高川はある哲学者が行っているワークショップのような集まりに参加して、参加者全員に自分の日記を読んでもらって感想や意見を言ってもらう。その過程で、自分の日記をラップにできる、ラップにしてよい、という確信を得て、FUNIにラップのテクニックの教えを乞う。と、そういう筋立てである。FUNIからの具体的な指導を受けて高川が上達するのが私にも分かる。FUNIの指導は合理的に段階を追って順になされていた。高川も嬉しそうだった。かなり長い映像だが(52分)、興味深く見た。
次に見たのは工藤晴香《あなたの見ている風景を私は見ることはできない。私の見ている風景をあなたは見ることができない。》。
最初の小ぶりなスペース。床面から浮かせて水平に置かれた円形の鏡に三つの折り紙の舟が置かれている(全体が顔にも見える)。壁に地図を手書きしたものや湖を描いた絵、鉛筆で真っ黒く塗りつぶされた紙片。
次の大きなスペース。半透明の極めて薄手の白い布がカーテンのように吊るされて横切っている。上から見れば「S」の形になっているだろう。床との間には隙間がある。“カーテン”の裏表にはそれぞれ年表らしきがグレイの各ゴチック体で印字されている。極めて薄い布地なので裏側に印字された文字群も左右反転してうっすらと見えている。読めば、「優生思想」や「優生保護法」をめぐる年表である。政治や行政の年表が表側に、裏側には当事者たちの運動の年表が印字されている。全部読んでみたが、帰宅してしばらく経った今、もうほぼ忘れてしまっている(悲しい)。“カーテン”の下方に一組のスニーカーが置かれており、気がつくと壁際や“カーテン”で囲まれた中央部にソファーやテーブル、ぬいぐるみ、コカコーラのペットボトル、スニーカーなどが配されている。上方に白いTシャツが広げられて吊るされている。周囲の壁には、油絵らしき肖像画が二点、古そうな新聞の小さな切り抜き、小さな用紙にペン書きでメモされた言葉が横に等間隔で多数留められている。これらのメモも今、ほぼ忘れてしまっているが(悲しい)、目が見えない人のだろうか、障害のあるらしき「一也」、彼をめぐる介助者らしき人のメモのような印象だった。さらに、モニタに動画。これらから、どうやら相模原市の障害者施設で起きた大量殺傷事件から展開した作品か、と見当をつけた。事件そのものを扱うというより、事件をきっかけに作家が行った相模湖や優生思想、水路や当事者などについてのリサーチの報告、といった印象である。中ではやはり”年表”に見応えがあった。
モニタの映像は、作家が自ら相模湖からガラスの容器に水を汲み、横浜あたりの運河(?あるいは海?)まで歩いてその水を流し、その場所の小さな草を二本抜いて容器に詰め、もう一度相模湖へ向かう、というものである。私はそこまでは意地で見たが、きっとこれは相模湖のほとりにこの植物を植えるのだろうと見当をつけて、途中でモニタの前から離れた。私が見た映像では相模湖から横浜あたりまで歩き続け、また戻りはじめたかのような作家の姿だだったが、実際は歩き通していないのではないか。影のでき方に変化がなさすぎる。ま、相模湖から横浜まで、往復全部を実際に歩かなくてもいいわけだが、、、。