24 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

「やまと絵」展をみた
2023-11-13
 東京国立博物館で「やまと絵」展をみた。SNSの複数の投稿に、すごい量なので覚悟して行くように、とあった。なので、空腹に備えてポッケに飴玉を複数持って行った。バテ始めたら監視のお姉さん、お兄さんの目を避けてこっそり舐めればいいんじゃないか、と思って。結局、展示室では空腹を感じている余裕がなかった。
 さすがにすごい出品数と密度。ザッと見ただけで、ずいぶん時間がかかった。堪能ということができたわけである。が、「やまと絵」と言うときに、雪舟が含まれるのか、とか、宗達は「やまと絵」とは言わないのか、など日頃の不勉強が露呈してくるのはつらい(雪舟が出ていて宗達は出ていなかった)。つらいが、不勉強なのは事実なのだから、調べてみた(「ウィキペディア」で)。が、よく分からなかった。
 この列島の風景や人物を描いた平安時代から江戸時代くらいまでの絵のことを「やまと絵」というようだが、図録の冒頭で、土屋貴裕氏が「やまと絵の歴史は長く、また対象とする主題も多岐にわたり、その全貌をまとめることは難しい」と書いて論を始めている。全貌をまとめることが難しいので「本論では、やまと絵が成立した前後の状況を見直しながら、草創期のやまと絵を考えるうえで重要な要素である和歌との関わりを中心に、その後の歴史を大きく振り返ってみたい」と続けている。
 会場に入ると、いきなり秦致貞「聖徳太子絵伝」(1069年=平安時代)がある。初めて見た。大きい。曖昧な色の広がりがきれいだがよく見えない。メガネを忘れてきたのである。慌ててロッカーに戻ってカバンからメガネを出して装着し会場に戻った(入場した当日であれば会場の出入りは自由になっていて、ありがたい)。茶系の色の広がりに極めて微妙なグレイや緑、黒、朱が点在している。名状し難いそのグレイの色合いは雲とか霧や霞を表しているようである。比較的明瞭な茶は建物の屋根、緑は植物や樹木、黒は聖徳太子の衣服というかシルエット。いくつもの場面が横方向のグレイの色の広がりで展開していくように見える。横方向と言えば屋根の茶色もその動勢を強調している。そこに山=地形を示す幾重もの曲線が介入して、場面転換が図られている。が、どんな場面かまでは読み取れないし、あまり興味も湧いてこない。ともかくいきなり綺麗で、虚を衝かれた。あの“ダチョウ倶楽部”ならきっと三人で(あ、一人亡くなっちゃったから二人で)、つかみはオッケー! と言ったはずである。
 あとはもう、あきれるほどのたたみ込み。息がつけない。「日月四季山水図屏風」(室町時代)があるわ、雪舟「四季花鳥図屏風」(室町時代)があるわ。
 久々に見た「日月四季山水図屏風」は、いかにもやまと絵、という風格で素晴らしい。没入ということをしてしまった。同じ並びに雪舟が出てくる。え? 雪舟って、やまと絵なの? と疑問がよぎるが、あまりの切れ味に目を凝らすこと以外のことができない。幾重にも重なる形状をなんなく描き分けてあってため息が出る。ふと、画面に黒い点々が散在していることに気づき、一体なんのために? と気になって、気になると止めようもなく、長い時間目を凝らしたが、結局は分からない。同じように、縦の短い細線がパラレルハッチングのようにあちこちに描かれているが、こっちの方は水辺の葦とかだろう。うーん、気になる。気になるが答えが出せない。どなたか、黒の点々についてご存知なら、ぜひご教示いただければありがたい。
 ここまでですでに長い時間を費やしてしまった。「序章 伝統と革新ーーやまと絵の変遷」とあるコーナーである。オッケーどころか、つかみすぎ。

 以下、次のように進む。
 第1章 やまと絵の成立ーー平安時代ーー
   第1節 やまと絵の成立と王朝文芸
   第2節 王朝貴族の美意識
   第3節 四大絵巻と院政期の絵巻
 第2章 やまと絵の親様ーー鎌倉時代ーー
   第1節 写実と理想のかたち
   第2節 王朝追慕の美術
   第3節 鎌倉絵巻の多様な展開
 第3章 やまと絵の成熟ーー南北朝・室町時代ーー
   第1節 きらめきのかたち
   第2節 南北朝・室町時代の文芸と美術
   第3節 和漢の混交と融合
 第4章 宮廷絵所の系譜
 終章 やまと絵と四季ーー受け継がれる王朝の美ーー

10月のこと 5  アンジェイ・ワイダによるタディウシュ・カントル『死の教室』の映像を早稲田のshyで見た
2023-11-08
 早稲田のshyは故室伏鴻氏の活動をアーカイブするカフェである。
 私が最初に訪れたのは、中西夏之さんが亡くなってしばらくして、中西さんを偲ぶ座談会がそこで開かれた時だった。私を含む聴衆がギューギューだった中で、宇野邦一、林道郎、松浦寿夫の三氏が語り合ったのを聞いたはずだが、松浦氏が初めて中西さんと会った時の話だけ覚えていて、他の話は全部忘れてしまっている。この豪華メンバーでの話を忘れてしまったなんて、いかにももったいないことだ。では、なぜ、松浦氏の話を覚えているかというと、それまで彼の文章や作品の印象から得ていた彼への先入観が、この時、一挙に崩れ去ったからだと思う。松浦氏の話は確かこんなふうだった(細部が怪しい)。

 中西さんから指定された駅(大森駅?)に降り立つと、スキンヘッドの男が現れて、ようこそいらっしゃいました、ご案内します、と中西さんのアトリエまで連れて行かれた。アトリエにはさらに怖そうな人たちがいて、すぐにでも帰りたかったが、〇〇さん(この名前も失念)の舞踏が始まって、帰るに帰れず、舞踏が終わってからも一刻も早く帰りたかったが、怖くて帰れなかった。そんな状況で初めて中西さんに会った。

 松浦氏はそんなことをもっともっと上手にしゃべってみんなを笑わせていた。それを聞きながら、へえ、意外にいいやつそうだなあ、と私は思ったのだった。なので、shyというカフェは、私が知らなかった松浦氏の一側面を垣間見た記憶とどうしても重なってしまう。
 その後も、そのカフェの近所に行く用事があった時に何度か立ち寄った。壁には一冊一冊白いカバーをかけられてタイトルが書かれている室伏氏の蔵書がずらりと並び、中西さんの絵が使われた室伏氏の公演のポスターなども置いてあった。テーブルには舞踏の研究者らしき人が傍にコーヒーカップを置いてパソコンと睨めっこしていることもあった。
 一度だけお店の女性に、室伏氏が「背火」を旗揚げしたとき、中西さんの「コンパクトオブジェ」の木製の原型を炭にする、というイベントをやったそうですが、その炭は残っていますか? と尋ねてみたことがある。
 その女性は、あれは失敗してしまって残っていません、と答えてくれたが、会話はそこで途絶えてしまった。私は確かに気が小さすぎるし人見知りだが、「コンパクトオブジェ」に木製の原型があってそれを「背火」の旗揚げの時に炭にしようとしたことを知っているこのジジイは何者か、と訝しがられたであろうことも否めないだろう。それで、会話が続かなかったのかもしれない。が、このジジイは、ただの古本好きで、たまたま「背火」の旗揚げ公演で配布された冊子をどこかで安く入手して中身を読んでいたに過ぎなかったのだが、そうした説明をするのは鬱陶しかった。結果、なんとなく気まずくなって、以来、訪れていなかった。

 (また、前置きが長くなった。いつも長い。反省している。)
10月のこと 4、「風景論以後」展を見た(10月13日)
2023-11-06
 ずっと気になっていた東京都写真美術館の「風景論以後」展に訪れたのは、長谷氏と林氏の作品を見て「インスタレーション」のことや「風景」のことをぼんやりと考えていたからかもしれない。
 1970年前後に「風景論」が盛んだったという記憶があること、それについては、以前、ここ(「雑記帳」欄)でほんの少し触れたことがある。
 「風景論」は、永山則夫氏(すでに死刑が執行されたので“氏”をつけて表記する)の足跡をたどる映画『略称・連続射殺魔』がきっかけになって始まった、と記憶していたからである。当時19歳の永山氏が東京、京都、函館、名古屋、と連続射殺事件を起こしたのは1968年10月11月だった。永山則夫氏のことを書いて(打ち込んで)いけば、それだけで長大な文章にならざるを得ないので省略するが、1949年に網走で生まれて津軽で育ち、ずっと貧しい暮らし向きで充分な教育を受けることもできないまま集団就職で上京した(上京前に2度の家出があった、という)。上京後は流浪の生活だった、と言ってよいだろう。その過程でピストルを“入手”して起こした衝撃的な事件だった。
 映画『略称・連続射殺魔』は、彼の足跡を追って、彼が見たであろう「風景」だけをカラー撮影して作られた映画である。1969年に作られたが、一般公開は1975年になってからだったようだ。映画の制作は足立正生(監督)、岩淵進(制作)、野々村政行(撮影)、山崎裕(撮影)、佐々木守(脚本)、松田政男(評論家)の各氏で行なった。音楽評論家の相倉久人、ドラムの冨樫雅彦、サックスの高木元輝の各氏も音楽で参加した。これらのメンバーの一人、松田政男氏が、制作中のこの映画のことを1969年12月に雑誌で発表した文章の中で触れたのが「風景論」の始まり、と言われている。その文章は若松孝二氏の映画についての文章だったらしいが、筆者は不勉強で未読である。
 当時、松田氏がいろいろな場で書いたことを思いっきり圧縮すれば、映画の撮影のために4ヶ月間、網走ー札幌ー小樽ー函館ー青森ー板柳ー山形ー福島ー宇都宮ー小山ー東京と移動しながら(松田氏たちが)発見したのは、「この日本列島において、首都も辺境も、中央も地方も、東京も田舎も、一連の巨大都市として劃一化されつつある途上に出現する、語の真の意味での均質な風景なのであった」(松田政男「わが列島、わが風景」『風景の死滅』(1971年、田畑書店)所収)、ということであった。松田氏には、そうした「風景こそが、まず持って私たちに敵対してくる〈権力〉そのものとして意識された」(松田政男「風景としての性」「風景論以降」展図録より孫引き)、というのである。言い換えれば、風景の中に〈権力〉を発見することができる(発見せよ)、ということである。
 こうした松田政男氏の「風景論」が次々に「論」を呼び、その中の代表的な論者が写真家の中平卓馬氏だった、と記憶している。また、大島渚氏の1970年の映画『東京戦争戦後秘話』(「戦」は中国語表記だろうか、ホントは“占+戈”の文字が入るのだが、私のPCの漢字変換では出てこず、そうなると筆者には当該フォントの見つけ方、作り方がわからない)が、新たな「風景映画」として登場して、「風景論」はさらに盛んになったと言われているが、それも省略する(「風景論以降」展図録には記述がある)。なお、この大島渚氏の映画には、脚本で当時19歳の原正孝(のちの原将人)氏がすでに実績のあった佐々木守氏と共に参加して大きな役割を果たしていて話題になっていた。北海道で高校生だった私は、それ以前に地方新聞の片隅に載った小さな記事で、“フィルム・フェスティバル”で東京の高校生がグランプリを獲ったことを知った。それが『おかしさに彩られた悲しみのバラード』というタイトルであったことや、その高校生の名が「原正孝」であったことをつい記憶してしまった。が、その映画はいまだ見る機会がない。
 

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