小杉弘明氏による画材のトリビアコラムを連載します。
小杉弘明 プロフィール
1954年 大阪出身。
1977年 大阪府立大学 工学部応用化学科卒。
元ホルベイン工業株式会社 技術部長。
現カルチャーセンター講師。
絵具の価値を値段で測っていない?①
今回は絵具の値段と価値について考えてみたい。日本人は・・というか、日本人でなくとも、値段が高いことはその価値も高いと考えがちだが、実はそうでもないということを感じておられる人もいるだろう。亡くなって久しいが、永六輔氏がモノの価値について次のような事を言っていたのをテレビで聞いた記憶がある。「ものの価値は自分が決めるものであって、自分の価値基準より高ければ、デパートであっても値引してくれと言うし、価値が高ければ過分に支払っても良いと思う。」という内容であった。なかなかこう言い切れる日本人は少ないが、多少でも「自分においての価値」というものを見直してみるべきではないかと考えた。絵具においては、価値と値段は相関していないというのが、絵具を作ってきた側の人間の肌感覚である。
たとえば、絵具はなぜ色ごとに値段が違うのか。特に、「専門家用絵具」という作家達が使用する絵具において色ごとに値段が著しく違うのはなぜか。カドミウムレッドやコバルトブルーという絵具はなぜあんなに高いのか。また、輸入絵具はとても高いが国産絵具と比べて中身が特別上等なのかという話である。絵具と言っても、油絵具、水彩絵具、アクリル絵具などそれぞれによって少し事情が異なるところがあるが、その辺のところも含めて述べたいと思う。
基本的に絵具の価格差を生んでいるものの主な要因が何かといえば、
①有色顔料の価格、②顔料の吸油量、③体質顔料の種類と量、④絵具の比重になるだろう。
※顔料:水や油に溶けない色の粉のこと
※吸油量:簡単に言えば、顔料表面を包むのに要する油の量のこと
※体質顔料:顔料の中でも、糊と混ぜると透明になる顔料のことを体質顔料といい、色濃度の調整や流動特性の調整などに使われ、一般的に有色顔料に比較すると価格が低いので、増量剤としても使われる
※絵具の比重:絵具は容量売りなので、比重は重要なファクター…
油絵具に使われるアマニ油やポピー油、水彩に使われるアラビアゴムは全てを輸入に頼っている。アクリル絵具に使われるアクリル樹脂は石油から作られており、これも絵具価格に為替の影響が出ているのは自明の事柄であるが、これは全ての色について共通するものであり、個々の絵具の価格差に関わるものではないので、今回の話からは除外する。今回は、価格に影響する要因の中でも大きな位置をしめる①と②の要因について話を展開する。
コラムINDEX
ミクストメディアという「魔界」
ある現代作家を集めたアートフェスでの話である。若手の作家さんの作品を見ていて、それが水彩絵具で描かれたものと思っていたのだが、使用材料の表記は「ミクストメディア」となっていた。恐る恐る、「ミクストメディアと書かれていますが、差し支えがなかったら、どんな材料をお使いになっているか教えてください。」と聞いてみた。作家さんは当方が絵具屋であるなど知る由もないので、「アラビアゴムという樹脂があるんですが、それを水に溶かして、それに色の粉を混ぜた絵具を作って描いています。」と教えてくれた。ほほーっと思ったので、「それなら水彩絵具ですね。普通の水彩絵具もアラビアゴムの糊と顔料を混ぜたものですから。」と言うと、相手はこちらよりもっときょとんとして、「自分で糊を作り、顔料と混ぜて作ったもので描いたので、ミクストメディアだと思ってました。」と言われた。「もし、ご自分で作られた絵具で描かれたと言うことを強調されたいのなら、ミクストメディアとは書かずに、アラビアゴム+顔料もしくは自作水彩絵具という具合に書かれたらどうでしょう。」と言うと、なんとなく納得された様子だったが、その後どうされたかわからない。これが「ミクストメディア」という表記を疑うようになった契機である。
「エマルジョンと言う勿れ ③」
アクリル絵具といっても最初に開発されたのは前回紹介したとおり、油性の絵具である。開発の契機となったのが、メキシコの壁画運動であったことは有名な話であるので、知っている方も多いだろう。1920年代、文字の読めない国民に対して、絵によって自分たちのルーツやアイデンティティーを伝えようとして起こったのが壁画運動である。日本でも有名なメキシコの女流画家フリーダカーロの夫ディエゴ・リベラなどがその運動の中心人物であった。壁画の材料(石灰・支持体)はアルカリ成分を多く含むために、油絵具で描くと画面がボロボロになってしまう。そこで、pHがアルカリ側でも堅牢性を保ち、水にも強い絵具の開発が待たれていて、それに適応するのがアクリル絵具であった。すでにアクリル樹脂はドイツ人のオットー・ローム(世界的に有名な化学会社ローム&ハースの創始者の一人)によって1901年に合成されていたが、それが商業ラインに乗ったのは1930年代であった。といっても、油性のアクリル絵具が安価で一般大衆の使えるものになるのにはまだまだ時間が必要だった。
1947年、ゴールデン社のルーツにあたるボクー社が油性アクリル絵具の「Magna」の開発に成功する。リキテンシュタインやモーリス・ルイスらの米国の作家達が制作に使用したのが、この油性のアクリル絵具である。彼らの作品に使用画材として、「アクリル絵具」と書かれていたとしても、現在流通しているエマルションタイプのアクリル絵具とは別物である。後にこの絵具はゴールデン社に引き継がれて、絵画修復用絵具として流通することになる。油性のアクリル絵具は塗布して乾いた後も、再び溶剤によって除去できるので、私の若い頃の認識としても「Magna」は修復用絵具という印象だった。
1955年になると、パーマネントピグメント社のヘンリー・レビンソンが水性エマルションタイプの絵具の開発に成功する。パーマネントピグメント社というのは、小さな家族経営の会社で、油絵具を作っていた会社である。私自身も若い頃は、パーマネントピグメント社から発売されていた油絵具を取り寄せて調べた記憶がある。話を戻すが、レビンソンが開発したエマルション絵具には、「Liquid」と「Texture」をくっつけた造語である「Liqutex」という名前がつけられた。後には買収劇などもあって、商標であったリキテックスが社名となるのだが、この「リキテックス」こそがその後のアクリル絵具の世界を一変させてしまう起点となった開発品である。
「エマルジョンと言う勿れ ②」
「エマルジョンと言う勿れ ①」
まあ、油絵具といえば油が入っているなとか、水彩絵具といえば、何か水に溶ける水溶性の糊みたいなものが入っているのかなとか、その程度の認識はあるだろう。しかしアクリル絵具となると理解を超えるのはわからなくもない。主にアクリル酸系のポリマーを糊として使っている絵具だと言ったところで、真に理解できるのは有機化学を学んだ人のみであろう。一般的にアクリル絵具といえば、アクリル酸エステルのポリマーエマルションでできているものがほとんどだが、油性のアクリル樹脂絵具もあれば水溶性のアクリル樹脂を使ったものもあって、一般の人に理解せよという方が無理なのだ。・・・などというのは自分の説明能力の低さを露呈しているにすぎないかも・・・とりあえずアクリル絵具を理解してもらう試みとして、①ポリマーとは何か、②アクリル樹脂とは何か、③エマルションとは何かの3つの話に分けてみることにした。とはいえ、このコラムは何かの教科書ではないし、難しい話をする事を本旨としていないので、行きつ戻りつ、あちこちに飛び火することをお許し願いたい。今回はまず、ポリマーについての話である。タイトルの意味についてはあと少し、お待ちいただきたい。
「不思議な卵の話」
人類が自分の手でアクリル樹脂のような合成樹脂を作れるようになる以前、ほとんどの接着剤は食べ物に関わっている。膠は動物や魚を煮たときに得られる煮こごりだし、牛乳から得られるカゼイン糊も、植物から得られるデンプン糊も人類の食習慣と切り離せない。絵具はつまるところ「色のついた接着剤」なので、絵具の歴史そのものが食と深く関わっているわけだ。ホモサピエンスが土器を使って煮炊きをするようになり、容易に膠を得ることができたであろうと考えると、土器の底についた煤と混ぜてものを描く道具にしたことも想像の範囲内にある。おそらく人類が最初に手にした絵具の接着剤は膠だったのだろう。もちろん、漆喰そのものが接着剤の働きをしたフレスコは別である。では、その次に絵具に使われた接着剤は何であっただろう。私は卵だったのではないかと考えている。
チューブ入り絵具が絵画にもたらしたもの(後編)
例えばチューブを横置きしておくと、上の方にメディウム(接着剤)が浮いていこうとするし、顔料は下の方に沈降しようとする。特に比重の大きい顔料の入っている絵具を長い間放置すると、チューブの口からメディウムだけが出ていくことになる。我々はこれをメディウム分離と言い、ある程度は仕方ないものと思っているが、作家さんからは「なんか絵具が出ずに液体が出てきた。これは不良品か。」と言われることになる。言い訳がましくなるが、絵具屋は昔から絵具のメディウム分離について真剣に取り組んできた。もともと、絵具が作家自身もしくは工房で作られていた時代は前編で述べたとおり、豚の膀胱などに入れて保管するのがせいぜいで、長い期間保存することは難しかった。そのために、絵具のメディウム分離など気にする必要が無かったはずだ。やがて絵具屋が…絵具屋が出現し、チューブが発明された時点で、こうした絵具のメディウム分離問題が発生する事になった。
現代であれば、メディウムと顔料ができるだけ分離しないようにする方法がいくつかあり、下記のような方法が実際に行われている。
①メディウム(絵具)の粘度を高くする
②絵具をチクソトロピーな粘性にする
③吸油量の高い体質顔料を混合する
④界面活性剤を使って顔料同士を反発させる
⑤機械力を使って高分散させる
*チクソトロピー(揺変性)というのは、力を加えると柔らかくなる性質のこと。絵具のほとんどは、揺変性をもっている。水彩絵具をガラス瓶に入れておいて放置すると、ふたを開けてひっくり返しても流れ出さない。ところがガラス棒でかき混ぜてからひっくり返すとザーッと流れ出す。こういう流体の性質の事をチクソトロピーという。
チューブ入り絵具が絵画にもたらしたもの(前編)
「では、パンカラーやケーキカラーといった固形の絵具はチューブに入っていないが、これも絵具やろか。」とたたみかけると「それは例外です。」と返って来る。「なるほど! ではパステルは絵具だろうか、チョークは絵具だろうか。」とさらにたたみかけると、ついには「・・・・」となる。
これらは絵具というものを最初から存在する・・つまり元からあるものとして認識しており、中身を問われているのに、それの収められている形態によって捉えようとするからである。答えは単純で、「色の粉(顔料)と接着剤の混ざったもの」ということになる。カラースプレーもパンカラーもチューブには入っていないが、紛れもなく絵具である。パステルは、(パステル+フィキサチフ)ならば絵具といえるだろう。ところで、中国で「顔料」と書いてあれば、それは「絵具」を指していたりするので、私の定義は多分に日本的なものなのかもしれない。
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