画材のトリビア4 2024-01-15
「エマルジョンと言う勿れ ①」
いろいろなゼミを通じて感じた事だが、自分達作り手と使い手の間の認識の乖離がもっとも大きいのがアクリル絵具かもしれない。最近、自分の作品展に来てくれた人(もちろん絵を描く人である)に問われて愕然としたのは「ところでねえ、水彩とアクリルって何が違うんですか。どっちも水で溶いて描くじゃないですか。」という話だった。もちろん、ご本人も描いた後の耐水性の違いがある事くらいは認識されているようなのだが、そうなのか、その程度の理解なのかと驚いた次第である。
まあ、油絵具といえば油が入っているなとか、水彩絵具といえば、何か水に溶ける水溶性の糊みたいなものが入っているのかなとか、その程度の認識はあるだろう。しかしアクリル絵具となると理解を超えるのはわからなくもない。主にアクリル酸系のポリマーを糊として使っている絵具だと言ったところで、真に理解できるのは有機化学を学んだ人のみであろう。一般的にアクリル絵具といえば、アクリル酸エステルのポリマーエマルションでできているものがほとんどだが、油性のアクリル樹脂絵具もあれば水溶性のアクリル樹脂を使ったものもあって、一般の人に理解せよという方が無理なのだ。・・・などというのは自分の説明能力の低さを露呈しているにすぎないかも・・・とりあえずアクリル絵具を理解してもらう試みとして、①ポリマーとは何か、②アクリル樹脂とは何か、③エマルションとは何かの3つの話に分けてみることにした。とはいえ、このコラムは何かの教科書ではないし、難しい話をする事を本旨としていないので、行きつ戻りつ、あちこちに飛び火することをお許し願いたい。今回はまず、ポリマーについての話である。タイトルの意味についてはあと少し、お待ちいただきたい。
ポリマーについて、何から説明すれば良いか・・・それさえも悩ましい・・まずはモノマーの話から始めよう。化学者が使う数詞は英語の「ワン、ツゥー、スリー、フォー・・・」ではなくて、「1:モノ、2:ジ(ダイ)、3:トリ、4:テトラ、5:ペンタ、6:ヘキサ、7:ヘプタ、8:オクタ、9:ノナ、10:デカ・・」である。基本的にはギリシャ語だが、9のノナだけはどういうわけかラテン語らしい。モノクローム(単色)、ダイオキシン(オキシンという化合物が2つくっついてできる毒性物質)、トリコロール(3原色)、テトラポッド(正四角形の消波ブロック)、ペンタゴン(五角形をした米国防総省)などなど、実は我々の知っている言葉にもたくさんこれらの数詞が使われている。ちなみに8本足の蛸を英語でオクトパスというのはご存知だろう。ハイオクガソリン(高オクタン価のガソリン)というのがあるが、石油成分であるガソリンにはいくつもの炭化水素が含まれていて、炭素数もバラバラである。その中で炭素数8のものが多いと性能が良いので、それを多くしたものを少し高い価格で売っているわけだ。もっと面白いのは英語の暦で10月を表すオクトーバーだ。先程来の話で想像のつくとおり、オクトーバーは本来8月でなければならない。ところが、ローマ時代、7月にユリウスカエサル(ジュライ)、8月にアウグストゥス(オーガスト)が割り込んだので、2ヶ月分ズレて8月を表す言葉が10月になってしまった。続く9月、10月であるはずのノーベンバー、ディッセンバーが11月、12月になった。ローマ皇帝の度が過ぎた自己顕示欲が本来の暦の月まで変えてしまうことになった。
脱線が過ぎた。実は我々が普段使っている有機化合物はほとんどが、一つの基本的な構造(ユニット)をたくさん繋げて大きな構造にしたものである。元になる構造のものが一つしかないものを先ほどの数詞に基づいてモノマーと言い、これが二つつながるとダイマー、3つになるとトリマー、4つだとテトラマーなどという。これらは先ほど説明した数詞に基づいた表記である。これがどんどんつながって、何千、何万のスケールになると、いちいち数えていられないので、「たくさん」を表す「ポリ」が使われ、ポリマーと言うのが普通である。一般的にポリマーといえば「重合物」と訳されるが、要するにたくさんのものがくっついたものと思えば良い。PE(ポリエチレン)やPP(ポリプロピレン)などが正しくそれで、エチレンというユニットがたくさんつながったのがポリエチレンなのである。ポリバケツなんて言葉はなんでも取り込んでしまう日本語の最も優れたボキャブラリかもしれない。「ポリエチレンでできたバケット」が縮まってポリバケツになっているのだから。
上記のごとくアクリル絵具に使われるアクリル樹脂もアクリル酸エステルというユニットがたくさんくっついたポリマーなのである。例えば、油絵具に使われている乾性油(植物油)であるアマニ油やケシ油の組成は主に炭素数18の脂肪酸がグリセリンと3つ結合した構造をしているが、モノマーであり、これに酸素がくっついて(酸化重合)、順次つながっていってポリマーになる。モノマーの時は分子量が小さくて自由度が高いから液体だが、重合して図体が大きくなると動けなくなるので、我々は油が固まったと表現する。つまり油絵具はモノマーが後にポリマーになる絵具であり、逆にアクリル絵具は最初からポリマーの絵具なのである。これが乾燥速度の違いと言っても良いだろう。油絵具が化学反応によって大きくなるためには熱や光のエネルギーが必要で、時間を要するのに対して、最初から大きな分子であるアクリルは水さえ蒸発すればOKなのだ。ところで、乾性油は重合が止まらずに重合し続けるのに対して、アクリルはすでに停止しているとも言える。酸化重合というのは、人間に例えれば「老化」なので油絵具は老化し続け、アクリルは多少、酸化の影響はあるものの油絵具とは比べものにならないので、老化しにくい絵具だといえるのだ。ここまでの話が最初の難関だが、読んでいただいている人がついてこられたかどうか、はなはだ自信がない。まあ、今回はこの辺りでお許しいただきたい。
小杉弘明氏による画材のトリビアコラムを連載します。
小杉弘明 プロフィール
1954年 大阪出身。
1977年 大阪府立大学 工学部応用化学科卒。
元ホルベイン工業株式会社 技術部長。
現カルチャーセンター講師。
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