画材2 2023-07-12
チューブ入り絵具が絵画にもたらしたもの(後編)
絵具はそもそも顔料という個体の粉末を接着剤という液体の中に浮かべたようなものと理解することができる。油絵具の場合は乾性油が接着剤だから、だいたい比重は0.9くらい。それに対して、顔料の方は様々だが、コバルトブルーならば3.8程度、カドミウムレッドは色味により硫化カドミウムとセレン化カドミウムの比率が異なるから、3.9~4.5くらいだろうか。有機顔料は基本的に石油などから作られるため比較的軽く、だいたい1.4~1.6くらいだろう。ちなみにハンザイエローで1.6くらいである。何が言いたいかと言えば、比重0.9の液体に軽くても1.5くらいの固体を浮かべて、沈降しないはずがあるだろうか。普通に考えれば、時間と共に顔料は沈降していくはずである。
例えばチューブを横置きしておくと、上の方にメディウム(接着剤)が浮いていこうとするし、顔料は下の方に沈降しようとする。特に比重の大きい顔料の入っている絵具を長い間放置すると、チューブの口からメディウムだけが出ていくことになる。我々はこれをメディウム分離と言い、ある程度は仕方ないものと思っているが、作家さんからは「なんか絵具が出ずに液体が出てきた。これは不良品か。」と言われることになる。言い訳がましくなるが、絵具屋は昔から絵具のメディウム分離について真剣に取り組んできた。もともと、絵具が作家自身もしくは工房で作られていた時代は前編で述べたとおり、豚の膀胱などに入れて保管するのがせいぜいで、長い期間保存することは難しかった。そのために、絵具のメディウム分離など気にする必要が無かったはずだ。やがて絵具屋が…絵具屋が出現し、チューブが発明された時点で、こうした絵具のメディウム分離問題が発生する事になった。
現代であれば、メディウムと顔料ができるだけ分離しないようにする方法がいくつかあり、下記のような方法が実際に行われている。
①メディウム(絵具)の粘度を高くする
②絵具をチクソトロピーな粘性にする
③吸油量の高い体質顔料を混合する
④界面活性剤を使って顔料同士を反発させる
⑤機械力を使って高分散させる
*チクソトロピー(揺変性)というのは、力を加えると柔らかくなる性質のこと。絵具のほとんどは、揺変性をもっている。水彩絵具をガラス瓶に入れておいて放置すると、ふたを開けてひっくり返しても流れ出さない。ところがガラス棒でかき混ぜてからひっくり返すとザーッと流れ出す。こういう流体の性質の事をチクソトロピーという。
今回はこういう難しい話をする事が本意ではないので詳細を省くが、絵具を作り始めた頃の絵具屋さんも、チューブに入れた絵具が、しばらくするとメディウム分離してしまうことに頭を悩ませたはずである。そして、彼らがが考えた方法は、まず①および②の方法だったはずだ。例えば、水にコバルトブルーの粉をパラパラと入れていくと、そのままでさっさと沈んでいく。では水ではなくて、蜂蜜のような液体であればどうか。蜂蜜にコバルトブルーをいれると粘度が高いせいで、すぐには沈降せずに、ゆっくりと沈んでいくことになるだろう。油絵具の場合、リンシードオイルなどの乾性油もそのままだとさらっとしているので、熱をかけたり日光に晒して重合させたオイルを混ぜ、粘度を高くする工夫をした。また、蜜蝋のようなワックスを加えて、粘度を高くすると共にチクソトロピーな粘性にして、顔料を沈降しにくくした。
つまりチューブの出現前と出現後の最も大きな違いは、この絵具の粘度、粘性の違いなのである。絵具が手製であった時代、図のように絵具作りはとても大変な作業で、硬い絵具を作ること自体が辛かったはずだ。従って、チューブ出現以前の絵具は柔らかく、立てたキャンバスに描くときは筆で薄く描くのが普通だった。これを立てたキャンバスにナイフで塗れば、タラーッと垂れてくるのは必然である。つまりは薄い層の塗り重ねでの表現が常道だったのである。その事は、透明な絵具と不透明な絵具の重要性の認識にもつながっている。最もオーソドックスな描き方が、不透明な下地に透明な層を重ねていく方法になったのは納得ができる。また、筆についても軟毛筆で充分に絵が描けただろうことは想像に難くない。ところがここにチューブが出現し、チューブから押し出した絵具がぺちゃっと崩れずに棒状に形を留めることができるようになると、景色は一変する。絵具をメディウムで溶きながら薄描きすることもできるが、そのままナイフで塗りつけることも可能になったわけだ。豚毛の硬い筆なども必要になったことだろう。外光派が出現し、屋外にキャンバスを持ち出して、アラプリマでささっと描くなんてことも可能になった。これらのことは全て絵具のチクソトロピー性と関わっているように思われる。近頃はDIYの好きな人も多いから、壁塗り塗料で「垂れにくい壁塗り塗料」なんてものが売られているのをご存知だろう。そう! この垂れにくい塗料こそがチクソトロピー性の高い塗料なのであって、それが絵具がチューブ入りになったことの本質なのである。チューブ入り絵具がなければ、ゴッホのひまわりも存在していなかったに違いない。<完>
画像:絵具の手練り作業
小杉弘明氏による画材のトリビアコラムを連載します。
小杉弘明 プロフィール
1954年 大阪出身。
1977年 大阪府立大学 工学部応用化学科卒。
元ホルベイン工業株式会社 技術部長。
現カルチャーセンター講師。
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