画材のトリビア6 2024-04-10
「エマルジョンと言う勿れ ③」
さて、ポリマーやアクリル樹脂そのものについて話をしてきたが、今回は「アクリルエマルション」の話である。その前にまずはアクリル絵具が誕生した歴史的経緯から話を始めたい。
アクリル絵具といっても最初に開発されたのは前回紹介したとおり、油性の絵具である。開発の契機となったのが、メキシコの壁画運動であったことは有名な話であるので、知っている方も多いだろう。1920年代、文字の読めない国民に対して、絵によって自分たちのルーツやアイデンティティーを伝えようとして起こったのが壁画運動である。日本でも有名なメキシコの女流画家フリーダカーロの夫ディエゴ・リベラなどがその運動の中心人物であった。壁画の材料(石灰・支持体)はアルカリ成分を多く含むために、油絵具で描くと画面がボロボロになってしまう。そこで、pHがアルカリ側でも堅牢性を保ち、水にも強い絵具の開発が待たれていて、それに適応するのがアクリル絵具であった。すでにアクリル樹脂はドイツ人のオットー・ローム(世界的に有名な化学会社ローム&ハースの創始者の一人)によって1901年に合成されていたが、それが商業ラインに乗ったのは1930年代であった。といっても、油性のアクリル絵具が安価で一般大衆の使えるものになるのにはまだまだ時間が必要だった。
1947年、ゴールデン社のルーツにあたるボクー社が油性アクリル絵具の「Magna」の開発に成功する。リキテンシュタインやモーリス・ルイスらの米国の作家達が制作に使用したのが、この油性のアクリル絵具である。彼らの作品に使用画材として、「アクリル絵具」と書かれていたとしても、現在流通しているエマルションタイプのアクリル絵具とは別物である。後にこの絵具はゴールデン社に引き継がれて、絵画修復用絵具として流通することになる。油性のアクリル絵具は塗布して乾いた後も、再び溶剤によって除去できるので、私の若い頃の認識としても「Magna」は修復用絵具という印象だった。
1955年になると、パーマネントピグメント社のヘンリー・レビンソンが水性エマルションタイプの絵具の開発に成功する。パーマネントピグメント社というのは、小さな家族経営の会社で、油絵具を作っていた会社である。私自身も若い頃は、パーマネントピグメント社から発売されていた油絵具を取り寄せて調べた記憶がある。話を戻すが、レビンソンが開発したエマルション絵具には、「Liquid」と「Texture」をくっつけた造語である「Liqutex」という名前がつけられた。後には買収劇などもあって、商標であったリキテックスが社名となるのだが、この「リキテックス」こそがその後のアクリル絵具の世界を一変させてしまう起点となった開発品である。
私は1977年に絵具研究の世界に飛び込んだが、何度か米国で開かれるNAMTA(International Art Materials Trade Association)のショーを見る機会を得た。初めて参加したのが1980年代半ば、アナハイムのコンベンションセンターで行われたNAMTAショーだった。この時の事で忘れがたい思い出が二つある。そもそも世界規模の画材ショーということで、日本で行われていた画材ショーに比べると腰を抜かしそうな規模だった。それぞれのブースも大きく、世界中の画材メーカーが出展しているので、いったいどれ位の商材があるのか気の遠くなるような感じがした。中でもパーマネントピグメント社のブースはリキテックスを中心に他のブースと隔絶する規模の展示があり、W&Nやルフラン&ブルジョーなどヨーロッパの老舗メーカーをも圧倒していた。日本ではまだまだ油絵具全盛の時代であったのに、米国ではすでにアクリル一色だったのだ。思い出に一番残っているのはそのきらびやかさと喧噪である。
ところで最近、会場のあったアナハイムの地名で想起されるのはなんだろうか。以前ならばディズニーランドだったろうが、現在ならばロサンゼルスエンゼルスではないだろうか。そう、大谷翔平が昨年まで在籍していたエンゼルスのメインスタジアムのある場所なのだ。仕事がはねてから、知人のお陰でエンゼルスの試合が観られることになり、3塁側の内野席に陣取った。対戦相手がどこだったかは忘れたが、初めて見るスタジアムの美しさは今も忘れがたい。私は生まれついての大阪人であり、当然のことながら、アレの球団の熱狂的ファンである。その応援風景はひたすらの狂騒である。アナハイムはどうかというと真逆の静寂であった。正直、ポカンとした。静かであるために、打球音がはっきり聞こえるのだ。そうかベースボールとはこういうものか、ファンによる贔屓の引き倒しではなく、スポーツそのものを楽しむものなのか・・というのが二つ目の忘れがたい思い出である。話が完全に画材から離れて他所に行ってしまった事をお許し頂きたい。
いよいよ、ここからが今回の話の本旨である。基本的にモノマーのアクリル酸エステルは水には溶けない油性のもので、これのポリマーであるアクリル樹脂も溶剤には溶けるが水には溶けない。ではなぜ、現在使われているアクリル絵具が水でといて描くことができるのか。結論から言えば、エマルション化することによって水に溶ける形になっているのだ。以前、卵の話の中で、エマルションのことについては後日としたが、今回はそのあたりをはっきりさせたい。エマルションを日本語にすると「乳濁液」と訳される。つまり牛乳のように濁った液体の事を指す言葉である。牛乳は水の中に脂質やタンパク質など水に溶けないものが浮かんでいる液体である。水と油は図のように混じり合わないが、これに食器用洗剤を垂らして混ぜてみると、油水は混じり合って白濁した一つの液体になる。
左は水と油を混ぜるたもので、これを振り混ぜると右端のように濁るが、時間が経つと元に戻る。真ん中は水と油に食器用洗剤を混ぜたもので、これも振り混ぜると右端のように乳濁して、そのまま元には戻らなくなる。これがエマルションである。
実際のアクリルエマルションはこのようにして作るのでは無く、乳化重合という方法がとられるが、そこまでは知る必要がない。構造はどうなっているかといえば、図の様な形で水の中に油が油滴の状態となって浮かんでおり、油滴の粒の大きさが、光が当たった時に乱反射するサイズなので、白く見えるのだ。エマルションには水の中に油が浮かんでいる水中油型(O/W型)と油の中に水の浮かんでいる油中水型(W/O型)があり、包んでいる方の性質が中のものより勝っている。牛乳はO/W型の代表だが、水に溶けるものとして認識されるし、逆にW/O型のマーガリンなどは油性のものとして認識されているだろう。皆さんは水に溶ける牛乳をクロスにこぼして乾いてしまったら、どんなに大変かご存知だろう。バターのような油性の成分が含まれているのだから当然そうなる。マーガリンをフライパンで熱するとプチプチと音がするが、これは中に含まれていた水分が蒸発する音である。このように通常混じり合わない二つの液体が界面活性剤などの力を借りて、混ざり合った状態のものを「エマルション」というのだ。卵にはレシチンという天然の界面活性剤が含まれているので、卵と油を混ぜるとO/W型のエマルションとなり、水を使って絵を描く事ができる。これを混合テンペラという。水の中に油性のアクリル樹脂を液滴として浮かべたものがエマルションタイプのアクリル樹脂である。だから基本的な考え方として、アクリル絵具はテンペラ絵具と同じなのだ。
このアクリルエマルションを垂らしてみると左図のように白い訳だが、水が蒸発すると透明なアクリル樹脂のみになるので、右図のように透明になる。アクリル絵具で絵を描くときには同じ事が起こるので、描いた時に明るく感じられたものが次第に透明で暗いものになっていくことを認識しなければならない。
ところで、「emulsion」の発音記号を複数の辞書で調べると、「エマルションもしくはイマルション」であって、「エマルジョン」と濁る発音記号のものはない。ところが、ずいぶん昔から様々な書物、ウェブサイト、はては著名な樹脂メーカーのパンフレットでさえ、「エマルジョン」と濁音で書いてあるものがあって、どうしてだろうと首をひねってきた。「illusion」のように語尾を「-ジョン」と呼ぶものが多いので、だれかが間違って表記し、これが一般化したのかもしれない。いずれにしても「エマルション」が正しいので、覚えるのであれば、どうか「エマルション」と発音して欲しい。長い長い講釈になったが、お付き合いいただき、ありがとうございます。
完
小杉弘明氏による画材のトリビアコラムを連載します。
小杉弘明 プロフィール
1954年 大阪出身。
1977年 大阪府立大学 工学部応用化学科卒。
元ホルベイン工業株式会社 技術部長。
現カルチャーセンター講師。
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