藤村克裕雑記帳264 2024-08-06
「神護寺 空海と真言密教のはじまり」展をみた
8月もあっという間に4日となり、日曜日なのにますます暑く、早い時間に目が覚めた。
朝刊が配達される音がする。ノロノロ起き上がって取りに行く。真っ先にテレビ欄を見ると、あれま、今日のNHK「日曜美術館」は表記の展覧会を特集するらしい。まずいぞ、これではどんどん混み始めるに違いない。「日曜美術館」の影響力はあなどれないのだ。で、急遽、このまま午前中に見物に行くことを決めた。東京国立博物館・「神護寺 空海と真言密教のはじまり」展。
9時半過ぎにJR上野駅・公園口に降り立ち、歩き出せば、国立西洋美術館チケット売り場から入り口あたりのわずかな日陰に二重三重の行列ができているのが見えて、焦る。国立科学博物館への道筋の左側にちょいとした“森”があるので、日陰を求めて樹々の間の遊歩道を進めば、白衣姿の野口英世氏のブロンズ像は、今日も試験管をかざして熱心に研究を続けている。ありがたいことだ。
さらに進めば、予想していたことではあるが、木立は途絶え木陰も無くなって、強い照り返しの広場に出なければならくなった。この先さらに、横断歩道を渡って係員に前売りチケットを示して博物館敷地内に入り、平成館までのあの長い道のりを進まねばならない。その間、日陰はない。が、私は進んでいく(えらい)。午前10時前とはいえ、すでに十分すぎる灼熱地獄。
やっと会場に辿り着いた。冷房がうれしい。
エスカレータで二階に進めば、入り口に「神護寺」との“墨書”が大きく掲げられている。空海の字のようでもあるが確信はない。左側壁を見れば、「神護寺」の境内の配置図がある。つい、これに見入った。
神護寺には、以前、まだ京都の学校に勤めていた時、東京からやってきた家人と合流して訪れたことがあった(学生時代の古美研(古美術研究旅行)では行っていないはずだ)。京都駅前からバスで行った。やはり暑い時だったような気がするが、曖昧である。バス停から坂や石段を登った。石段の先に門が見えた時の様子は覚えている。が、境内のことを思い出そうとしても、ほとんど何も覚えていない。図に示されているうち、覚えていたのは「かわらけ投げ」だけだった。あと、おそらくは金堂であろうか、楽しみにしていた「源頼朝像」、その実物大かどうか、ともかく大きな複製写真が置かれていて、それにひどくがっかりしたことを覚えている。本尊の「薬師如来立像」は遠くに見たような気もするが、確かでない。「高雄曼荼羅」はまったく記憶にない。その日、栂尾の高山寺まで足を伸ばそうかとも思っていたが、「鳥獣戯画」が見られる保証もないのでやめた。何も調べずに来てしまったバチが当たった。なんだかなさけない1日だった。そういうわけで、リベンジの意味もある。
最初に登場するのが「観楓図屏風」。ここにはすでに人だかりができている。熱心なことである。狩野秀頼筆。16世紀。
高雄は言わずと知れた紅葉の名所。清滝川のこちら側の岸辺に、紅葉狩りを楽しむ人々や色づいた楓を描き、橋の向こうの右奥に雲を越えて神護寺の伽藍、左奥に雪の積もる愛宕山神社などを描いている。愛宕山神社への参道には参詣人も描いている。
清滝川の手前で紅葉狩りをする人々の姿は、生き生きとしており、見ていて面白い。着飾っていながら胸をハダけて子供に乳を与える女や、鼓や手拍子に合わせて踊る男の姿も巧みにとらえていて、見飽きることがない。どうやら男たちの傍らの箱状のものにお酒を入れてここまで運んできたらしい。一升瓶や紙パックがない時代には、漆塗りのこうした容器が使われていたのである。清滝川にかかる橋には、尺八や笛を奏でる人たちもいる。橋に座り込んだり、欄干に手をかけたりしてそれを聴く人たちもいる。こうしたさまざまな人々の中には、お茶(?)を売る男も描かれており、お茶は薬として栄西によって中国からもたらされ、たしか高山寺で栽培を始めた、という話も思い出される。そんなわけでいつまでも見ていられる。この絵は「風俗画」の嚆矢だ、と言われているそうだ。ふとみれば、空には雁が列を成して飛び去って行き、白鷺が舞い降りてくる。
狩野秀頼は、狩野元信の次男とも、その子供(元信の孫)とも伝えられているらしい。楓や松だけでなく、秋草や岩なども巧みに描いていて、さすがに確かな力量を備えている。国宝。東京国立博物館の所蔵。神護寺を紹介するにふさわしい親しみの持てる作品を最初に持って来たわけだ。
以下、時間をかけてゆっくりと巡っていった。
特に強く印象に残ったものをメモしていきたい。
「弘法大師像」。鎌倉時代。この分厚い板から彫り出されたレリーフには驚いた。正面を向いて座し、右手に宝具、左手に数珠を持っているところを捉えている。解剖学的には無理のありそうな手の表情が独特である。僧侶の姿をとらえたこうしたレリーフ(浮き彫り)表現を初めて見た。鎌倉時代の作、というから仏師たちの腕もある頂点を迎えて、普通ならやらないようなことにも果敢にチャレンジしたのであろう。力強さの中に繊細さも十分に兼ね備えており、感心して見た。重要文化財。
「伝源頼朝像」「伝平重盛像」「伝藤原光能像」。いずれも国宝。鎌倉時代。高校時代にこれらの絵の作者を藤原隆信と教わった。が、いつのまにか、その作者名は消え、それぞれのタイトルに「伝」がついている。そのあたりの事情を図録で土屋貴裕氏が詳細に書いている(「神護寺三像を見つめなおす」)。それによると、これらの絵はそれぞれ巨大な一枚絹にほぼ等身大で描かれており、小さな紙に描く「似絵(にせえ)」=藤原隆信が得意とした「似絵」とは言い難く、礼拝画的なものだろう、とまず言っている。次に、『神護寺略記』にある「仙洞院」とそこにあった画像群について検討していくと、1205年に没した藤原隆信がこれらを描くことは不可能であることを示している。さらに、「伝源頼朝像」「伝平重盛像」「伝藤原光能像」の技法を細かく検討して、「伝頼朝像」は実在人物のリアルな表現をめざす「似絵」とは異なった表現だ、としている。これらをもって、作者を藤原隆信とは言い難い、と結論づけている。作者名が消えてしまった理由である。
また、描かれた人物についても、それぞれ足利直義、足利尊氏、足利義詮ではないか、という説があって確定できないことを述べている。それで「伝」としているらしい。
こうした事情を踏まえても、「伝源頼朝像」は素晴らしい。線のみで描かれた顔の魅力はもちろん、黒にみえる装束に模様が丹念に描出され、皺が構成されていることは、現物を見てはじめて確認できた(別に展示されていた江戸時代の冷泉為恭筆のこの絵の“白描”を参照すれば、さらに理解が深まるはずだ)。赤や青の“差し色”もあざやかで心憎い。
他の二像もそれぞれ魅力があるが、「伝源頼朝像」には及ばない、と感じさせられる。
一連の「両界曼荼羅(高雄曼荼羅)」(国宝)をめぐる展示は圧巻である。
この日には、画面の縦横がそれぞれ4メートルの大画面の「胎蔵界曼荼羅」が展示されていた(「金剛界曼荼羅」は後期日程での展示)。真っ黒に拡がるその「胎蔵界曼荼羅」はいわく言い難い迫力を持って迫って来るのだが、やはり何がどう描かれているかは見えない。見たい、知りたい、というのが私だけではない観客の正直な気持ちでもあろう。
そうした気持ちに対する配慮であろうか、「胎蔵界曼荼羅」の展示に至る前に、「高雄曼荼羅図像」として「高雄曼荼羅」に描かれている仏たちの像を白描で示したものを巻物や冊子などを拡げて多数展示していたし、「胎蔵界曼荼羅」と同じ部屋に江戸時代の精緻な「模本」を展示していた。これらは、図像の確認が困難になってしまっている「高雄曼荼羅」の図像を読み取るための参考の役割を果たしてもいたが、それだけでなく、由緒ある「高雄曼荼羅」から仏たちを写しとる情熱に込められた信仰心の厚みのようなものも示している。どれをとっても、どこをとっても、手抜きひとつない描き手の大変な集中力に圧倒された。これは、ただごとではない。
また、別に展示されていた彩色された「両界曼荼羅」(鎌倉時代)、「尊勝曼荼羅」(鎌倉時代)もそれぞれの魅力を存分に示していたし、江戸時代の高橋逸斎が描いた「両界曼荼羅」(知恩院蔵)の精緻すぎる描線には圧倒されて息をするのを忘れてしまった。
そんなわけで、空海が請来した唐の李真らが描いた「曼荼羅」と「祖師像」は損傷が大きく、あらたな「曼荼羅」を制作し(弘仁本)、さらにこれをもとにして制作したのが「高雄曼荼羅」である。ただし、請来本や弘仁本は彩色されていたが、「高雄曼荼羅」は紫の綾織に金泥と銀泥とによる肥瘦のない線で描かれていた。空海が直接その制作に携わった、と言われているから、大変に“由緒正しい”わけで、長い年月を経て、紫はほぼ真っ黒に、線描による諸仏の姿も読み取り難くなってしまっているものの、というかそれゆえに、大変な存在感なのである。「金剛界曼荼羅」も見物しに来ようか、と悩む。
さらに、江戸時代の修理後に新調した「高雄曼荼羅」を収納するための細長い朱塗りの箱=「両界曼荼羅(高雄曼荼羅)唐櫃」もまたかっこいいのであった。長さが4メーター80というから、材料の板は当時でも特注だっただろう。
別室には、デジタル技術の粋を集めて、実に鮮明で大きな「高雄曼荼羅」の映像が展示されており、疲れもあったから、椅子を渡り歩いて座ってしばし鑑賞させてもらった。図録にこの展示についての記述が全くないことが不思議である。
第二会場では、なんといっても「薬師如来立像」の大迫力に目を見張った。この一木造りの立像は非常にたっぷりとした力強い腰部、というか、太腿を持ち、ドーン! と直立している。かといって、そのシンメトリーさを強調するのでもなく、前方に出した両の腕と手が衣紋との関係もあって異なった表情を呈し、さらに衣紋の明瞭な襞の流れが左右に異なった動きを作り出していて独特であり、直立しているはずの像に微妙な動勢を生じさせている。口を「へ」の字に結んだ顔も、とてもいい。図録に「日本彫刻史上の最高傑作」とあることも頷ける。神護寺では到底不可能なことだが、像の横に回り込んで観察できるのも嬉しい。図録の裏表紙には頭部を真後ろから撮影した写真が使われている。とても珍しい写真なので、図録の裏表紙をスマホで撮って掲載してもらおうと思う。光背を取り外して、真後ろから像を観察できる機会など、今後も私ども庶民には決して訪れないだろう。
私は仏教のことをほとんど何も知らないが、真言密教では大日如来を最も大事にすることは知っている。そこから考えると、神護寺の本尊が大日如来ではなく薬師如来であることに多少の不思議さを感じて当然だろう。このことを説明するのは、まさにこの展覧会のタイトル「空海と真言密教のはじまり」そのものに関わる。が、その説明はここでは省略したい。
他にも「五大虚空菩薩坐像」のこと、「弘法大師行状絵」(南北朝時代)のことや「八幡神」と空海との「互御影」のこと、空海の書のこと、「性霊集」のこと、「大般若経(紺紙金字一切経)」とその帙のことなど触れておきたいが、すでにもう力及ばずである。ともかく勉強になるしむっちゃ面白い展覧会であった。なんといっても本物がそこにあるのである。
(2024年8月6日、東京にて)
・創建1200年記念
特別展「神護寺―空海と真言密教のはじまり」
2024年7月17日(水)~9月8日(日)
時間:9:30~17:00
毎週金・土曜日は~19:00(注)ただし8月30日・31日は除く
(入館は閉館の30分前まで)
会場:東京国立博物館 平成館(上野公園)
公式HP
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2649
冒頭:「神護寺展」フライヤー
2段落目:「観楓図屏風」フライヤーより
3段落目:「弘法大師像」フライヤーより
4段落目:「両界曼荼羅」フライヤーより
5段落目:「薬師如来立像」の後頭部、図録裏表紙より
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
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