立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
加藤翼「縄張りと島」展を見た
2021-08-30
もう随分前になるが、普段はそんなことしないのに、上野の都美館で芸大や5美大などの卒業制作展を全て見物してみたことがある。その時、強く印象付けられた作品があって、作者は加藤翼という名前だった。作者名まで覚えてしまうくらい印象に残ったのである。
それはビデオ作品で、どこか広い場所で(彼が学んだムサビのグラウンドだろうと思われたが)、垂木と薄いベニヤ板で作った大きな構造物(当時作者が住んでいたアパート全体の外形を実物大で作ったものというような説明があったと記憶しているが、ともかくとても大きな構造物)にロープを繋いで、大人数で力を合わせてロープを引いて構造物をひっくり返す、ひっくり返った衝撃で構造物の大部分はあっけなく壊れてしまう、そんな様子を捉えた映像だった。それはいかにも無意味、、、というか、クソ面白くもねえ! だからみんなでこんなのやってみたぜ、という感じに満ち満ちていて、ユーモラスですらあった。その映像から目を離せば、モニタの背後には映像に登場していた(らしい)構造物の名残というか破片というか、ともかく壊れかけた構造物の一部が運び込まれていて場を形作っていた。
それを観た直後に、ある人と出くわして、今、展示を見て来たんだけど、ムサビに面白い奴がいて、確か加藤翼、、、とそこまで言うと、ああ、ツバサくんね、とまるで仲良しみたいに言うのでびっくりして、え? 知り合い? と尋ねると、息子のトモダチなんだよ、と言うので、へえ! と驚いて、その名は私の記憶の中にいっそう深く刻まれたのだった。
その加藤翼氏の展覧会。初台のオペラシティギャラリー。
手指を消毒し、検温してもらって、チケットを買い、入場すれば、薄暗い照明の中に大きな骨組みだけの構造物から出ている何本ものロープが壁に固定されており、結果、構造物は床から斜めに浮き上がっているのが目に飛び込んでくる。その手前に大きなモニタが置かれて、後ろの構造物を用いて行なった“引き倒し”の記録映像が映し出されている。なるほど、加藤氏はあれからずっと“引き倒し”を続けてきたらしい。順路の最初に設営されているこの構造物は、老舗焼き鳥店「いせや公園店」の店舗の骨組みそのものだという(その店舗が建て替えられるので廃材をもらってきて井の頭公園でもう一度組み立て、それを多人数で“引き倒し”、その後もどこかに保管し続けてきて、今回もう一度組み立てたものらしい)。
同様に、加藤氏が所属するギャラリー「無人島プロダクション」のスペースの原寸大の再現、加藤氏の実家の原寸大での再現、二分の一の寸法での再現などなど、国内外を問わず“引き倒し”に用いられる構造体には、それぞれ由来があるようだ。“引き倒し”に用いた構造物の実物と記録映像とを並置して見せている、という事後の展示の方法も一貫している。
それはビデオ作品で、どこか広い場所で(彼が学んだムサビのグラウンドだろうと思われたが)、垂木と薄いベニヤ板で作った大きな構造物(当時作者が住んでいたアパート全体の外形を実物大で作ったものというような説明があったと記憶しているが、ともかくとても大きな構造物)にロープを繋いで、大人数で力を合わせてロープを引いて構造物をひっくり返す、ひっくり返った衝撃で構造物の大部分はあっけなく壊れてしまう、そんな様子を捉えた映像だった。それはいかにも無意味、、、というか、クソ面白くもねえ! だからみんなでこんなのやってみたぜ、という感じに満ち満ちていて、ユーモラスですらあった。その映像から目を離せば、モニタの背後には映像に登場していた(らしい)構造物の名残というか破片というか、ともかく壊れかけた構造物の一部が運び込まれていて場を形作っていた。
それを観た直後に、ある人と出くわして、今、展示を見て来たんだけど、ムサビに面白い奴がいて、確か加藤翼、、、とそこまで言うと、ああ、ツバサくんね、とまるで仲良しみたいに言うのでびっくりして、え? 知り合い? と尋ねると、息子のトモダチなんだよ、と言うので、へえ! と驚いて、その名は私の記憶の中にいっそう深く刻まれたのだった。
その加藤翼氏の展覧会。初台のオペラシティギャラリー。
手指を消毒し、検温してもらって、チケットを買い、入場すれば、薄暗い照明の中に大きな骨組みだけの構造物から出ている何本ものロープが壁に固定されており、結果、構造物は床から斜めに浮き上がっているのが目に飛び込んでくる。その手前に大きなモニタが置かれて、後ろの構造物を用いて行なった“引き倒し”の記録映像が映し出されている。なるほど、加藤氏はあれからずっと“引き倒し”を続けてきたらしい。順路の最初に設営されているこの構造物は、老舗焼き鳥店「いせや公園店」の店舗の骨組みそのものだという(その店舗が建て替えられるので廃材をもらってきて井の頭公園でもう一度組み立て、それを多人数で“引き倒し”、その後もどこかに保管し続けてきて、今回もう一度組み立てたものらしい)。
同様に、加藤氏が所属するギャラリー「無人島プロダクション」のスペースの原寸大の再現、加藤氏の実家の原寸大での再現、二分の一の寸法での再現などなど、国内外を問わず“引き倒し”に用いられる構造体には、それぞれ由来があるようだ。“引き倒し”に用いた構造物の実物と記録映像とを並置して見せている、という事後の展示の方法も一貫している。
『かんらん舎大谷芳久の手探り』展を見た
2021-08-02
角田俊也さんという私の未知の人が、「かんらん舎」の大谷芳久さんから藤牧義夫とトニー・クラッグに関する貴重な資料群を譲り受け、今それを展示している、という情報を得ることができた。
大谷さんが1999年から10年以上かけて、藤牧義夫の作品として流布する全てを詳細に調査し、同人誌『一寸』に連載したものをもとにして、2010年に『藤牧義夫 眞偽』(学藝書院)として大きな本に纏めて刊行したことはよく知られている。その調査で大谷さんは、偽作の疑念のある作品を丹念にトレースし真偽を確定していったことは有名な話だが、そのトレース群が展示されているというのだ。また、1997年の豊田市美術館『トニー・クラッグ展』に際して、大谷さんの手で作られた「作品系統図」の“原図”も展示されているらしいのだから、これは絶対に見たい、と空模様は怪しかったが出かけて行った。
会場はビルの3階。グレイに塗装された鉄の扉をノックすると、どうぞ、と角田さんご当人に招かれた。
入ってすぐ左にエントランスがのびて、その先に展示スペースがある。普段は“若い人”の展示をしています、と角田さんが言った。
エントランス部の壁には都会の風景写真が一枚(昔の上野広小路の街並みらしい)、藤牧義夫の版画作品『赤陽』のモノクロ写真が3種類並べて展示してある。よく見るとそれぞれ微妙に違っている。別の壁に『赤陽』が大きく印刷された2種類の展覧会ポスターも展示してある。これも良く見ると違っている。カウンターに芳名帳、数種類の冊子、ハガキなど。
署名して、奥のスペースに入ると左手壁に大きな「表」がかかっている。四畳半くらいの大きさはあろうか。藤牧義夫の作品がいつどこでどう発表され、それらがどんな印刷物にいつ誰によって(小野忠重氏によるものが大部分である)掲載されてきたか、などが細大漏らさず整理された「表」である。エクセルで作ってA4に出力し互いに繋いであるそうだ。ところどころに手書き文字の書き込みがある。カラーマーカーで重要なところを示している。この「表」に至るのに、どれほど煩雑な調査を要したか。私の想像をはるかに超えるだろう。す、すごい。
「表」の次に、藤牧版画作品『給油所』をカラーで大きく掲載した上毛新聞。平成2年(1990年)5月20日号の11面の“全面広告”の現物である。
その隣に、『給油所』の1933年帝展入選時の写真図版のある印刷物と、1933年発行の『創作版画集』に掲載された同作品原色版印刷物が展示されている。
さらに『給油所』からのトレース3種が並び、これらによって、上毛新聞掲載のカラー図版が帝展入選時(1933年)の2種類の印刷物の図版と細部で異なっていることを示している。上毛新聞に掲載された『給油所』は藤牧義夫の手になるオリジナルの『給油所』ではない、というわけだ。
大谷さんが1999年から10年以上かけて、藤牧義夫の作品として流布する全てを詳細に調査し、同人誌『一寸』に連載したものをもとにして、2010年に『藤牧義夫 眞偽』(学藝書院)として大きな本に纏めて刊行したことはよく知られている。その調査で大谷さんは、偽作の疑念のある作品を丹念にトレースし真偽を確定していったことは有名な話だが、そのトレース群が展示されているというのだ。また、1997年の豊田市美術館『トニー・クラッグ展』に際して、大谷さんの手で作られた「作品系統図」の“原図”も展示されているらしいのだから、これは絶対に見たい、と空模様は怪しかったが出かけて行った。
会場はビルの3階。グレイに塗装された鉄の扉をノックすると、どうぞ、と角田さんご当人に招かれた。
入ってすぐ左にエントランスがのびて、その先に展示スペースがある。普段は“若い人”の展示をしています、と角田さんが言った。
エントランス部の壁には都会の風景写真が一枚(昔の上野広小路の街並みらしい)、藤牧義夫の版画作品『赤陽』のモノクロ写真が3種類並べて展示してある。よく見るとそれぞれ微妙に違っている。別の壁に『赤陽』が大きく印刷された2種類の展覧会ポスターも展示してある。これも良く見ると違っている。カウンターに芳名帳、数種類の冊子、ハガキなど。
署名して、奥のスペースに入ると左手壁に大きな「表」がかかっている。四畳半くらいの大きさはあろうか。藤牧義夫の作品がいつどこでどう発表され、それらがどんな印刷物にいつ誰によって(小野忠重氏によるものが大部分である)掲載されてきたか、などが細大漏らさず整理された「表」である。エクセルで作ってA4に出力し互いに繋いであるそうだ。ところどころに手書き文字の書き込みがある。カラーマーカーで重要なところを示している。この「表」に至るのに、どれほど煩雑な調査を要したか。私の想像をはるかに超えるだろう。す、すごい。
「表」の次に、藤牧版画作品『給油所』をカラーで大きく掲載した上毛新聞。平成2年(1990年)5月20日号の11面の“全面広告”の現物である。
その隣に、『給油所』の1933年帝展入選時の写真図版のある印刷物と、1933年発行の『創作版画集』に掲載された同作品原色版印刷物が展示されている。
さらに『給油所』からのトレース3種が並び、これらによって、上毛新聞掲載のカラー図版が帝展入選時(1933年)の2種類の印刷物の図版と細部で異なっていることを示している。上毛新聞に掲載された『給油所』は藤牧義夫の手になるオリジナルの『給油所』ではない、というわけだ。