246 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

2014年12月京都で小谷元彦展を見た(3)
2015-01-26
私が入場した時、映像は、女性が“装置”に囲まれた椅子に座って刺繍をしているところだった。私はすぐ、なぜか、昔見たハービー・ハンコックのプロモーションビデオを想起した。うろ覚えだが、ロボットだったかサイボーグだったかが登場して強烈な印象のPVだった。時間を経てもずっとロボットのことなどが気になっているのは、そのせいもあるだろう。
同時に、映像に登場する女性と同じような障害を持った女性作家の作品を、先頃の「愛知トリエンナーレ」で見たことを思い出していた。それはその女性作家が自分自身の姿を撮った大きな写真作品や丹念に作られた数知れないオブジェで構成された作品だった。耽美的な内面を素直に示した作品だったように記憶していたが、小谷展の会場を出たあとチラシを見て、これらは同じ人で片山真理という人だ、ということを知った。当然のことながら、この映像作品では彼女の作品世界とここに登場する彼女とがダブって見えてくるところはない。
もうひとつ連想したことを述べれば、マーシュ・バーニーが『クレマスター3』で義足の女性ランナーを作品に起用していたことだ。その女性ランナーは両足透明な義足で登場していた。
これらは、断片的な要素からくるただの連想に過ぎない。とはいえ、メモ程度には記しておこうと思う。
小谷氏の作品は、最初期から一貫して、誰もが保持する生理的な感覚、その感覚の中でも、おそらく最も原初的な「痛覚」のようなものを見つめさせながら、人間って何?と問いかけているように私は思う。だから、小谷氏の作品はいつもこわい。今日リアルなのはそういう感覚の所在だけだ、とでも言いたげである。今回の作品でも、義足の装着部の痛みのことはもちろん、刺繍の針、紙を切るハサミ、ドリルの回転、その回転ではげしく枠にぶつかる部品の腕、型取りされた手に握られたメスなど、直接痛みのイメージに繋がっている。
もうひとつ、小谷氏の作品には、回転運動、あるいは渦巻き運動への着眼・嗜好があって、この作品でもそれは一貫している。“装置”の動力源のモーターの回転や黒子の回すハンドルなどはもちろん、考えてみれば、私たちの体の動きもまた、回転運動の組み合わせで成立している。もっといえば、回転運動をピストン運動に変換することも重要である。上下左右への運動。コロや車輪、プーリーやカム。義足で歩行するときなどは、こうしたことがより自覚されてくるだろうし、義足での歩行を見ても体の中に普段と異なった感覚が生じてくる。それ故の義足の女性の登場だったろう、とさえ感じた。別会場の大きな作品(『Terminl Documents(ver2.0)』)はまさに回転運動・渦巻き運動を露わにしたものだった。回転運動・渦巻き運動もまた、「畏怖」のような「怖れ」のような人間の原初の感覚を呼び起こす。
2014年12月京都で小谷元彦展を見た(2)
2015-01-21
その番組には、『心の社会』(産業図書)でおなじみのマーヴィン・ミンスキーも登場して、具合の悪くなった体の部位を機械と入れ替えれば、人間は200歳以上生きることができる、などと言っていた気もする。まさに、サイボーグ作りの発想だ。SFの世界の話みたいだが、しかし、義歯のようなものや心臓のペースメーカーや人工関節、人工内耳、人工水晶体など、さらに人工心肺とか透析などはまだ嵩張って動かせないが、すでに体の機能を代行しているわけで、いまや“普通に”人体と器具や機械は入れ替え可能になっている。老眼になって遠近両用眼鏡にしたとき、ロボコップのような動きをしなければ焦点を合わせられないので、自分もサイボーグになった気がしたが、眼鏡もまた体に装着して機能を補う重要な器具である。器具や機械だけではない。ES細胞やiPS細胞の実用は近そうだし、遺伝子操作はすでにいろんなところで行なわれている。すごいことになってきたものだ。
新聞を見ていても、かなりの頻度でロボットの記事が目に飛び込んでくる。二足歩行どころか片足ずつでローラー・スケートをするロボットが開発された、とか書いてある。平地での移動が素早くなる、というのだ。それで、どんなよいことがあるか、私にはわからない。が、ともかく、新聞などには、ロボットの記事がかなり多いのに気づかされる。いつの間にか、人形からロボットの話になってしまっているが、考えてみれば、このところずっと、昨年12月に京都で見た小谷元彦氏の作品が気になってこういうことに目が向くのではないか。
京都市中心部にある「京都芸術センター」での小谷氏の個展では三つの作品が発表された。
そのうちの一つは三面がひとつながりで大きく投映された映像インスタレーション作品『Terminal Impact(featuring Maki Katayama “tools”)』。
2014年12月京都で小谷元彦展を見た(1)
2015-01-20
年末に掃除していて、つい、腰を痛め、動くのがおっくうになった。で、本を見て過ごしていると、「人形は人間から離れるほどかわいく、近づく程不気味になる。」という文に目がとまった(出川直樹『机上の宇宙・わが偏愛の骨董コレクション』平凡社)。ああ、確かに。
人形、ではないが、この文に触発されて思い出したことがある。
以前、偶然通りかかった新宿・高島屋のロビーで、大阪大学の石黒浩さんが作った人間の若い女性そっくりのロボットが展示されているのに出くわして、とてもびっくりしたのだ。
ガラスケースに入った若い女性を、人々が取り巻いて見入っていた。女性は、人々に反応するように顔の向きを変え、表情を変化させ、ガラス越しに声を出して話していた。何か変な感じがした。それで、あ、作り物(この場合ロボット)、と気づけるのだった。「何か変な感じ」から、「作り物」、つまり「あの評判の遠隔操作されたロボット」、と判断するまでの間の奇妙な戸惑い。その中には、確かに不気味さというものが含まれていた。同じようなロボットがTVのCMに登場していたし、石黒浩という人の評判は知っていたから、比較的たやすく判断できたが、何も知らなければ、ロボットだとは気づけなかったかもしれない。多くの人々が立ち止まって見入っていたことから分かるように、本物そっくり、という“作り物”に、人は不気味さを感じながらも強く引きつけられる。

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