立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
「熊谷守一 生きるよろこび」展をみた その5
2018-01-23
とここまで書いてきて、久しぶりに『へたも絵のうち』(この言葉大好き!)を引っ張り出してきて、つい全部読んでしまった。なんか、いままで書いてきたことがちょっとむなしくなるくらい面白かった。最後にここから抜き書き。
*
この頃は、私の昔の絵を持ってくる人がときどきいます。ほんとうに私がかいたのかどうか確かめにくるのですが、貧乏していたころの絵で、すっかり忘れてしまっていたのを、見せられたこともあります。その絵を見ながら「貧乏しなければかけない絵だな」と自慢したら、妻の方は「いい絵でもかかなければ、あんな貧乏した甲斐はないでしょう」といっていました。
*
ふ、深い…。もうひとつ。
*
二科の研究所の書生さんに「どうしたらいい絵がかけるか」と聞かれたときなど、私は「自分を生かす自然な絵をかけばいい」と答えていました。
下品な人は下品な絵をかきなさい、ばかな人はばかな絵をかきなさい、下手な人は下手な絵をかきなさい、と、そういっていました。
結局、絵などは自分を出して自分を生かすしかないのだと思います。自分にないものを、無理になんとかしようとしてもロクなことにはなりません。だから、私はよく二科の仲間に、下手な絵も認めよといっていました。
*
うーん、まいったなあ。
(2018年1月21日 雪の東京にて)
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この頃は、私の昔の絵を持ってくる人がときどきいます。ほんとうに私がかいたのかどうか確かめにくるのですが、貧乏していたころの絵で、すっかり忘れてしまっていたのを、見せられたこともあります。その絵を見ながら「貧乏しなければかけない絵だな」と自慢したら、妻の方は「いい絵でもかかなければ、あんな貧乏した甲斐はないでしょう」といっていました。
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ふ、深い…。もうひとつ。
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二科の研究所の書生さんに「どうしたらいい絵がかけるか」と聞かれたときなど、私は「自分を生かす自然な絵をかけばいい」と答えていました。
下品な人は下品な絵をかきなさい、ばかな人はばかな絵をかきなさい、下手な人は下手な絵をかきなさい、と、そういっていました。
結局、絵などは自分を出して自分を生かすしかないのだと思います。自分にないものを、無理になんとかしようとしてもロクなことにはなりません。だから、私はよく二科の仲間に、下手な絵も認めよといっていました。
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うーん、まいったなあ。
(2018年1月21日 雪の東京にて)
「熊谷守一 生きるよろこび」展をみた その4
2018-01-23
とはいえ、線があろうがなかろうが、塗り残されていようが塗ってあろうが、線が赤かろうが黒かろうが、細かろうが太かろうが、そんなことは本当はどうでもよい。というのも、展示スペースを次のスペースへと移動するときなど、遠く離れたところの小さなサイズの絵が極めて明快に眼に飛び込んできて、グイと引き寄せられることを会場で体感できる。熊谷守一というひとの並外れた力量とその達成を再認識させられるわけだ。タンノウということができる。
一方、「2、」のセクションにあった『小牛』や、『漆樹紅葉』(1942年)のような“探索中”の様子がまざまざと現れている作品たちにも私は魅了された。
また、2点の『少女』(1963年)へとまとまっていくスケッチ(1958〜59年)の“一筆描き”にも魅了された。線を順に辿っていくと熊谷の自在な(自在すぎる)意識の流れのようなものが体感できる。ロダンやマチス、クレー、ミロなどの一筆描きのデッサンが想起され、負けていない。(今、須田国太郎の能の舞台を描いたスケッチも思い出している。あれも素晴らしい)。この『少女』をめぐる展示は、こうした現場でのスケッチがある日蘇って油絵になっていく過程を直に見ているようで、じつに興味深かった。トレーシング・ペーパーを使っていたことも。
ああ、長くなってしまっている。でも、もうすこし。
一方、「2、」のセクションにあった『小牛』や、『漆樹紅葉』(1942年)のような“探索中”の様子がまざまざと現れている作品たちにも私は魅了された。
また、2点の『少女』(1963年)へとまとまっていくスケッチ(1958〜59年)の“一筆描き”にも魅了された。線を順に辿っていくと熊谷の自在な(自在すぎる)意識の流れのようなものが体感できる。ロダンやマチス、クレー、ミロなどの一筆描きのデッサンが想起され、負けていない。(今、須田国太郎の能の舞台を描いたスケッチも思い出している。あれも素晴らしい)。この『少女』をめぐる展示は、こうした現場でのスケッチがある日蘇って油絵になっていく過程を直に見ているようで、じつに興味深かった。トレーシング・ペーパーを使っていたことも。
ああ、長くなってしまっている。でも、もうすこし。
「熊谷守一 生きるよろこび」展をみた その3
2018-01-23
「1、闇の守一」では、1900年に入学した東京美術学校時代の1901年のスケッチから1918年の油絵『某夫人像』までほぼ20年近くに及ぶあいだの油絵13点、スケッチ5点、楽譜やハガキやノート類の資料が展示されている。この間、熊谷は制作だけに集中していたのではない。二度樺太調査に参加して、調査先で地形や産物などを捉えた絵を描き(関東大震災ですべて消失したとのことだ)、当該役所に出向いて仕事をしているし、故郷の付知(つけち)で「日傭(ひよう)」などの肉体労働に従事している。残されている作品数が少ないのも頷ける。
学生時代にはよく学んでいる様子が伺え、すでに形体把握ののびやかさとデリケートさが共に備わっていて、色感のよさもすでに充分に示されている。逆光の人体を描いた『横向裸婦』(1904年)では、当時美校の教員だった黒田清輝とよく似た筆遣いをさえ認めうる。総じて教場=室内の女性モデルなどに生じた陰影のドラマにじつにデリケートに反応できているが、1903年のある夜に遭遇した轢死事故現場でスケッチしている学生だった熊谷の姿を想像すると、デリケートさとともに剛胆さをも備えていることも分る。この現場でのスケッチが1908年の油絵『轢死』としてまとまって以降、1909年の『蝋燭』、1910年の『ランプ』というように、闇で描いた絵が続く。黒田らの外光派には全く飽き足らない、ということだろうか。それにしても、暗闇の中でいったいどうやって描いたものだろう。描きつつある絵が見えないではないか。昔、『蝋燭』をはじめて見たときからの謎が解けない(ゴッホにもいえることだ)。
また、1915年に再び上京して以降の作品などもこのセクションに含まれている。のちに妻となる秀子が『某夫人像』(1918年)で示され、音楽や音響学や色彩学などへの関心を示す1920年代の資料。『某夫人像』では幅広でほぼ同一方向の短い筆触で画面全体を埋めている。その筆触で陰影部にさまざまな色が穏やかではあるが見出されている。やはりただ者ではない。
学生時代にはよく学んでいる様子が伺え、すでに形体把握ののびやかさとデリケートさが共に備わっていて、色感のよさもすでに充分に示されている。逆光の人体を描いた『横向裸婦』(1904年)では、当時美校の教員だった黒田清輝とよく似た筆遣いをさえ認めうる。総じて教場=室内の女性モデルなどに生じた陰影のドラマにじつにデリケートに反応できているが、1903年のある夜に遭遇した轢死事故現場でスケッチしている学生だった熊谷の姿を想像すると、デリケートさとともに剛胆さをも備えていることも分る。この現場でのスケッチが1908年の油絵『轢死』としてまとまって以降、1909年の『蝋燭』、1910年の『ランプ』というように、闇で描いた絵が続く。黒田らの外光派には全く飽き足らない、ということだろうか。それにしても、暗闇の中でいったいどうやって描いたものだろう。描きつつある絵が見えないではないか。昔、『蝋燭』をはじめて見たときからの謎が解けない(ゴッホにもいえることだ)。
また、1915年に再び上京して以降の作品などもこのセクションに含まれている。のちに妻となる秀子が『某夫人像』(1918年)で示され、音楽や音響学や色彩学などへの関心を示す1920年代の資料。『某夫人像』では幅広でほぼ同一方向の短い筆触で画面全体を埋めている。その筆触で陰影部にさまざまな色が穏やかではあるが見出されている。やはりただ者ではない。
「熊谷守一 生きるよろこび」展をみた その2
2018-01-23
熊谷守一は東京美術学校を主席で卒業したが、その思弁的な性向によって画家としての仕事は遅々として進まず、実際の絵画的達成は60代(1940年以降)になるまで果たせなかった。しかし、この描かない画家の真価は,(晩年に大成する仕事から遡行することではなく)すでに描かない画家であったとき周囲の画家たちに与えていた(彼らの証言に残る)影響に明らかだった(その意味で熊谷の存在はデュシャンの存在と似ている)。
熊谷の絵画的思考の根本は、眼に入ってくる視覚情報の断片の集合と人間が見ていると把握する像の間の落差にあった。その落差は確率的、統計学的に決まるのである。ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの影響を受けたと語っていた熊谷が、絵を描けない時に熱中したのは確率の研究、計算だった(計算式と数字が埋まるノートが残されている)。入力された感覚と認識の落差が大きいほど(情報価値がそうであるように)絵画の感覚的強度は増す。
*
この抜き書きだけでも、岡崎氏の熊谷論は巷に流布する熊谷守一への先入観を一掃するものだということが分るだろう。素晴らしいと私は思う(難しくて分んないところもあるけど)。
であるからして、熊谷守一のことは、いつのまにか、岡崎氏の熊谷読解と切り離せなくなってしまった。だからこそ、竹橋でのこの大きな展覧会を機に、もう一度虚心に熊谷守一の作品とじっくりまみえたい、そう思ったのだった。数年前の岐阜県立美術館での熊谷展は見る事ができなかった(これは、思い出すだに悔やまれる)。
竹橋を訪れたのは平日の午前中。なのに、けっこうな賑わいだった。外人さんも若い人も多い。
熊谷の絵画的思考の根本は、眼に入ってくる視覚情報の断片の集合と人間が見ていると把握する像の間の落差にあった。その落差は確率的、統計学的に決まるのである。ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの影響を受けたと語っていた熊谷が、絵を描けない時に熱中したのは確率の研究、計算だった(計算式と数字が埋まるノートが残されている)。入力された感覚と認識の落差が大きいほど(情報価値がそうであるように)絵画の感覚的強度は増す。
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この抜き書きだけでも、岡崎氏の熊谷論は巷に流布する熊谷守一への先入観を一掃するものだということが分るだろう。素晴らしいと私は思う(難しくて分んないところもあるけど)。
であるからして、熊谷守一のことは、いつのまにか、岡崎氏の熊谷読解と切り離せなくなってしまった。だからこそ、竹橋でのこの大きな展覧会を機に、もう一度虚心に熊谷守一の作品とじっくりまみえたい、そう思ったのだった。数年前の岐阜県立美術館での熊谷展は見る事ができなかった(これは、思い出すだに悔やまれる)。
竹橋を訪れたのは平日の午前中。なのに、けっこうな賑わいだった。外人さんも若い人も多い。
「熊谷守一 生きるよろこび」展をみたその1
2018-01-23
1970年、高校を終えて東京に出てきた。アパートは豊島区南長崎五丁目の三畳に決めた。大昔の話だ。
一人暮らしにも慣れた頃、何かの名簿で熊谷守一の家が近いことに気付いて、テクテク見物に出かけた。目指すは同じ豊島区の千早町。当てずっぽうだったが比較的容易に見つかった。なるほど、敷地には鬱蒼と樹々が生い茂っていて、それらの隙間から奥の方に黒く平屋が見えた。屋根にテレビのアンテナが立っていた。へえー、熊谷守一もテレビを見るのか、と思った。道からそれらを眺めているうちに、ひょっとするとこの庭に今、熊谷守一が座っているかもしれない、そう思って、なんだかとても満ち足りて帰路についた。
ということは、その頃には熊谷守一のことをもう知っていたわけである。が、どう知ったかは、朧げになってしまっている。
本屋の美術雑誌で見つけた安東次男との対談を立ち読みして、『朝のはじまり』という絵をめぐるくだりでビックリ仰天した記憶はある。目覚めてまぶたを開けた瞬間に光(熊谷は確か“あかり”と言っていた)がまずこう見える、それを描いた、だからこの絵は“抽象画”ではない、と熊谷守一は言っていた。朝、凡人の私が目を開けると、光ではなくただちにものの色や形、つまり具体的なものが見えてしまう。その前の“超瞬間”。すごい人がいるものだ、と思ったのだから。
その冬だったか、次の冬だったか、前日から雪がたくさん降って積もった朝、部屋から外に出て枝々の雪を見た時、熊谷守一の描いた雪だ! と驚いた。私の育った北海道東部に降る雪はさらさらのパウダー・スノー。無風で枝々に積もったとしても違う形になる。樹木の種類も違うから枝の形も違う。そして、積もった雪はすぐにあっけなく風で飛ばされてなくなってしまう。ああ、東京の雪はホントに熊谷守一が描いたかたちになるんだなあ、…ここはナイチなんだなあ、と思ったものだ(北海道のひとは本州の事を“内地”と言っていた)。
こんな事を思い出していると、なんだか当時の切ない気持ちもよみがえってくる。私は空回りばかりしていた(いまだに)。とっても貧乏だった(いまも)。いつもお腹がすいていた(これはかろうじて大丈夫)。
そんなこととは無関係に、熊谷守一の絵はずっと大好きだ。
ところで、私と同じくらい、いや絶対私以上だな、熊谷守一の絵のことを大好きなのが美術家の岡崎乾二郎氏である。そのことを、私は随分以前、テレビ番組で知った。そこにゲストで登場していた岡崎氏は熊谷守一について実に巧みに話をしていた。記憶にあるのは、『櫻』という絵の話と熊谷の絵のサイズについての話。あ、『ヤキバノカエリ』という絵についての話もあった。この絵のこの場面はいったい誰が見ているところなのか、という話だったと思う。『櫻』については、描かれている小鳥と桜の花との話が“落ち”のある構成で語られていた。“天狗の落とし札”(小出楢重の命名という)と言われた4号ほどの絵が多いことについては、顔がスッポリ入るギリギリの大きさだから、という説明だった。どれも岡崎氏独自の観点があって驚かされた。だから何でもすぐに忘れてしまう私にしてはこのテレビ番組のことはよく覚えている。
一人暮らしにも慣れた頃、何かの名簿で熊谷守一の家が近いことに気付いて、テクテク見物に出かけた。目指すは同じ豊島区の千早町。当てずっぽうだったが比較的容易に見つかった。なるほど、敷地には鬱蒼と樹々が生い茂っていて、それらの隙間から奥の方に黒く平屋が見えた。屋根にテレビのアンテナが立っていた。へえー、熊谷守一もテレビを見るのか、と思った。道からそれらを眺めているうちに、ひょっとするとこの庭に今、熊谷守一が座っているかもしれない、そう思って、なんだかとても満ち足りて帰路についた。
ということは、その頃には熊谷守一のことをもう知っていたわけである。が、どう知ったかは、朧げになってしまっている。
本屋の美術雑誌で見つけた安東次男との対談を立ち読みして、『朝のはじまり』という絵をめぐるくだりでビックリ仰天した記憶はある。目覚めてまぶたを開けた瞬間に光(熊谷は確か“あかり”と言っていた)がまずこう見える、それを描いた、だからこの絵は“抽象画”ではない、と熊谷守一は言っていた。朝、凡人の私が目を開けると、光ではなくただちにものの色や形、つまり具体的なものが見えてしまう。その前の“超瞬間”。すごい人がいるものだ、と思ったのだから。
その冬だったか、次の冬だったか、前日から雪がたくさん降って積もった朝、部屋から外に出て枝々の雪を見た時、熊谷守一の描いた雪だ! と驚いた。私の育った北海道東部に降る雪はさらさらのパウダー・スノー。無風で枝々に積もったとしても違う形になる。樹木の種類も違うから枝の形も違う。そして、積もった雪はすぐにあっけなく風で飛ばされてなくなってしまう。ああ、東京の雪はホントに熊谷守一が描いたかたちになるんだなあ、…ここはナイチなんだなあ、と思ったものだ(北海道のひとは本州の事を“内地”と言っていた)。
こんな事を思い出していると、なんだか当時の切ない気持ちもよみがえってくる。私は空回りばかりしていた(いまだに)。とっても貧乏だった(いまも)。いつもお腹がすいていた(これはかろうじて大丈夫)。
そんなこととは無関係に、熊谷守一の絵はずっと大好きだ。
ところで、私と同じくらい、いや絶対私以上だな、熊谷守一の絵のことを大好きなのが美術家の岡崎乾二郎氏である。そのことを、私は随分以前、テレビ番組で知った。そこにゲストで登場していた岡崎氏は熊谷守一について実に巧みに話をしていた。記憶にあるのは、『櫻』という絵の話と熊谷の絵のサイズについての話。あ、『ヤキバノカエリ』という絵についての話もあった。この絵のこの場面はいったい誰が見ているところなのか、という話だったと思う。『櫻』については、描かれている小鳥と桜の花との話が“落ち”のある構成で語られていた。“天狗の落とし札”(小出楢重の命名という)と言われた4号ほどの絵が多いことについては、顔がスッポリ入るギリギリの大きさだから、という説明だった。どれも岡崎氏独自の観点があって驚かされた。だから何でもすぐに忘れてしまう私にしてはこのテレビ番組のことはよく覚えている。