151 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

「辰野登恵子 オン・ペーパーズ」展に滑り込んだ
2019-01-21
 先に「お正月に飽きた」なんて書いたので、きっとバチが当たったのだ。インフルエンザに罹ってしまって、十日間程を棒に振った。
 気がつけば、「辰野登恵子 オン・ペーパーズ」展の会期末がついそこに来てしまっていた。これを見逃すわけにはいかない。
 慌てて新宿から湘南新宿ライン大宮行きに飛び乗って浦和で乗り換え、北浦和・埼玉県立近代美術館にたどり着いた。
 私は辰野さんの作品を比較的見続けて来たほうだ(と思う)。
 学生時代、確か銀座・みゆき画廊のグループ展で見たコクヨの集計用紙を写真製版してわずかに手を加えながら刷った作品はとってもカッコよかった。とはいえ、その作品で「辰野登恵子」という名を知ったわけではなく、すでに名前と顔は知っていた。
 というのも、私が通っていた学校の油画科では、当時、学部二年生で版画か壁画かどちらかを選択して実習することが必修になっていた。私は版画を選択し、銅版画とリトグラフとを実習したのだったが、リトの製版を一旦終えて試刷りをした時、なんと、版に紙がベッタリ貼り付いてしまったのである。私にしては珍しいくらい繊細な調子を丁寧に作り上げた版だった。調子が潰れてしまう! 私はパニックになった。
 その時、教室には講師も助手も院生もいなかった。私はすぐ教官室に助けを求めた。教官室には、机に向かって熱心に何かやっていたポニー・テールの女性が一人だけいた。訳を話すと、その人はプレス機のところまで来てくれたが、一瞥後、こう言ったのである。
 どうしてこんな風になっちゃったの? 私には分かんないわよ。自分で何とかして! 
 私はボーゼンとその人を見つめるしかなかった。
 その人はクルリと私に背を向けて教官室に戻ってしまった。
 ひとり残された私は、恐る恐る版から用紙を剥がし、版を掃除した。当然のように、数日かけて苦労して作った全ての調子は潰れてしまっていた。情けない思い出のひとつ。
 長くなった。
 その女性が「辰野登恵子」だった、という話である。
「吉村芳生」展と「フィリップス・コレクション展」をハシゴした。その2
2019-01-08
私はその足で、ステーションギャラリーの近所、三菱一号館美術館に足を伸ばした。最近では展覧会のハシゴは滅多にやらない(できない)のにそうしたのである。そうでもしなければ、気持ちが収まらなかった。
 アメリカはワシントンのお金持ちのフィリップスさんが集めた近代美術の名画の展覧会。コレクションの数々からやって来た75点。私立美術館として100年の歴史がある、というだけあって見応えある作品が並んでいた。アングル、シャルダン、ドラクロア、ドーミエ、クールベ、マネ、モネ、シスレー、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、スーラ、ピカソ、ブラック、ボナール、ヴィヤール、スーチン、ココシュカ、‥‥、など。どれも見飽きることはなかった。ざっと流していたつもりが、数時間かかってしまっていて、気がついたときにはもうヘトヘトで、きっと堪能ということをしていたのだろう。もう一度見たいくらい。
 あんなすごい作品たちに日常的に囲まれて、フィリップスさんはどんなに幸せだっただろう。きっと毎日新たな発見があるだろう。羨ましいなあ。あ、新年早々、人様を羨んでいてはいかにも情けない。自戒すべし。
 そういえば、いつの間にかワイドショーも取り上げなくなった「紀州のドンファン」さんのお宅の壁にルノアールがかかっていたなあ。テレビカメラがさりげなく捉えていた。彼はルノアールが好きだったのだろうか? いくらくらいするんだろう? ま、そんなことはどうでもよいが、今回展示されていたフィリップスさんのコレクションにはルノアールは含まれていなかった。これもどうでもよいけど。
(2019年1月4日、東京にて)
「吉村芳生」展と「フィリップス・コレクション展」をハシゴした。その1
2019-01-08
1月4日。もう、お正月にも飽きたので東京ステーションギャラリーの「超絶技巧を超えて 吉村芳生」展に行った。年末に目にした新聞記事が動機である。不覚にも全く知らない人だったし、「超絶」をさらに超えるというその超え具合がどんななのかが気になったのである。ま、スケベ根性。
 会場に足を踏み入れて、最初の自画像群などで、あ、場違いなところに来てしまった、と思った。正直に書けば、別に「超絶」じゃないじゃん、「超絶」じゃないのだから「超絶」の超え具合など観察しようがないじゃん、と感じたのである。ただ、作品の数は尋常ではない。また、一つ一つの作品は、丁寧で、ある水準の密度が実現されている。これはたやすくできることではない。ということは、そこを見て欲しい、と主催者は言っているのだろうか? そこに「描くこと、生きることの意味を問い直」して欲しい、というのだろうか?
 会場に掲げられていたパネルで、作者は私とそう年齢が違わず、しかしすでに故人であることを知った。創形美術学校の版画科で学んで、故郷の山口県に帰り、ずっとそこで、鉛筆や色鉛筆だけを手に、写真をもとにした絵を制作し続けた人であることも知った。60歳を過ぎてから、1年間のパリ留学の機会を得たが、部屋からほとんどパリの街に出ずに毎日新聞紙に自画像を描いて過ごしたそうだ。

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