111 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

「ハマスホイとデンマーク絵画」展
2020-01-31
上野東京都美術館で開催中の表記の展覧会を見た。とても面白かった。
 十年以上くらい前に、やはり上野・国立西洋美術館で「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」という展覧会があったはずだが、迂闊で見逃した。ちなみに、「ハンマースホイ」も「ハマスホイ」も同一人物、日本語表記の違いらしい。
 この画家のことは、私が営む週2日(日・月)だけ営業・暑い夏は完全休業(エアコンがない)の超狭小の古本屋にやって来てくれたお客様から教えてもらった。その方は、ハンマースホイの本はありませんか? と言うのだった。は? なんとおっしゃいました? と尋ねると、いろいろ教えてくださった。お客様は、神様だけでなく師匠でもあるのだ。ありがたいことである。
 それで、ハンマースホイという名を記憶して、すでに品薄になっていた図録をたまたま某所で比較的安価で入手した。だから、どんな絵を描く人か、図版で知ってはいた。なんだか辛気臭い絵だなあ、という程度の感想だった。
 ところが、今日見た実物のハンマースホイ、つまりハマスホイの絵は、どれも図版の何十倍もよかった。図版ではあのよさは到底分からない。
 何が分からないか? 大きさ、テクスチャー、筆触、調子を含めての色彩、などなど。図版では、たとえそれがどんなに優れた印刷でも、せいぜい見当がつく程度なのだなあ、と改めて思った次第。
 ハマスホイの絵は、どれも決して大きな絵ではない。色彩は控えめなほどだ。筆のさばきも地味、絵肌も全く凝っていない。つまり、声高に何事かを主張してくるのではないのだが、ムッチャ説得力があったのである。デリケートすぎるほどの調子の組み立てが絵を支えているゆえだろう。
 パースだって変なところがある。あるが、その「変なところ」が実に自然なのである。作図しているのではないのだから、図法的な正確さこそ不自然だ、ということもできる。また、パースのこととも関係することだが、床面と椅子やテーブルなどが接するところが曖昧にされていることが多い。しかし、だからと言って、床面が描けていない、というのでもない。明らかに絵の中の必要性がそういう表現を選ばせている。
 形状と形状とのキワ、それを輪郭部と言ってもよいかもしれないが、その攻め合いのデリケートさには目を見張らされる。惚れ惚れとするくらいだ。
 とはいえ、絵が完成してからキャンバスを木枠から剥がしていたものかどうか、もう一度張り直したのであろう。その張り直しがヘタクソすぎる。キャンバスを引っ張りすぎて、直線に描いてあったはずのものがゆらゆらしてしまっているではないか!
 描かれた形状のキワがゆらゆらしているのは、例えばモランディだってそうだ。だけど、モランディは必要があってあえてゆらゆら描いているのだ。キャンバスの張り直しでゆらゆらしてしまっているのとは違う。
 一体、誰がキャンバスを張り直したものだろう。まさか、ハマスホイ自身がやったわけではあるまい。そんな無神経な人の描く絵ではないのだ。キャンバスを張り直した人は深く反省してほしい。直線が直線であるように、と、さらにもう一度張り直したのでは、今度は作品に物理的なダメージを生じさせるだろう。悩ましいことだ。世が世なら、獄門打首だな。
 この展覧会で、ハマスホイはもちろん、ほとんど何も知らなかったデンマーク美術の一端を垣間見て、なんだか恥ずかしいような気もしてきた。
 私たちは忙しすぎる。じっくりと納得行くまで作品と取り組み続けることをおろそかにしすぎている。
年末年始のこと その2
2020-01-14
坂田一男という人が、確かすぎるくらいの技量の持ち主であったことが一発で分かる。とはいえ、この展覧会で問題にされていたのは、フランスから帰国後の作品群。それらのほとんどは制作年が分からない。時間軸に沿った整理は目の前の作品群をもとに推理を組み立てて行う以外にないのだ。自身が実作者であり、また、豊かな知識をもとに独特な論理展開を示し続ける岡崎氏にステーションギャラリーが監修を依頼した所以だろう。
 岡崎氏のアプローチが興味深かった。氏は手がかりを三つの点に見出していた。一つは戦争。兵隊の姿や手榴弾が描かれている。二つ目は海沿いの造成地にあったアトリエが水没して作品も破損したこと。その破損を坂田が新たな可能性へと反転させていたのではないかということ。もう一つは坂田がクリスチャンだったこと(ただし、このことは声高には語られていない)。岡崎推論の詳細はカタログ所収の岡崎氏の文章に当たって欲しい。
 岡崎の推理の中で、私が特に感心させられたのは、手榴弾。手榴弾といえば、私などはあのサンダース軍曹が登場するテレビ番組=『コンバット』で使われていたもの以外のものがあったことを考えもしなかった。ほぼ同じ世代の岡崎氏が手榴弾のことまでよく調べたものだ。ここでも氏は先入観にとらわれることがない。その徹底性は、えらい!
 こうしたこととは別に、私がこの展覧会を見て気になったのは、ほとんど全ての坂田の作品に、キャンバスや紙のヘリの内側にもう一つの「枠」があることだった。油絵はもちろん、鉛筆によるデッサンにおいても、几帳面に線で囲って「枠」を作り、絵の検討はその内側で行っている。これは、実に興味深い。坂田という人は、なぜこういうことをしていたのだろうか? ゆっくりと考えてみる価値がある。坂田手製の冊子の出品も嬉しい。
 そして、いかにも唐突に展示されていたド・スタールとモランディの作品。その前で坂田のことを忘れてしまっていた。あまりに素晴らしかったのだ。

年末年始のこと その1
2020-01-14
 年をとったせいだろう。いつの間にか、時間の経過が極端にはやくなってしまった。加えて、記憶力が明らかに低下している。これらの合わせ技がいかにも効果的で、この年末年始のことが、すでにもうおぼろげになりつつある。完全に忘れてしまわないうちにするメモ。
 まず、年末のNHK「日曜美術館」。岡崎乾二郎氏が特集された。
 私の世代(氏は私よりだいぶ若い)の作家群からは初めての「日曜美術館」特集への登場である。これが面白かった。
 実は、豊田市美術館で開催中の「岡崎乾二郎 視覚のカイソウ」展は、始まったばかりの時に、日帰りで見物してきた。とてもいい展覧会だったと思う。思うが、どこがどういいか、を整理しようとするとこれが難しい。なぜかというと、氏の作品は、観客に“ナゾナゾ”を仕掛けているようなところがあって、私にはその“ナゾナゾ”がいつもちゃんと解けないのである。それが気になって「視覚」へと充分な集中ができなかったことが否めないせいもある。
 テレビの中の岡崎氏は、その“ナゾナゾ”のいくつかについて、解答の一端をかなり踏み込んで、また率直に語っていた。作品の前で岡崎氏の説明を聞いていた番組司会の女子アナ氏は思わず、へえーっ、おもしろーい! と、おそらくは演出ではなく、心底感動していた(ように見えた)。確かに岡崎氏の説明は面白かった。面白かったが、そこからさらなるナゾが生じもするので、私としてはテレビの前でも件の女子アナ氏のようには素直に喜べなかった次第。
 それはそれ、またゆっくり考えればいいのだ。
 豊田市美術館で見た岡崎展。見かけはすっきりしているのに、すごい情報量。というのも、氏の活動領域は実に多岐に渡り、四十年間ひと時も休みなく続いている。その活動を網羅的に示そうとすれば、控えめにしたとしてもあのくらいの情報量になるのに違いない。
 最初期の「たてもののきもち」を含むレリーフ、近年の“タイル”や“ポンチ絵”を含む絵画、立体、さらにコンピュータを介した作品群、各種著作や建築活動を巡る模型などの各種資料群、それらが手際よくピックアップされていた。また、展示全体が「インスタレーション」のように見ることができるほどに細部まで繊細に配慮されており、見応えがあった。
 ずいぶん以前、軽井沢のセゾン美術館で行われた岡崎展について、私はあるところに文章を書いたことがあって、その時、私はその文章に確か「トレースの行方」とタイトルをつけた。岡崎作品の重要な要素として随所に見受けられる「トレース」や「マスキング」という手法が様々なことを可能にしていることを述べたつもりだった。その後、岡崎作品においては、「トレース」や「マスキング」が消え去ってきたようにみえる。言うまでもなく私の書いた文とは無関係だろう。近年は釉薬の流動性や絵の具の可塑性を生かした「トレース」や「マスキング」なしの制作になっている。「トレース」や「マスキング」の要素はコンピュータを介在させた作品に転換されているようにみえる。「ひと筆描き」なども頻出するようになった。
 キャンバスを用いた作品の場合、アクリルメディウムをたっぷりと混入して得た“透明色”を、ペインティングナイフでその厚みをコントロールしつつ多様な姿で画面に置いている。結果、“透明色”の物理的な厚みの多寡が画面に「調子」「ぼかし」を作り出している。画面に「調子」「ぼかし」を得るために手製の“透明色”を用いている、とも言えるかもしれない。“透明色”は時にまるでジャムみたい。とても美味しそうに見えたりする。
 これに比べて、“不透明色”を用いる場合、一つの色のその物理的な厚みによってだけでは「調子」「ぼかし」を得ることはできない。そのせいか、“不透明色”ではたびたび“難”が生じているように感じさせられた。
 テレビで岡崎氏は、長い間、私にはナゾだったあの長いタイトルについても語っていたが、ほんと? の感が否めない。これもそのうちゆっくり考えてみたい。
 

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