76 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

いつの間にか、一月が終わってしまう その2
2021-01-20
 贅沢、と言っていいスペースである。広いスペースが3フロアある。そこに絵画が並んでいる、のだろうと予想していたが、梅津氏の陶芸作品があちこちに配されて、アクセントのようでもあり、いや、むしろ主役のようですらある。
並んでいる絵画作品が梅津氏の陶芸作品の引き立て役のように見えてもくるのである。梅津氏の陶芸は立体であり、いうまでもなく「絵画」ではない。これは一体どういうことだろう。「絵画の見かた」を指南するには絵画以外の様式を持って来る必要がある、と言うことだろうか。
 もちろん梅津氏は「絵画」作品も展示していた。折り目正しく額装されたドローイング、小ぶりのパネルにミクストメディアで描かれた小品、初めて壁にかけられた状況で見る大きな油絵(私がこれまで見た梅津氏の大きな「絵画」作品はほぼ床置きで自立、でなければ、床に置いて壁に立てかけて設営されていた)。この際、はっきり書く。今回もまた描き足りない。
 壁に並ぶ作品は、その選択の基準が分からない。惹きつけられる作品もあれば、興味さえ抱けない作品もある。
 杉全直氏の『方形C』は、なぜあんなに暗くて見えにくいところに展示しているのか。田中秀介氏の『化門』は、なぜ裏側を露わにして、“ついたて”のように設営しているのか。それが「絵画の見かた」のヒントだと言うのだろうか?
 とはいえ、地下フロアにあった弓指寛治『挽歌、2020』は実に興味深かった。この会場で唯一細部までじっくり見入って堪能し、裏側に回って、つい今まで見ていた「絵画」と思いがけない対応をさせられ、さらに絵に戻って没入し、もう一度裏側へ、と作者の「世界」に包まれてしまった気がした。この人には、こうして作品を作る必然性のようなものがあって、それが力を示している。とはいえ、この作品は「絵画」としてだけ成立しているのではないではないか。
いつの間にか、一月が終わってしまう その1
2021-01-20
というわけで、雲ひとつない晴天。私の暮らす東京でこういう天気の時は、日本海側の方では大変なことになっている。大雪、そして吹雪。日本列島を南北にずーっと走る背骨のような山々に阻まれて雪がどっさり落ちてしまうのだ。雪以外の冷たい空気は山々を越え、「からっ風」となって、かかあ天下と言われる群馬県だけでなく、関東平野全般に吹き荒れる。北風小僧のカンタロウである。それなりに寒いが、天気は「あっぱれ」なのである。
 ボヤボヤしてたら、またまた歩き方を忘れそうである。不要不急の外出はやめてください、と言われているのではあるが、「不要不急」という意味が分からない。それに、歩き方を忘れては様々な不便が生じる。なので、必要不可欠の外出を決行する事にした。
 ただ歩いてもつまらない。だから、というのではないが、都バスに乗ってみた。バスは空いていて、座る事にためらいはなかった。しかし、これは歩くこととは真反対の行ないである。それに気づいて、薬王寺というバス停で降りた。このあと今日はもう、バスに乗らないと決めた。
 今年は、お正月早々、タクシーに乗った。今年、満で100歳になる義母が不調になって、奥さんと一緒にちょっと離れた場所の病院へ連れて行った。帰りもタクシーに乗った。お正月でもタクシーは走っていて、とても助かった。そういう頼りになるタクシーだが、今日はもう絶対にタクシーにも乗らない。歩く。そう決めたのだ。
緩やかな坂道を歩いて、だんだん飽きてくる頃に、「√K Contemporary」を見つけた。ここに来るのは二度目だが、前回は別の道筋でやってきて迷ってしまった。今日は、あたかも、ごく自然に、その画廊をふと見つけたかのようだが、実は調べてあったのだ。歩くと決めたとはいえ、道に迷うのは嫌なのである。

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