立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
井上有一展をみた(3)
2015-10-26
今回の展覧会の出品作には、この黒と同様の性質の黒が与えられた「放哉句 爪きった指」があった。この作品の場合では、右側に書かれた文字を潰すための黒の太い線状の広がりと上方の縁に沿った横方向の黒線が、「必死三昧」の左側の黒と同様の役割を果たしている。加えて、中央下には片方の手の輪郭がこだわりの全く感じられない線で示されている。「爪」という字は潰れていてほとんど読むことができない。書き損じというか、シミのようにさえみえる。ここでは、「書」としての相貌は後方に退いて、全体が「絵」のようにさえみえる。
井上有一という人は、もともとは画家を志していたという。だから、意味を伴う文字やその群れのことだけでなく、散在するかたちが形成する「画面」のように、「書」という営みを捉えることができたのだろう。だからこそ文字ではない領域、つまり、読むこともできないし意味も持たない紙の地に着目できたのではないか。今回展示されていた「ブッコウ国師げ」とか、あの「噫横川国民学校」などでは、書き付けられた文字の特異な表情、そこから感じさせられる異様な書きぶりということももちろんあるが、文字と文字とのあいだから覗く紙の地の色のかたちの果たす役割が大きいのではないか。
また、筆の穂を成す毛束の一本一本が一本一本の線となって集合し太い文字を形成していることの“効果”についても着目したい。これは、摩った墨に大量の膠を混ぜて、そこに筆を突っ込んだまま一晩かけて凍らせ、翌朝それをかき混ぜて使ったという「凍筆」で書かれた「死」という作品に顕著に見て取れる。文字がシルエットだけで形成されていない。シルエットの成り立ちが透視されるように露わになっている。こうした“構造”もまた、「絵」とじつに多くの共通項を持っている。
シルエットとしての書ということを補足すれば、書の世界には双鉤塡墨(そうこうてんぼく)という技がある。文字と紙との際をトレースして写し取り、内部を塗りつぶす。言ってみれば“手仕事コピー”である。そのようにして、たとえば王羲之の書は私たちに伝えられている。王羲之のオリジナルの文字は一つも残っていない。すべて双鉤塡墨で“コピー”されたものだ。これはじつに大事なことを示している。つまり、書ではその輪郭にこそ書きぶりをはじめとする全ての情報が集中している、ということだ。
井上有一という人は、もともとは画家を志していたという。だから、意味を伴う文字やその群れのことだけでなく、散在するかたちが形成する「画面」のように、「書」という営みを捉えることができたのだろう。だからこそ文字ではない領域、つまり、読むこともできないし意味も持たない紙の地に着目できたのではないか。今回展示されていた「ブッコウ国師げ」とか、あの「噫横川国民学校」などでは、書き付けられた文字の特異な表情、そこから感じさせられる異様な書きぶりということももちろんあるが、文字と文字とのあいだから覗く紙の地の色のかたちの果たす役割が大きいのではないか。
また、筆の穂を成す毛束の一本一本が一本一本の線となって集合し太い文字を形成していることの“効果”についても着目したい。これは、摩った墨に大量の膠を混ぜて、そこに筆を突っ込んだまま一晩かけて凍らせ、翌朝それをかき混ぜて使ったという「凍筆」で書かれた「死」という作品に顕著に見て取れる。文字がシルエットだけで形成されていない。シルエットの成り立ちが透視されるように露わになっている。こうした“構造”もまた、「絵」とじつに多くの共通項を持っている。
シルエットとしての書ということを補足すれば、書の世界には双鉤塡墨(そうこうてんぼく)という技がある。文字と紙との際をトレースして写し取り、内部を塗りつぶす。言ってみれば“手仕事コピー”である。そのようにして、たとえば王羲之の書は私たちに伝えられている。王羲之のオリジナルの文字は一つも残っていない。すべて双鉤塡墨で“コピー”されたものだ。これはじつに大事なことを示している。つまり、書ではその輪郭にこそ書きぶりをはじめとする全ての情報が集中している、ということだ。
井上有一展をみた(2)
2015-10-22
井上有一(1916〜1985)は、かつて、文字でなくてもかまわない、という“書”の取り組みさえした人である。筆順を守る必要はない、とも公言し、たとえば「塔」という文字や「貧」という字を下から積み上げるようにして書いた人である。紙からはみ出した文字を紙の下に敷いていた新聞紙と一緒にして発表したり、それもやめて、紙から字がはみ出したってちっともかまわない、と言った人でもある。書くのは、紙でなくてもよいし、墨でなくてもよい、とベニヤ板、画用紙、新聞紙、ふすまなどにも書いたし、エナメルを使ったり、カーボンとボンドとを混ぜて使ったり、摩った墨をわざわざ凍らせて使ったり、特大の筆はもちろん、コンテ、鉛筆、雑巾、釘なども使った人である。必要なことは何だってやった。やっていけないことなどなかった。そうしたことは知っていたが、「必死三昧」の左側の黒。不思議なことをするなあ、と思ったのだ。
で、「必死三昧 五十三才 井上有一書」(1969年作、61.0×72.8cm)の現物の前で観察し、考えた。それは額装されて、さらに壁に穿たれて板ガラスで遮られた特別なスペースに入れられていた。
「必」。この字の筆順は小学校で厳しくたたきこまれた。この書ではその“正しい”筆順では書かれていないようにみえる。「心」とかいて「ノ」と払う、“間違った”筆順の代表ではないか。その「心」と「ノ」とは僅かに重なって、妙なバランスになっている。「心」の四画目の点は、筆先でいかにもそっと置かれた感じだ。「ノ」の“払い”は技巧を見せず、いかにもボソッとなされている。
「死」。「必」の「ノ」の下端の一部とくっつくようにして、そこから右側に向けて一画目を太く書き始めており“止め”の一部が紙からはみ出している。カーボンとボンドとを混ぜて作られた“カーボン墨”だから筆の穂の単位が線でみえて、石川九楊さんの言う“トン、スー、トン”の様子が実直なくらい露わになっている。続く二画目、三画目…、いかにも実直である。五画目の終わりがヘンに短くて、この人らしいバランス感だと言えよう。確か、「花」の連作などにも同じような“短さ”が見られた。一画目と五画目が紙の右側にはみ出して切れているが、いずれも“トン”の様子は十分に伝わってくる。
「三」。特に二画目が点を打つような感じで、紙の下の縁との間合いのようなものを意識して“抑え気味”になっているような印象である。三画目は下方が紙からはみ出しているが、“止め”は右側にはみ出していない。縁との間にしっかり紙の地の色で隙間がある。
「昧」。ヘンの「日」が大きく、一画一画実直に書かれている。「日」は一画目、二画目が短いのか、三画目が下過ぎたのか、その分四画目が太く長くて下から“支える”ように書かれている。どうやらこれはこの人の字の特徴のひとつのようだ。ツクリの「未」は、隣になる「必」や「死」の一画目とのあいだ狭いところに書かれたせいか、力を“抑え気味”にしたように感じられる。「昧」のヘンとツクリの下は水平に揃っていて、それも不思議なバランス感のあらわれとなっている。
「昧」。「昧」の下方に二行に分けて、「五十三才」「井上有一書」と書かれているが、これらも“ちょっと見”では、何という字が書かれているか、判然としない。各行の一番下の文字、「才」と「書」とは、紙の下方の縁からはみ出ている。
これらの文字群が、パッと目に飛び込んできた時、あ、「外」の字がありそうだ、いや、「外」じゃないかも、だって縦の線がおかしい、とか感じさせられるが、とてもじゃないけど、最初から「必死三昧」と読むことはできない。チラシや新聞の展評や会場のラベルなどの情報を経て、やっと、なるほど「必死三昧」と読めるわい、という順序をとるのである。それは、ひとつひとつの文字のバランスが独特なだけでなく、文字相互の大小の関係や“部品”同士のくっつきかたが、通常の文字列の見え方をさまたげているからである。
一見した時、何が描かれているか簡単には分からないように宙づり状態を仕組むのは、現代の絵画ではすでに常套手段である。井上有一がそれと同じことを意図してやっているかは分からない。そのことは“宙づり”にしよう。
そこで、左側の黒の広がりのことだ。これがあるのとないのとでは、見え方が全く異なる。黒が置かれることで、文字群と黒のあいだの紙の色が白っぽく際立つだけでなく、文字と文字との隙間からみえるいくつもの不定形の白っぽさが際立ってくる。それは同時に文字がシルエットとして際立ってくるということだ。そんな出来事を呼び起こす絶妙な黒だと言える。
その黒さの質は文字群とは明らかに異なっている。筆跡の表情が異なっているのだ。左側の黒には筆触というか筆の穂の毛の線がない。一部にかすかな濃
で、「必死三昧 五十三才 井上有一書」(1969年作、61.0×72.8cm)の現物の前で観察し、考えた。それは額装されて、さらに壁に穿たれて板ガラスで遮られた特別なスペースに入れられていた。
「必」。この字の筆順は小学校で厳しくたたきこまれた。この書ではその“正しい”筆順では書かれていないようにみえる。「心」とかいて「ノ」と払う、“間違った”筆順の代表ではないか。その「心」と「ノ」とは僅かに重なって、妙なバランスになっている。「心」の四画目の点は、筆先でいかにもそっと置かれた感じだ。「ノ」の“払い”は技巧を見せず、いかにもボソッとなされている。
「死」。「必」の「ノ」の下端の一部とくっつくようにして、そこから右側に向けて一画目を太く書き始めており“止め”の一部が紙からはみ出している。カーボンとボンドとを混ぜて作られた“カーボン墨”だから筆の穂の単位が線でみえて、石川九楊さんの言う“トン、スー、トン”の様子が実直なくらい露わになっている。続く二画目、三画目…、いかにも実直である。五画目の終わりがヘンに短くて、この人らしいバランス感だと言えよう。確か、「花」の連作などにも同じような“短さ”が見られた。一画目と五画目が紙の右側にはみ出して切れているが、いずれも“トン”の様子は十分に伝わってくる。
「三」。特に二画目が点を打つような感じで、紙の下の縁との間合いのようなものを意識して“抑え気味”になっているような印象である。三画目は下方が紙からはみ出しているが、“止め”は右側にはみ出していない。縁との間にしっかり紙の地の色で隙間がある。
「昧」。ヘンの「日」が大きく、一画一画実直に書かれている。「日」は一画目、二画目が短いのか、三画目が下過ぎたのか、その分四画目が太く長くて下から“支える”ように書かれている。どうやらこれはこの人の字の特徴のひとつのようだ。ツクリの「未」は、隣になる「必」や「死」の一画目とのあいだ狭いところに書かれたせいか、力を“抑え気味”にしたように感じられる。「昧」のヘンとツクリの下は水平に揃っていて、それも不思議なバランス感のあらわれとなっている。
「昧」。「昧」の下方に二行に分けて、「五十三才」「井上有一書」と書かれているが、これらも“ちょっと見”では、何という字が書かれているか、判然としない。各行の一番下の文字、「才」と「書」とは、紙の下方の縁からはみ出ている。
これらの文字群が、パッと目に飛び込んできた時、あ、「外」の字がありそうだ、いや、「外」じゃないかも、だって縦の線がおかしい、とか感じさせられるが、とてもじゃないけど、最初から「必死三昧」と読むことはできない。チラシや新聞の展評や会場のラベルなどの情報を経て、やっと、なるほど「必死三昧」と読めるわい、という順序をとるのである。それは、ひとつひとつの文字のバランスが独特なだけでなく、文字相互の大小の関係や“部品”同士のくっつきかたが、通常の文字列の見え方をさまたげているからである。
一見した時、何が描かれているか簡単には分からないように宙づり状態を仕組むのは、現代の絵画ではすでに常套手段である。井上有一がそれと同じことを意図してやっているかは分からない。そのことは“宙づり”にしよう。
そこで、左側の黒の広がりのことだ。これがあるのとないのとでは、見え方が全く異なる。黒が置かれることで、文字群と黒のあいだの紙の色が白っぽく際立つだけでなく、文字と文字との隙間からみえるいくつもの不定形の白っぽさが際立ってくる。それは同時に文字がシルエットとして際立ってくるということだ。そんな出来事を呼び起こす絶妙な黒だと言える。
その黒さの質は文字群とは明らかに異なっている。筆跡の表情が異なっているのだ。左側の黒には筆触というか筆の穂の毛の線がない。一部にかすかな濃
井上有一展をみた(1)
2015-10-21
東京・智美術館で「遠くて近い 井上有一展」をみた。春にこの展覧会のことを知ってから、早くみたい、と思いながら、ぐずぐずしていて、もう会期終了間際になった。カタログは既に売り切れ。だから、いま手元にはこの展覧会の何の資料もない。たよりない記憶だけしかないが、メモしておきたい。
この人のことは、偶然にテレビで見て知った。随分昔のことだ。
テレビには、何事か唱えながらものすごい勢いで字を書く人が映っていた。気に入らないところは、えい、えいっ、と線で消して、かまわず書き続ける。唱えているのは書こうとしているその言葉の連なり。というか、頭にある言葉を唱え、間髪入れずそれを書き取っているようだった。げんごろうがどうだとか、みずすましがこうだとか、確かそんなことを唱えていた。ときおり、手に摘んでいる筆記具が折れて飛ぶ。それでもかまわず、唱え続け、書き続ける。はげ頭、度の強そうな眼鏡、その集中度、決してきれいとか上手とかいうのではない異様な文字。これは何だ、と思わず見入って「井上有一」という名前を覚えたのだ。その後いろいろな所で何度かみた映像によれば、それは1984年に制作・放映されたNHKの「こころの時代」という番組だったらしい。ふだんならほとんど見ることのない番組だった。以来、『日々の絶筆』というこの人の本を読んだり、埼玉県立近代美術館などでの展覧会をみたりして関心を持ち続けてきた。
勤務してきた学校のホールにはこの人の「瓜」という大きな書が掲げられている。学校のある場所が瓜生山という地名だから、ということもあろうが、学校の創設者が寄せた、あの「噫横川国民学校」の作者、井上有一への敬意や共感を感じさせてくれていた。かつては学校を会場にして井上有一をめぐる大掛かりなシンポジウムも開催されてきたらしい。その創設者も昨年亡くなった。
篠田桃紅などによる智美術館の凝りに凝った階段を降ると直ちに、正面に「月山」という大作がみえる。そして右側壁に、この展覧会の告知チラシに大きくレイアウトされていた「必死三昧」がみえる。左側奥には新聞紙にポスターカラーを薄く黒く塗ったうえに金泥やアルミ粉で書かれた短冊様の作品やおなかに狼大明神と彫り込まれた陶の小さな立体が展示されている。
この展覧会を是非みたい、と思ったのは、チラシになったその「必死三昧」の左側に黒い色面(あ、「色面」ではないか、色面の右側上には墨の飛沫らしき形、と紙の左上隅と紙の左下隅にごくごく小さな白い形がそれぞれふたつずつあるから、これは上から下へとはみ出しつつ引かれた太い線と言うべきか)、ともかくその黒の意味が知りたい、と思ったからだ。なぜそう思ったか、というと、文字ではない領域のその黒が“決まっている”と感じたからである。黒の面積が紙の左側に広がっているのといないのとでは大違い。あきらかに意識的な黒の広がりなのである。
この人のことは、偶然にテレビで見て知った。随分昔のことだ。
テレビには、何事か唱えながらものすごい勢いで字を書く人が映っていた。気に入らないところは、えい、えいっ、と線で消して、かまわず書き続ける。唱えているのは書こうとしているその言葉の連なり。というか、頭にある言葉を唱え、間髪入れずそれを書き取っているようだった。げんごろうがどうだとか、みずすましがこうだとか、確かそんなことを唱えていた。ときおり、手に摘んでいる筆記具が折れて飛ぶ。それでもかまわず、唱え続け、書き続ける。はげ頭、度の強そうな眼鏡、その集中度、決してきれいとか上手とかいうのではない異様な文字。これは何だ、と思わず見入って「井上有一」という名前を覚えたのだ。その後いろいろな所で何度かみた映像によれば、それは1984年に制作・放映されたNHKの「こころの時代」という番組だったらしい。ふだんならほとんど見ることのない番組だった。以来、『日々の絶筆』というこの人の本を読んだり、埼玉県立近代美術館などでの展覧会をみたりして関心を持ち続けてきた。
勤務してきた学校のホールにはこの人の「瓜」という大きな書が掲げられている。学校のある場所が瓜生山という地名だから、ということもあろうが、学校の創設者が寄せた、あの「噫横川国民学校」の作者、井上有一への敬意や共感を感じさせてくれていた。かつては学校を会場にして井上有一をめぐる大掛かりなシンポジウムも開催されてきたらしい。その創設者も昨年亡くなった。
篠田桃紅などによる智美術館の凝りに凝った階段を降ると直ちに、正面に「月山」という大作がみえる。そして右側壁に、この展覧会の告知チラシに大きくレイアウトされていた「必死三昧」がみえる。左側奥には新聞紙にポスターカラーを薄く黒く塗ったうえに金泥やアルミ粉で書かれた短冊様の作品やおなかに狼大明神と彫り込まれた陶の小さな立体が展示されている。
この展覧会を是非みたい、と思ったのは、チラシになったその「必死三昧」の左側に黒い色面(あ、「色面」ではないか、色面の右側上には墨の飛沫らしき形、と紙の左上隅と紙の左下隅にごくごく小さな白い形がそれぞれふたつずつあるから、これは上から下へとはみ出しつつ引かれた太い線と言うべきか)、ともかくその黒の意味が知りたい、と思ったからだ。なぜそう思ったか、というと、文字ではない領域のその黒が“決まっている”と感じたからである。黒の面積が紙の左側に広がっているのといないのとでは大違い。あきらかに意識的な黒の広がりなのである。