158 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

足利市立美術館「長重之展」その2
2018-10-31
 長さんは、少年時代には野球など体を動かすことの方が好きで美術には関心が少なかった、と言うのだが、高校入学後、美術に取り組み始めた。周囲には東京芸大に進む者もいたが、長さんは進学せず地元・足利で働き始めて現在に至っている(1971年以降はフリーでの仕事)。
 次の部屋の最初に展示されている『風景』(1952年)は、手製のキャンバスに隣の家との境界の樹を描いた、と長さんは言った。色感の良さを伺わせるとともに、すでに「領域」とか「境界」という問題意識の所在が見え隠れしている。
 高校卒業後、改めて美術に向かい合おうとする自分を確かめるかのような『牛の頭がい骨』(1954年)では形態把握ののびやかさをはじめ確かな資質が示されている。
 同じ部屋に高校当時の美術の先生の絵や若き日の仲間たちの作品が展示されているのも、長さんを豊かに照らし出してくれて出色の企画だ。
 転職後の『看護人』のシリーズ(1963〜1965年)が『ポケット』のシリーズ(1965年〜)に展開していく様子を読み取ることができるのも興味深い。
 『ポケット』のシリーズは明らかに長さんの転機をなしており、『ピックポケット』として現在に至るまで繰り返し展開されている。
 1969年から1973年あたりに繰り返し試みられるイベント・パフォーマンスの取り組みや、屋敷と東京の画廊とを結ぶ複合展『無題』(1971年)などインスタレーション(ただし、当時この用語はない)への取り組みも注目される。
 また、『視床』のシリーズの原型といえるドローイングは1971年にすでに現れ出ているし、『原野2』は1973年、同年には『点展』が開始されている(ちなみに『原野1』は長さんのパフォーマンスの記録映像を集めたものということである)。長さんの活動の原型はこの時期に形作られたようだ。
 長さんは、ご長女の花子さんがダウン症であることを公言してきた。花子さんが、自分をどれだけ豊かにしてくれたかを度々語られる。近頃では、花子さんが織った布との共作の『ピックポケット』や、先の西澤氏との共作など、障がいある人との共作や、足利の銘仙を取り込んだ作品なども展開している。
 他にも『笑い続ける二つの州の間で』のシリーズ、『平・面・体』のシリーズなど、見応えたっぷりの展覧会である。
 展示されている各種資料類(グループVANの冊子類はじめ、藤原和道『音響評定5』についての雑誌記事、『点展』ポスターや冊子、『白州・夏・フェスティバル』のポスターや雑誌記事、長さん作のモニュメント関係資料など)の公開も嬉しい。ぜひ行かれると良い.

 (2018年10月31日 東京にて)

公式HP:http://www.watv.ne.jp/~ashi-bi/index.html

 11月4日まで
足利市立美術館「長重之展」その1
2018-10-31
 いつだったか、東武線の不思議な家のことを書いた。しかし、肝心の「長重之展」についてのことが先送りされてしまっていた。あのオープニングの日から時間が経ってしまって、記憶が曖昧である。それで、もう一度出かけることにした。
 実に興味深く見た。小さな美術館ではあるが、全体を巧みに使って、長年の長さん(1935年生まれ)の取り組みの推移をとてもよく示している。
 足利は今なら浅草から東武線特急に乗れば一時間で行ける。でも、長さんが盛んに発表活動を始めた1960年代終わりあたりなら三・四時間要したのではないか。今でも、都内から各駅を乗り継いで行くと三時間ほどかかる。そういうところで作家活動を続けてきたのが長さんである。別に「田舎」を強調しようというわけではない。ないが、「田舎」で簡単に継続できることではない。

 美術館入口で、正面の二つの大きな作品に迎えられる。各100枚ほどの画用紙にそれぞれ空を飛ぶ飛行機が描かれていて、長さんの作品の“テイスト”とは明らかに違っている。少しとまどう。説明文によれば、長さんが裏打ちした西澤彰氏の絵、ということだ。西澤氏はサバン症候群というのか、日常的に目にする色々な種類の小型飛行機の様々な姿を記憶だけで描いたものらしい。それが分かると、長さんが“下支え”したこの作品で観客を迎えているのが、いかにも長さんの人柄を示していて、嬉しくなる。優れている、すごい、面白い、と長さんが思ったものに対して、長さんは敬意を隠さない。そこには曇りのない目がある。
 最初の小さな部屋では、長さんの出自というか問題意識の基底にあるものが巧みに示されている。
 正面壁に映像作品『原野2』(1973年)のプロジェクション。床に古地図。  その右壁にそれぞれ長さんの大伯父=彫刻家・長渡南の作品、左壁に長さんの父親=図案家染色家・長安右衛門の作品。(長家は代々この地の代官だった、という。長さんの祖父=長祐之は村会議員、県会議員、足利町長。渡良瀬川の鉱毒が足尾銅山に原因があるといち早く指摘し、田中正造にも大きな影響を与えた人であった。)


つづく→
岩手県・一関の「アーティストラン・スペース空」その2
2018-10-18
 「近代」日本を作り上げてきた鉄道網、そのレールを支える無数の枕木。また、石油にその座を明け渡すまで各種産業のエネルギー源だった石炭、その採掘のための炭鉱の坑道の枕木。防腐剤を塗り込められた繊維である枕木はいつまでも“死ぬ”ことができない。そうした一本一本の枕木は、あたかも、朝鮮半島から連れてこられて重労働に従事させられた人々やこの国を底辺で支えてきた人々、さらに「近代」日本の犠牲になったアジアの人々の姿に繋がっていくようでもある。つまり、高山さんの作品はそうした人々への「レクイエム」なのだ。
 最初期に「地下動物園」と名付けられていた高山さんの作品は、今、台風一過の日の光の中へと姿を現わして立ち上がり、まるで咆哮しているように私には見えた。
 モダンな建物の中に入ってみると、高山さんのドローイング作品やマケット群と触れ合うことができた。この「スペース」に多くの作品を配して全体を構成し、実際の設営のために、この何年かの間、高山さんがどれほど集中してきたか、これらのドローイング群やマケット群がそのことを伝えてくる。
岩手県・一関の「アーティストラン・スペース空」その1
2018-10-18
そういうわけで、次の日(10月7日)、大船渡線・真滝駅に降り立って歩き、「アーティストラン・スペース空」に行った。要所要所に蛍光色のジャンパーの係員が立っていて誘導してくれたので、事前の心細さはどこへやら、難なく目的地にたどり着くことができた。
 当日は、「スペース」のお披露目の記念イヴェント(=設営された高山登さんの作品群の公開とその高山登さんの作品のひとつで田中泯さんが踊るというイヴェント)があるので続々と人々が集まっていた。私もその中のひとりなのだ。
 入り口で人々を高山さんが迎えていた。さすがに、晴れやかな表情だった。高山さんと少し話をしながら、係の女性たちから入場の手続きを済ませてもらって、スペースへのなだらかな上り坂を進んでいった。
 
岩手県一関市で
2018-10-11
 美術家・高山登氏の作品が設置された「アーティストラン・スペース空」のお披露目のイベントがある、というので岩手県一関市を訪れた。案内情報によれば、その場所は大船渡線の真滝というところの山の方にあるはず。しかし、駅から現地までの距離の見当がつかなかった。不安だったので、前日に一関入りして、当日ゆとりを持って真滝に行って、あとはひたすら歩く、という作戦を立てた。2時間くらいならまだなんとか歩き通せるのではないか。
 切符や宿の手配がすっかり済んだあと、駅から徒歩15分くらい、との情報がきた。なーんだ。日帰りできたじゃん。ま、いいか。
 それで、この際、普段しないことにチャレンジしてみようと決めた。
 一関と言えば、あの「ベイシー」。はじめは石山修武氏の本で知った。その後、私のような者でもいろいろ知るようになった。よし、行ってみよう!
 駅に到着後すぐ、観光案内所でともかく「ベイシー」の場所を教えてもらおうと思った。そうしたら、手渡された“公式”の地図には、すでにもう、ちゃんと「ベイシー」の場所が印刷されていて、ここから徒歩で15分ほどです、とだけ教えてくれた。
 私は、オーディオのこともジャズのこともほとんど何も知らない。だから、ヒトはこれを、怖いもの見たさ、というだろう。何でも良い。ともかく、「ベイシー」目指して歩き始めたのである。
 あっけないほど、難なく見つかって、ちょっと時間が早そうだったけれど、看板が出ていて灯りもついていたから、いいですか? と入っていくと、若い女性が、どうぞ、と案内してくれた。まだレコードはかかっていなかった(あ、ここでは「レコードを演奏する」というらしい)。私がこの日の最初の客のようだった。席を決め、お嬢さんにコーヒーを頼んでキョロキョロしていると、はじまった。
凄い。
 鳥肌が立った。私は、小さい頃から“いい音”をきくと、鳥肌が立つ。何故かはわからない。加えて、どんな音が“いい音”なのかもわからない。が、鳥肌が立った時には、からだが、ほら“いい音”がしているぞ、と教えてくれているのだ、と解釈している。この日は何度も鳥肌が立った。
 以上が、いかにも頼りない「ベイシー 」の“いい音”の報告である。我ながらアホみたいだ。というか、アホだ。スピーカーから出ている音という意識が消えていって、あたかもそこに次々にあらわれる「音」に浸っていた、とでも言えばいいのか。気がつくと3時間たっていて、これは「堪能」ということができたのだろう。もうヘトヘトだと自覚できた。これ以上はムリ、と判断して、お店をあとにした。じつに贅沢な時間だった。
 次の日、当初の目的だった「アーティストラン・スペース空」を訪れた。が、その報告は改めて別の日に。今日はこれでおしまい。

(2018年10月7日、岩手県一関市にて)


「おべんとう展」を見た
2018-10-04
 暑い、暑すぎる、とか言っているうちに、いつの間にか、肌寒いくらいの朝を迎えるようになってしまった。雨の日が続いて、TVの気象予報士が台風24号の不気味な進路予想をしている、そんな今日この頃である。
 東京・上野・東京都美術館で開催中の「藤田嗣治展」を横目に、同じ館で開催中の「おべんとう展」を見た。ギャラリーA・B・Cを使っての企画展である。
 新宿歴史博物館やお辨當箱博物館、瀬戸曻コレクション、国立民族学博物館所蔵の古今東西の色々なお弁当箱などの陳列からはじまって、それはそれで興味深いのだが、いささか呑気に見始めた。
 が、すぐにびっくりさせられたのである。というのも、阿部了という人の写真による作品の展示の中に、私の古くからの友人・松井利夫氏と松井氏のお弁当が被写体として登場していたのだ。松井氏については、先日、三鷹の無人古本屋を紹介した時、ムジン繋がりでここに書いたばかりだった。あれれ、ムシの知らせ? びっくり!
 早速、「写メ」というやつで、京都の松井氏に知らせてやろうと思ってガラケーを取り出そうとした。しかし、気配を察知した“監視”の女性から、撮影は禁止されています、とピシャリと言われてしまった。これ、私のトモダチなんですけどそれでもダメですか? と食い下がったがムダだった。著作権がありますから、と相手にしてもらえなかったのである。残念無念。
 再び呑気な気分に戻ったところで、北澤潤という未知の人の「FRAGMENTS・ PASSEGE —おすそわけ横丁」に出くわした。
白く塗装した足場用のパイプを構造体にして屋台のような市場のような賑々しい「場」が作られている。布の使い方、ものの並べ方がうまい。お店のようでもあるが、単純にお店ではなさそうである。「売り買い」をしている気配がないし、食べ物や飲み物など屋台や市場につきもののものが全くない。もちろん呼び込みもない。
 置かれているチラシを見ると、ここは「バザール」で、並んでいるものは誰かからの「おすそわけ」なのだそうだ。北澤氏が考え出した「おすそわけ」をやり取りする仕組みを、「おすそわけ組」という有志が運営・管理しているらしい。奥に「スクエア」。「おすそわけ」された物品の台帳が閲覧できたり、「おすそわけ」してもらう人が所定の手続きをしたり、その台帳が閲覧できたり、休憩もできる。時にはワークショップも行われるらしい。さらに奥には「ライブラリー」。ここでは各種の「おすそわけボックス」をレンタルしている。このボックスに入れて「おすそわけ」を持ち込むのだそうだ(ただし、すでにボックスのレンタルは終了)。
 「おすそわけ」という“風習”を手掛かりに、未知の人同士の“コミュニケーション”を形成しようというのだろう。あわよくば、共同体の幻を出現させたいのかも。
 「おすそわけ」というのがいいところをついている。この「バザール」に集まっているものは、誰かが不用品を処分したものではなく、心ある「おすそわけ」なのだ。贈与とか交換の隙間。一見、ガラクタのように見えても、「おすそわけ」した誰かにとっては断じてガラクタではないのである。そこには“愛”がこもっている(はずだ)。
 思い切って私も「おすそわけ」にあずかった。それは正直、物欲が動機である。“愛”に応答したのではない。
 「おすそわけ組」の若者の前で、簡単な手続きをするだけで、ある物品を「「おすそわけ」してもらえた。梱包までしてくれた。なんだか、後ろめたさのある妙な気分だった。   
 たまたま展覧会にやってきただけの理由で、誰かから贈与を受けるいわれなど全くないのだから、妙な気分になるのは自然だろう。ラッキー、というのとも違う。かりそめの仕組みに出くわして、物欲に負けただけなのである。
 私は、「おすそわけ」にあずかった品物を持ち帰って、汚れを拭き取り、拙宅壁に飾った。とってもかっこいい。かっこいいのだが、妙な気分がまた蘇る。はて、「おべんとう」とどんな関係がある?  

2018年9月26日、東京にて

公式HP:http://bento.tobikan.jp/

 

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