122 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

バスキア展と独立展とをみた日 その2
2019-10-29
 「歯」もたびたび登場し実に効果的である。歯を同じように効果的に扱ったのはデ・クーニング、ベーコン、松本大洋、それからつい最近原宿のギャラリーで見た若い作家の山本直輝など思い浮かぶが、バスキアの場合、文字や歯などはオイルスティックで書かれ(描かれ)、その力の入れ加減が具体的に読み取れる。井上有一のコンテ書を連想したゆえん。同じような形状が並ぶ歯は、文字の並びに対応しているようにも見える。
 あと、手作りの木枠。ホゾなどというものを作ることさえ考えないスピード感。枠になってさえいればおっけい! そこに無理やりキャンバスを張る。それがまたカッコいい。
 ロールの画用紙をカッターで切る。切ってあればいい、という感じで曲がってる。それもカッコいい。
 こんなにカッコいいのに、“疲れ”が見えてくる。なぜか? 
 忙しすぎたんだろうな。かわいそうに。
 
 そんなわけで、バスキアを堪能したあと、同じ六本木だから、と国立新美術館の「独立展」にも行った。知り合いの大阪の永吉捷子さんが招待ハガキを送ってくれた。永吉さんの今年の出品作をここに掲載してもらおう。
 「独立展」には知り合いが多い。が、招待ハガキは吉武研司さんが昔一度送ってくれたっきり、誰も送ってくれない。いいけど。
 永吉さんは、どうやらハイチに行ってきたらしく、その印象を描いていた。よく描いているなあ、他と遜色ないじゃん、と思ったけど、二段がけの上にあった。あまりよく見えなかった。あんなに頑張っているのに。でも、他の人たちも頑張っているわけで、やがて二点展示されるようになって、賞を得て、会員になって、芸術院会員にもなって、とそうならなければ、見やすいところに“どーん!”と展示されないのだろう。団体展も大変だ。それにしても、会場全体に出品者たちのすごいエネルギーが充満していて、びっくりさせられた。「独立展」だけでこうなんだから、他の団体展や日本中の展覧会のことを想像すると卒倒しそうになる。絵ってそんなに面白い? 
 面白いに決まってる! 人それぞれ勝手にやれる、それが一番!
 そんなわけで、ヘトヘトになって帰宅した。絵を見るのにもエネルギーがいる。
(2019年10月24日、東京にて)

 

バスキア展と独立展とをみた日 その1
2019-10-29
 滅多に行かない森美術館=森アーツセンターギャラリーでバスキアを見た。面白かったが、複雑な思いにも見舞われた。
 なぜ森美術館に行くのが「滅多」なのか? 高いところにあるからだ。高い、というより、高すぎる。私は高いところが苦手だ。森美術館のフロアの窓から外を見るとアワアワしてしまう。そんな私なのにアワアワ覚悟で出かけたのは、バスキアという人の作品を見たい、と単純に思ったから。バスキアの絵も、とっても“高い”ようだが、ビンボーな私にはその高さは始めっから関係ない。バスキアの絵は、印刷物ではとっくに知っていたけど、本物を見たことがなかったのだ。
 で、どうだったか? 
 1982年あたりの作品はさすがにとてもいいけど、亡くなった88年に近づけば近づくほど、どんどん“疲れ”のようなものが見えてきて、かわいそう、と思った。
 あっという間に世界中にその名と作品の情報が轟き、引っぱりだこになる人は、もう周りが絶対に放っておいてくれないのだろう。あれほどの才能に恵まれていても、すり減り始める。市場優先の経済原理の犠牲というべきか。ヘロインだったかの過剰摂取で、あっという間に死んでしまった。
 才能、と書いたが、才能って何? 
 その答えを端的に言える力は私にはない。ないけど、才能としか呼べないものが確かにある。バスキアの絵のどんなところに才能を感じたか? 
 まず、色。曖昧さがなく決然とした色。とはいえ、チューブから出したままの色だけではない。混色され複雑さを備えた色。つまり混色のされ方が決然としているのだ。だから、色同士の関係が小気味よい。色を重層させてもいるが、重層の効果が狙われているわけではない。気に入らないから塗り重ねているわけで、最上層の色も不透明でしかも厚く与えられ、その筆触や身振りも露わで、下層の色は完全に押さえ込まれている。そこに主として線で形状が形づくられる。結果、手前/奥の関係を浅く含みつつも上/下、右/左といった平面状の場に色同士が関係しあってカラッ!とした“響き”を作り出している。色の良さはどの作品にも一貫して保持され続けている。
 主に線で作り出される形状は、丹念に、というのではなく、これもスピード感あるラクガキ風のものだ。塗りさえも極太の線と言っていい。とはいえ、妙な形状の歪みや身振りの乱暴さが強調されたり放置されたりしているのではない。描き出される形状や形状どうしの関係のバランスは実によく、デリケートさすら感じさせる。そうした形状が、「バスキア」という“キャラクター”のようになって、別の絵にも何度も繰り返し登場する場合がある。トレードマークとされる「王冠」などはその代表的なものだ。
 一つ一つの形状は、横へ上へ下へと配されるように次々と広がっていく。形状同士が「重なりの遠近」を成して、手前/奥の関係を生じることはほとんどない。形状を形づくる線は一分節、せいぜい二分節の組み合わせ。オイルスティックやペンで引かれる線では、長くひと連なりの“一筆描き”もなされている。だから、筆に含む絵の具の量がその一回一回のストロークを一分節、二分節の形状にさせてしまうのだろう。
 描き出される形状にためらいや描き直しはない。「一発」で決められる。重ね描きされる場合でも、色を替えて決然と行われる。ゆえにシャープさと複雑さが共存する効果を生じている。
 
岸田劉生展を見た日 その2
2019-10-09
そういうわけで「岸田劉生展」は、駆け足になってしまった。
 概ね制作年代順に展示されているので、制作の展開の様子がとても見やすい。こじんまりとしているがすごく良い展覧会である。と、前期と後期に展示替えがあったことに配布されていた「作品リスト」で気づいた。前期はすでに終了しており、うーん、知らなかった。不覚であった。
  16歳の頃の風景画から、亡くなった1929年に描かれた風景画までが並んでいる。岸田劉生は1891年に生まれているので、キャプションの制作年に9を足せば絵を描いた時の年齢が分かる。亡くなったのは38歳。いかにも早すぎる。
 十代のこの人が黒田清輝の画塾に通っていたことを不覚にも完全に忘れていた。いたが、黒田の影を感じさせることはない。素直な描写で、随所に観察の繊細さ確かさが現れている。これが黒田の指導のたまものだとすれば、黒田はとても優れた指導者だっただろう。
 「銀座と数寄屋橋畔」(1910—1911)はある達成度を示していて素晴らしい。ただし、この時期の人物画には耳部に難がある場合がある。
 フォーヴィズム的な取り組みを短期間おこなったあと、古典に目が向いて自覚的に古典的な描画が試みられていく。自画像や友人たちの肖像を次々に描きながら、オーソドックスな描画を繰り返していくのだ。耳部が気になる事はもうない。パレットで混色して作った褐色系の色を並べていく描き方である。“首刈り”と呼ばれたように、自画像を含め「肖像画」が繰り返し描かれる。細部まで絶対におろそかにしない、という姿勢が一貫している。どんどん洗練されて行く。
 私の記憶が蘇る。美術を志した高校生の時、ある人に岸田劉生の自画像の図版を示され、このくらいは描けないとだめだ、やれるか? と問われたのだ。あまりの細かさにたじろいだが、やってみます、と応じた記憶がある。で、やってはみたものの、似ても似つかぬ自画像になってしまった。細かいところまで描くのだな、とだけ感じる程度の力しかなかったのだから当然だった。当時、細い金属枠の丸メガネが欲しかったなあ。あんなメガネをかけてボウズになって描けばうまく描けるかも、と真剣に思っていた。ボウズにはなってみたが、メガネは黒縁のままだった。うまくいかないのをメガネのせいにしていたかもしれない。
 こんな風に、私にはカタチから入るクセがある。同じ頃、学校の図書室でピカソの伝記を立ち読みしていたら、こうあった。
 若いピカソは貧乏すぎて冬のパリで手袋が買えませんでした。そこでブラックとお金を出し合って手袋を買いました。二人で分けて、互いに片方の手に手袋をはめ、もう片方はポケットに突っ込んでパリの街を歩きました。云々。
 で私は、登下校で使っていた手袋の片方を捨ててしまって、残った片方をはめてもう片方はポケットに突っ込んでピカソ気分を味わったことさえある。あ、こんなことはどうでもいい話だ。
 ともかく、劉生の「首刈り」の集中度は凄まじい。代々木に引っ越してからも断続的に続く。
 代々木では風景に取り組む。当時の代々木はこんなだったんだなあ、と思わせられる風景画である。有名な「切通之写生」(1915年)はこの時期のもの。電信柱の影が細かく描かれた坂の地面にのびている。電信柱は他の風景画にも登場するが、そこにあるから描いた、というようなものではなさそうだ。当時は新鮮な印象の珍しいものだったのかもしれない、と思った。静物画も描かれ、バーナード・リーチが作ったという壺やリンゴがモチーフになっている。
 鵠沼に転居してからも静物画と取り組み、よく描き込まれて、何度見ても見応えがある。麗子像も描き始められる。その顔部は時に横に拡がって描かれ、奇妙な印象を生じている。
岸田劉生展を見た日 その1
2019-10-09
やっと涼しくなった。それもあって、東京ステーションギャラリーで開催中の「岸田劉生展」に家人と出かけ、展覧会場に向かう前に、KITTE四階の蕎麦屋で簡単に腹ごしらえして、さて、とエスカレーターで下の階に降りながら「インターメディアテク」というのを家人が見つけた。え? あ、そうか。ここにあったのか。
 丸の内の東京中央郵便局が建て替えられてKITTEとなり、そこに東大博物館の収蔵品を中心にしたミュージアムもできた、というのは知ってはいた。しかし、ここ、とは思っていなかった。いかにも唐突に出くわしたのである。
 早速立ち入ってみると、ワニやらクジラやら、動物の骨格や剥製、魚の骨格はじめ各種標本、植物や鉱物の標本、鳥などの剥製、方程式とかから導き出されたらしき立体模型、蓄音機や計算機、実験のための機械、物差しの原基、などなど。アフリカの仮面“彫刻”やマダガスカルのお墓に立てられた“彫刻”もある。どれもが一つ一つものすごく面白い。加えて、古い棚や引き出しなどをうまく使って“什器”にしている。独特の雰囲気である。なんだか別世界に迷い込んだみたいだ。
 ついつい一つ一つに眺め入って、あげく長時間滞在してしまっていたらしい。
家人が疲れて椅子に座り込んでしまった。その姿を横目に、さらにあれこれ見入っていると、ねえ、岸田劉生を見る時間がなくなるわよ、ここだけで帰るつもり? と言ってきた。そういえば、シンデレラみたいに、家に戻らねばならぬ時間が決まっている。爺さんの女装シンデレラを思い浮かべて苦笑した。いただけない。
 後ろ髪を引かれながら(側頭部・後頭部にはまだ髪がある)、また来ればいいか、とステーションギャラリーへと移動した。それにしても、いいところを見つけたものだ。面白すぎるうえに、なんと、無料! 庶民の皆さんにあまねくお勧めしたい。私はまた行く。
つづく→

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