84 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

「式場隆三郎『脳室反射鏡』」展をみた その2
2020-10-26
 そんなわけで、この展覧会で式場隆三郎という人の「正体」=活動のおおよそを知ることになった。展示されているのは主に資料類だとはいえ、たとえば木喰の現物『金比羅大権現』、木喰像の写真数点、中原悌二郎『若きカフカス人』、ロダン『花子』など、実に新鮮に見ることができる。
 また、山下清の貼り絵の精緻さにも驚かされるだろう。こよりを作って貼り込んでいたことなどすっかり忘れていた。
 式場隆三郎は山下清の貼り絵を持って全国を巡回して展示会を催したのだったが、ある資料にはその日程が示されていて、中に「1959年6月25日〜6月30日、帯広十勝会館」とあった。それで、また思い出したのだった。
 小学生の私(たち)は先生たちに引率されてこの十勝会館(現存せず)まで学校から徒歩で移動し、押し合いへし合いしながら山下清の貼り絵の数々を見た。しかし、当時の私は今日のようにびっくりしなかった。ふーん、てなもんだったのである。あれから半世紀以上を経て、今度は本当にびっくり仰天したのだから、私も少しは成長できたのかもしれない。
「式場隆三郎『脳室反射鏡』」展をみた その1
2020-10-26
 なんだか、よく見る名前の人だが、正体不明のままにしてきてしまった。なので、練馬区立美術館に出かけたのである。晴天の土曜日。
 上唇を思い切り前に突き出しながら「ジュン」と言うと、田中邦衛の真似ができる。その「ジュン」を演じていた吉岡某という子役が、いつの間にか大きくなって(年齢を重ねて)、先週NHK朝ドラ『エール』に登場していた。古関裕而作曲『長崎の鐘』誕生をめぐる話であった。吉岡某が演じたのは、長崎で原爆病に苦しみながら執筆を続ける医師。モデルは永井隆。その永井隆が書いた『生命の河 原子病の話』や『長崎の鐘』を出版したのが式場隆三郎だったなんて、知らなかった。が、これは彼の「正体」の一端にすぎない。
 他にも「正体」の一端が展示を通じて次々に示されるのである。
 岸田劉生に表紙を描いてもらって同人誌を作っていた、とか、柳宗悦の木喰調査を手伝っていたとか、雑誌『月刊・民藝』を編集していた、とか、マルキ・ド・サドの紹介者だった、とか、日本のゴッホ受容を主導した、とか、山下清の“プロモーター”だった、とか、草間彌生をごくごく初期に見出して応援した、とか、性教育=「イット解剖学」に熱心だった、とか、実は精神科医で病院を経営するばかりでなくホテル経営にまで乗り出した、とか、私が知っていたのは『二笑亭綺譚』の著者だということくらいだったけど、生涯で二百冊の本を描いたらしい。好奇心旺盛で使命感に燃え、実に勤勉だったのであろう。
 事ほど左様に多彩な活動を繰り広げたかのようだが、実は、精神科医としてその問題意識が通底している。
映画を見て来た
2020-10-15
 映画を見て来た、と書きたくなるくらい久しぶりに映画を見て来た。話題の『ある画家の数奇な運命』(原題は『WERK OHNE AUTOR』)、ゲルハルト・リヒターをモデルにした物語。
 今、リヒターを知らない美術好きはいないだろう。私ももちろん知っている。私がはじめて彼の作品を小さな写真図版で知った時、彼は東ドイツの作家だった。それがいつの間にか、西ドイツに移動していて、あれよあれよという間に頭角をあらわした。今や、超のつく有名作家である。現存作家のうちで作品が最も高額で取引される、とも伝え聞く。
 この映画は、まだ主人公が小さかった頃、叔母に連れられて「退廃芸術展」を見るところから始まって、ナチの時代、社会主義東ドイツの時代を経て、西ドイツに亡命し、デュッセルドルフ芸術アカデミーで学び、個展で成功するまでを描いている。もちろん、リヒターの生涯を厳密にたどる、というような映画ではなく、リヒターをモデルにしていても、巧みな脚色が加わって、3時間以上の時間を飽きさせることがない。
 主人公に大きな影響を与えた美しい叔母が、のちに主人公の恋人=妻になる女性の父親(=ナチの高官の「教授」=権威ある産婦人科医)の指示で、ガス室で殺されていく。これが物語構成上の大きな軸である。
 「退廃芸術展」の“ギャラリー・ツアー”を仕切るナチの男のセリフはいかにもあのようだったろうし、社会主義政権下のドレスデンの「アカデミー」の党員「教授」が「社会主義レアリズム」を説くセリフもあのようだっただろう。「退廃芸術展」の会場が白い仮設壁で構成されていたことや、「アカデミー」の教室で、2人のモデルを見下ろしている位置から描いているにもかかわらず、描きつつあるのは下から見上げている絵になっている、などということを指摘するのはただの「揚げ足取り」になるだけだろう。
 西側の鉛筆が画学生たちにとってそうとう貴重なものだったらしい、というようなディテールは、当時の西と東の対比としてそれなりに納得させられるだけでなく、主人公と恋人=妻との出会いに繋がって、無駄がない。
 同様に、重要な場面で、主人公が視野を塞ぐように手をかざし、手にピントを合わせたまま手を取り去ると視野全体がボケ続けるカットや、叔母がバスのクラクションに包まれて恍惚となるカットが、大きな意味を孕んで回帰し、ここにも無駄がない。映像も美しい。
大津絵を見てきた
2020-10-02
 東京ステーションギャラリーで開催中の「大津絵」展を見てきた。一度にあんなにたくさんの大津絵を見たのははじめて。面白かった。
 いきなり解説パネルに“合羽刷り”とあって、とまどったのだが、考えてみれば、江戸時代であっても、旅人相手に「お土産品」として絵を販売するとなれば、買ってもらえるような価格設定とともに、買いたくなる水準の内容とバラツキのない出来栄え、それをキープしつづけることが必要なのである。「版」を用いる、これはいかにも自然なことだ。合羽(カッパ=雨具)に使うような耐水性の加工をした紙を必要な形にくりぬいて別の紙に当て、その“穴”に墨や絵具を塗る。そうすると、同じ形をばらつきなく簡単にたくさん、そして繰り返し作る(刷る)ことができるわけだ。スタンプのように木版=凸版も用いて、さらに手描きすれば、効率よくたくさんの絵を用意できる。売れ行きが良ければ、さらに作り(刷り)、また、別の“絵柄”を開発すれば良い。
 不覚にも私は、大津絵に「版」が導入されていたことを知らなかったし、そんなことをツユほども考えもしなかったので、一点一点、合羽刷りの箇所を探しながらながら懸命に見た。が私には、ここが合羽刷り、と断定できる観察力と判断力がなかった(スタンプは見当がついた)。衣類の模様や、余白に書き込まれた文字には、孔版では抜け落ちてしまうはずの形状がはっきりと確認できる。だから、これらは手書き(手描き)されたものだろう(‥‥とは言えスタンプかもしれない)。
 どう作られどう描かれているか、と“技法”への“雑念”にとらわれてはいたものの、次第に大津絵というものに引き込まれていく。
 各種仏像、天神さんや七福神など神像、武将や市井の人の像、様々な女の像、動物や鳥や魚の像、など、ありがたい、また親しみある、そんな主題をひょいひょいと脱力したかのように描いている。ひょうきんだったり、かわいかったり、と、それはそれで十分に楽しめるが、加えて、線や色面、地と図、、、というような“造形要素”の実に巧みな構成、とりわけ大津絵特有の「単純化」がされつつもそれゆえ豊かな空間が成立している例にも出くわして、ひえー、と驚かされたりもして、退屈しない。反対に、ちょっとこれは、、、というようなものもあるが、それはそれでアクセントにもなり、十分に楽しめるのだ。手描きされた(らしき)ためらいのない輪郭線のあり方、その現れがポイントと見た。

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