立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
「試展ー白州模写『アートキャンプ白州』とは何だったのか」展
2022-10-31
「市原湖畔美術館」に“送迎バス”で行ってきた。北川フラム氏がオーナーの美術館、と誤解してきたが、「指定管理者制度」に則って、目的も定かでなかった建物を北川フラム氏たちが美術館として“再生”する取り組みを続けているところだ、ということを今回訪れたことで知った。不覚なことである。
また、なぜ”送迎バス”だったか。地図で確認なされば分かるが、はっきり言って、この美術館は車でなければとても行きにくい場所にある。私は車の運転が嫌いなので、とっくに車を手放し、車庫だった場所は内部を別の用途(超狭小の古本屋)に作り替えてしまった。今回は、表記の展覧会のために東京駅からの特別な“送迎バス”が準備される、というので、その話(というか、バス)に乗っかったのである。表記の展覧会で扱われる「白州」。私はその当事者でもあったので”送迎バス”の情報を得ることができたのであった。
「白州」とは、当時の山梨県北巨摩郡白州町(現在は北杜市白州町)の横手、大坊地区で1988年から「白州・夏・フェスティバル」→「アート・キャンプ白州」→「ダンス白州」と2009年まで展開した“フェスティバル”をさす”略称”である。
舞踊家の田中泯さんが、1985年に八王子(あるいは醍醐?)の稽古場を引き払って「舞塾」の人々と共に大坊地区の農家跡に移り住んで「身体気象農場」を開いたのが事の始まりであった。1985年といえばその年の春、私は、中野のPlanBでの「目盛」という企画で田中泯さんと初めて直接出会ったのだったが、その同じ年に、泯さんが白州町に移住したことなど知る由もなかった。
1988年になって、春の黄金連休に、高山登さんの呼びかけで何人かの美術家と新宿駅で待ち合わせて一緒に白州に行った。久しぶりに泯さんと会ったわけである。その時にはすでに、剣持和夫さんの作品が「身体気象農場」の営む養鶏のための鶏小屋のそばに ズン! と立っていた。映像作家の黒川芳朱さんなどと合流して、田中泯さんがみんなを引き連れて横手、大坊地区の各所を案内してくれながら、この地域に美術作品を設営する構想について話してくれた。その晩は「身体気象農場」のコタツに足を突っ込んでお酒を飲みながらいろいろ話をして雑魚寝した。高山さんと泯さんとが激しい議論をして驚いた記憶が鮮明である。それが私にとっての「白州」の始まりだった。それからのことは、省略する。
さて、乗り込んだ“送迎”バスだったが、思いがけない湾岸線の事故の情報で迂回ルートを取らざるをえず、加えて渋滞につぐ渋滞。予定の倍の時間を経てやっと「市原湖畔美術館」に辿り着いた。入館の手続きを終えると、私はそのまま屋上へと一目散に駆け上がり、ともかくは人目につかない場所で持参のおにぎりを大急ぎで食べて腹ごしらえをし、予定されているシンポジウムまでの時間、大急ぎで会場を巡ったのだった。
会場に入ってすぐ左手に高山登さんの作品。
枕木による作品である。スポットライトで生じる(生じてしまう)枕木のくっきりとした影が枕木の構成をやや見えにくくさせていることは否めない。また、観客の導線から言えば作品の全体感をつかむには不利な状況での設置である。とはいえ、とりわけ枕木を壁に凭れ掛けた領域の厚みの表現に“見どころ”を感じさせられる。
続いて名和晃平さんの複数の作品や、かつてボランティアスタッフとして長く「白州」に関わったという名和さんの撮った写真群などが壁に並んでいく。
さらに1988年の「白州・夏・フェスティバル」のプロジェクション映像が続くが、これらをゆっくりみている時間がない。じきに「シンポジウム」が始まるのだ。あせる。
故榎倉康二さんの“小部屋”がある。じっくり見たい。見たいが、時間がない。どうするか? えい! スマホで「写真」である。見ているのではなく「写真」を撮っている。見たことのないドローイングが多数ある。それらドローイング群と大きな窓。展示の妙を味わっている余裕がない。さらにここには、急逝した榎倉さんを追悼する田中泯さんの踊りの映像もあったが、これもじっくり見ているゆとりがない。さまざまな思いが去来する。
遠藤利克さんの作品は、真っ暗にされた部屋にいかにも謎めいて設置されている。特別な照明の配慮がなされているが、壁に大きくプロジェクションされた故えーりじゅん氏を捉えた映像との不思議な“響き合い”が興味深い。映像をじっくり見ている時間がない。
階段を降りて地下の展示室に向かえば、曲尺の壁全体に剣持和夫さんの圧倒的な数のドローイングがある。ドローイング群の上の方はほとんど見えない。剣持さん、健在である。外にも作品がある、と聞いたが見に行っている時間がない。
また、なぜ”送迎バス”だったか。地図で確認なされば分かるが、はっきり言って、この美術館は車でなければとても行きにくい場所にある。私は車の運転が嫌いなので、とっくに車を手放し、車庫だった場所は内部を別の用途(超狭小の古本屋)に作り替えてしまった。今回は、表記の展覧会のために東京駅からの特別な“送迎バス”が準備される、というので、その話(というか、バス)に乗っかったのである。表記の展覧会で扱われる「白州」。私はその当事者でもあったので”送迎バス”の情報を得ることができたのであった。
「白州」とは、当時の山梨県北巨摩郡白州町(現在は北杜市白州町)の横手、大坊地区で1988年から「白州・夏・フェスティバル」→「アート・キャンプ白州」→「ダンス白州」と2009年まで展開した“フェスティバル”をさす”略称”である。
舞踊家の田中泯さんが、1985年に八王子(あるいは醍醐?)の稽古場を引き払って「舞塾」の人々と共に大坊地区の農家跡に移り住んで「身体気象農場」を開いたのが事の始まりであった。1985年といえばその年の春、私は、中野のPlanBでの「目盛」という企画で田中泯さんと初めて直接出会ったのだったが、その同じ年に、泯さんが白州町に移住したことなど知る由もなかった。
1988年になって、春の黄金連休に、高山登さんの呼びかけで何人かの美術家と新宿駅で待ち合わせて一緒に白州に行った。久しぶりに泯さんと会ったわけである。その時にはすでに、剣持和夫さんの作品が「身体気象農場」の営む養鶏のための鶏小屋のそばに ズン! と立っていた。映像作家の黒川芳朱さんなどと合流して、田中泯さんがみんなを引き連れて横手、大坊地区の各所を案内してくれながら、この地域に美術作品を設営する構想について話してくれた。その晩は「身体気象農場」のコタツに足を突っ込んでお酒を飲みながらいろいろ話をして雑魚寝した。高山さんと泯さんとが激しい議論をして驚いた記憶が鮮明である。それが私にとっての「白州」の始まりだった。それからのことは、省略する。
さて、乗り込んだ“送迎”バスだったが、思いがけない湾岸線の事故の情報で迂回ルートを取らざるをえず、加えて渋滞につぐ渋滞。予定の倍の時間を経てやっと「市原湖畔美術館」に辿り着いた。入館の手続きを終えると、私はそのまま屋上へと一目散に駆け上がり、ともかくは人目につかない場所で持参のおにぎりを大急ぎで食べて腹ごしらえをし、予定されているシンポジウムまでの時間、大急ぎで会場を巡ったのだった。
会場に入ってすぐ左手に高山登さんの作品。
枕木による作品である。スポットライトで生じる(生じてしまう)枕木のくっきりとした影が枕木の構成をやや見えにくくさせていることは否めない。また、観客の導線から言えば作品の全体感をつかむには不利な状況での設置である。とはいえ、とりわけ枕木を壁に凭れ掛けた領域の厚みの表現に“見どころ”を感じさせられる。
続いて名和晃平さんの複数の作品や、かつてボランティアスタッフとして長く「白州」に関わったという名和さんの撮った写真群などが壁に並んでいく。
さらに1988年の「白州・夏・フェスティバル」のプロジェクション映像が続くが、これらをゆっくりみている時間がない。じきに「シンポジウム」が始まるのだ。あせる。
故榎倉康二さんの“小部屋”がある。じっくり見たい。見たいが、時間がない。どうするか? えい! スマホで「写真」である。見ているのではなく「写真」を撮っている。見たことのないドローイングが多数ある。それらドローイング群と大きな窓。展示の妙を味わっている余裕がない。さらにここには、急逝した榎倉さんを追悼する田中泯さんの踊りの映像もあったが、これもじっくり見ているゆとりがない。さまざまな思いが去来する。
遠藤利克さんの作品は、真っ暗にされた部屋にいかにも謎めいて設置されている。特別な照明の配慮がなされているが、壁に大きくプロジェクションされた故えーりじゅん氏を捉えた映像との不思議な“響き合い”が興味深い。映像をじっくり見ている時間がない。
階段を降りて地下の展示室に向かえば、曲尺の壁全体に剣持和夫さんの圧倒的な数のドローイングがある。ドローイング群の上の方はほとんど見えない。剣持さん、健在である。外にも作品がある、と聞いたが見に行っている時間がない。
「実験映画を見る会」
2022-10-18
前日に深谷駅に降り立ったばかりなのに、10月17日(日)には、武蔵小金井駅に降り立って、南に向けてテクテク歩きはじめたのである。やがて川があるはず。その川の脇の細道を東に行けば、目指す「実験映画を見る会」の会場=「小金井市中町天神前集会所」があるはずだ。
川があった。お、この川が野川。川沿いの細い道を東にさらに行く。野川といえば、古井由吉だ。いつだったか、『野川』という小説は稀に見る大傑作だ、と言う友人に促されて読んだ。
それにしても、「小金井市中町天神前集会所」とは、渋すぎる名称の会場である。こうした会場を探し出して、映写機とフィルムを持ち込み、実験映画の上映会をやってしまう、このセンスは、本当に素晴らしい。加えて、参加費は無し、つまり完全無料。なんということでしょう(とTV番組「ビフォー・アフター」のナレーションの口調で)。
仕掛けたのは、日本映像学会のアナログメディア研究会。
デジタル化の大波のなかで、アナログメディア、つまりフィルムによる映像の大事さについてさまざまに研究し発表し啓蒙してきている人々である。各所で自家現像による8ミリ映画作りのワークショップなどをはじめとする活動も行ってきているし、今回、彼らが初めて試みた「実験映画を見る会」もそうした活動の一環であろうか。
私は、この研究会の代表の太田曜氏とはずいぶん昔からの知り合いである。
あれはいつごろのことだっただろう。『野川』を読んだそのはるか以前のことだったような気がする。太田氏の家で「実験映画」というものをまとめて見せてもらったことがあって、初めて見たそれらの面白さに、ついつい、私は目覚めてしまったのである。
太田氏はその頃(ここ数年はコロナで控えているようだが)、日本のリアルタイムの実験映画をフランスに持って行って、フランスのあちこちで上映会をやる、ということを定期的に続けていて、私がその時見せてもらったのは、彼がフランスへ持参する複数の作品を出発前に“検品”するための試写だった。太田氏が誘ってくれたので立ち会えたのである。実に幸運であった。そのようにして当時の日本の「実験映画」をまとめて見て、とても面白いものだなあ、と思ったのだった。
その時は、映写の合間に、太田氏のフランスやドイツでの体験の話も聞くことができた。彼はフランスとドイツで映画を学び、「パリ・青年・ビエンナーレ」にも出品したことがある。彼の先生のペーター・クーベルカという人についての話には衝撃を受けた。
以来、太田氏から、奥山順一という人や末岡一郎という人や小池照男という人などを教えてもらったし、「イメージ・フォーラム」という当時四谷にあった(今は渋谷に移った)スペースのことも教えてもらったし、「イメージ・フォーラム・フェスティバル」という催しについても教えてもらったし、国立の「キノ・キュッへ」での有志による映画の研究会のことも教えてもらった。それらを通して、西村智弘という人や石田尚志という人を知った。末岡一郎という人からはオーストリアのマーティン・アーノルドという人の作品も見せてもらった。さらに別ルートで知り合った黒川芳朱という人や水由章という人からもスタン・ブラッケージという人の作品をたくさん見せてもらった。それぞれがとっても懐かしい。最近、水由氏から見せてもらったボカノウスキーの映画については、この「雑記帳」にメモしたので、読んでくださっている方もおられるかと思う。また、京都のある学校に勤務してから、相原信洋という人を知って親しくしてもらったが、相原氏は急に亡くなってしまって、相原氏が真剣に計画していた京都・今出川通での乾物屋を私が店番などで手伝う話も無くなってしまった。
川があった。お、この川が野川。川沿いの細い道を東にさらに行く。野川といえば、古井由吉だ。いつだったか、『野川』という小説は稀に見る大傑作だ、と言う友人に促されて読んだ。
それにしても、「小金井市中町天神前集会所」とは、渋すぎる名称の会場である。こうした会場を探し出して、映写機とフィルムを持ち込み、実験映画の上映会をやってしまう、このセンスは、本当に素晴らしい。加えて、参加費は無し、つまり完全無料。なんということでしょう(とTV番組「ビフォー・アフター」のナレーションの口調で)。
仕掛けたのは、日本映像学会のアナログメディア研究会。
デジタル化の大波のなかで、アナログメディア、つまりフィルムによる映像の大事さについてさまざまに研究し発表し啓蒙してきている人々である。各所で自家現像による8ミリ映画作りのワークショップなどをはじめとする活動も行ってきているし、今回、彼らが初めて試みた「実験映画を見る会」もそうした活動の一環であろうか。
私は、この研究会の代表の太田曜氏とはずいぶん昔からの知り合いである。
あれはいつごろのことだっただろう。『野川』を読んだそのはるか以前のことだったような気がする。太田氏の家で「実験映画」というものをまとめて見せてもらったことがあって、初めて見たそれらの面白さに、ついつい、私は目覚めてしまったのである。
太田氏はその頃(ここ数年はコロナで控えているようだが)、日本のリアルタイムの実験映画をフランスに持って行って、フランスのあちこちで上映会をやる、ということを定期的に続けていて、私がその時見せてもらったのは、彼がフランスへ持参する複数の作品を出発前に“検品”するための試写だった。太田氏が誘ってくれたので立ち会えたのである。実に幸運であった。そのようにして当時の日本の「実験映画」をまとめて見て、とても面白いものだなあ、と思ったのだった。
その時は、映写の合間に、太田氏のフランスやドイツでの体験の話も聞くことができた。彼はフランスとドイツで映画を学び、「パリ・青年・ビエンナーレ」にも出品したことがある。彼の先生のペーター・クーベルカという人についての話には衝撃を受けた。
以来、太田氏から、奥山順一という人や末岡一郎という人や小池照男という人などを教えてもらったし、「イメージ・フォーラム」という当時四谷にあった(今は渋谷に移った)スペースのことも教えてもらったし、「イメージ・フォーラム・フェスティバル」という催しについても教えてもらったし、国立の「キノ・キュッへ」での有志による映画の研究会のことも教えてもらった。それらを通して、西村智弘という人や石田尚志という人を知った。末岡一郎という人からはオーストリアのマーティン・アーノルドという人の作品も見せてもらった。さらに別ルートで知り合った黒川芳朱という人や水由章という人からもスタン・ブラッケージという人の作品をたくさん見せてもらった。それぞれがとっても懐かしい。最近、水由氏から見せてもらったボカノウスキーの映画については、この「雑記帳」にメモしたので、読んでくださっている方もおられるかと思う。また、京都のある学校に勤務してから、相原信洋という人を知って親しくしてもらったが、相原氏は急に亡くなってしまって、相原氏が真剣に計画していた京都・今出川通での乾物屋を私が店番などで手伝う話も無くなってしまった。
小杉武久の2022
2022-10-17
深谷駅ホームに降り立ち、階段を登り、駅トイレに立ち寄って“用”を足し、一つだけの改札口に向かうと、外には列ができていた。ああ、あれが「小杉武久の2022」のための列だな、と見当をつけて最後尾に並んだ。
“点呼”のあと指定されたバスは満員、乗り損ねた私(たち)は、おそらくは、こんなこともあろうかと主催者によって周到に用意されていた二台の乗用車に分乗して会場に向かったのだった。
小杉武久という人は知れば知るほど興味深い。というか、どうしてこんなに素晴らしい人のことを知ろうとしてこなかったのだろう、と考えると自分のダメさ加減がよくわかる。
私の仕事机の近くには、この小杉さんが亡くなる前の2017年に芦屋市立美術館で開催されていた『小杉武久 音楽のピクニック』展の図録が置かれている。それは、藤原和通という人に由来するのだが、その藤原和通という人については今回は述べない。いずれ、いつか。
で先に進む。
あ、その前に一つだけ。2018年秋、まだまだ元気だった藤原さんに、新聞で見たけど、と小杉さんが亡くなったことを伝えた時の藤原さんの驚きと落胆の様子を今でもありありと思い出す。言葉をかけるのをためらうほどだった。
会場に到着し、受付を済ませ、待機して、会場に入った。
箱で座席がしつらえてあり、正面に大きな窓、スタインウェイのグランドピアノ、テーブル上に電子機器、マイクなどが配されている。気がつけば頭上に何やら小さな装置がたくさんぶら下がっていて、ごくごく小さな音を断続的に発している。
最初のプログラムが始まる。手に小さな装置のようなもの(タイマーだろう)を持った背の高い痩せた女性が現れ、歩く、止まる、座る。と、あの高橋悠治氏がやはり手に小さな同じ装置のようなものを持って現れ、ヨロヨロと壁に身を預け、女性の方を見て体勢を整え、移動して、ピアノの椅子を蹴る、手で押す、引くなどする。女性は会場のあちこちに移動して静止し、高橋悠治氏はそれを見てピアノを弾いたり、椅子を引きずったりする。女性はなんと、正面の窓を開けて、外の音を取り込もうとするのか、と思えば、外に出て窓を閉め、外で佇んだり歩いたりして、やがて枠の外へと消え去ってしまう。高橋氏は時折そのような女性のふるまいを見て、ピアノを弾いたり、椅子を引きずったりしている。首のマフラーでピアノを拭き始めたのには大笑いしそうになったが、マスクの下で声を出すのを懸命にこらえた。やがて、二人は退場していった。最初の演奏が終わった(らしい)。女性が”譜面”の役割を果たしていたのだろうか。
次に登場したのは藤本由紀夫氏。手提げのジュラルミン・ケースを携えて、最前列中央右の観客近くまできて、しゃがんでケースを開け、「アイパッド」のようなものを取り出し(これもタイマーらしい)床にセットするところは見えたが、私より前の人々の頭で他の仕草は確認できない。やがて、いくつかの箱(のようなもの)を手にして立ち上がり、移動してそれを一つずつあちこちに置き、そのうちの一つの蓋を開く。中には高音の電子音を出し続けている(らしい)小さな装置が入っている。装置を手にしてボリウムを調整し再び箱の中におさめて、蓋を開け閉めして音量を変化させ、あるところでそのままにする。そうしたふるまいを“ステージ”のあちこちで行なっていると、先ほどと同じ女性、そして遅れてメガネの男性が箱などを持って現れ、同じように蓋を開け閉めする。それらの“行い”のたびに空間の拡がりがあらわになり、電子音で空間が満たされていく。やがて、彼らは、それら箱などの蓋を閉じていって、藤本氏はそれらをジュラルミン・ケースに納めて退場していく。二つ目の演奏が終わった(らしい)。
次にはハットをかぶった男と先ほどの女性が現れ、それぞれがマイクの前に座る。男性はふいごや空気入れでマイクに“風”を吹きかけて音を生じさせ、女性は紙風船に息を吹き込んで膨らませた後に両手の指で少しずつたたんだり潰したりして紙風船が発する音をマイクに届けていく。そういう合奏であった。ふいごでいかにも優しくマイクに“風”を送り理始めた時、またも大笑いしそうになってこらえた。
“点呼”のあと指定されたバスは満員、乗り損ねた私(たち)は、おそらくは、こんなこともあろうかと主催者によって周到に用意されていた二台の乗用車に分乗して会場に向かったのだった。
小杉武久という人は知れば知るほど興味深い。というか、どうしてこんなに素晴らしい人のことを知ろうとしてこなかったのだろう、と考えると自分のダメさ加減がよくわかる。
私の仕事机の近くには、この小杉さんが亡くなる前の2017年に芦屋市立美術館で開催されていた『小杉武久 音楽のピクニック』展の図録が置かれている。それは、藤原和通という人に由来するのだが、その藤原和通という人については今回は述べない。いずれ、いつか。
で先に進む。
あ、その前に一つだけ。2018年秋、まだまだ元気だった藤原さんに、新聞で見たけど、と小杉さんが亡くなったことを伝えた時の藤原さんの驚きと落胆の様子を今でもありありと思い出す。言葉をかけるのをためらうほどだった。
会場に到着し、受付を済ませ、待機して、会場に入った。
箱で座席がしつらえてあり、正面に大きな窓、スタインウェイのグランドピアノ、テーブル上に電子機器、マイクなどが配されている。気がつけば頭上に何やら小さな装置がたくさんぶら下がっていて、ごくごく小さな音を断続的に発している。
最初のプログラムが始まる。手に小さな装置のようなもの(タイマーだろう)を持った背の高い痩せた女性が現れ、歩く、止まる、座る。と、あの高橋悠治氏がやはり手に小さな同じ装置のようなものを持って現れ、ヨロヨロと壁に身を預け、女性の方を見て体勢を整え、移動して、ピアノの椅子を蹴る、手で押す、引くなどする。女性は会場のあちこちに移動して静止し、高橋悠治氏はそれを見てピアノを弾いたり、椅子を引きずったりする。女性はなんと、正面の窓を開けて、外の音を取り込もうとするのか、と思えば、外に出て窓を閉め、外で佇んだり歩いたりして、やがて枠の外へと消え去ってしまう。高橋氏は時折そのような女性のふるまいを見て、ピアノを弾いたり、椅子を引きずったりしている。首のマフラーでピアノを拭き始めたのには大笑いしそうになったが、マスクの下で声を出すのを懸命にこらえた。やがて、二人は退場していった。最初の演奏が終わった(らしい)。女性が”譜面”の役割を果たしていたのだろうか。
次に登場したのは藤本由紀夫氏。手提げのジュラルミン・ケースを携えて、最前列中央右の観客近くまできて、しゃがんでケースを開け、「アイパッド」のようなものを取り出し(これもタイマーらしい)床にセットするところは見えたが、私より前の人々の頭で他の仕草は確認できない。やがて、いくつかの箱(のようなもの)を手にして立ち上がり、移動してそれを一つずつあちこちに置き、そのうちの一つの蓋を開く。中には高音の電子音を出し続けている(らしい)小さな装置が入っている。装置を手にしてボリウムを調整し再び箱の中におさめて、蓋を開け閉めして音量を変化させ、あるところでそのままにする。そうしたふるまいを“ステージ”のあちこちで行なっていると、先ほどと同じ女性、そして遅れてメガネの男性が箱などを持って現れ、同じように蓋を開け閉めする。それらの“行い”のたびに空間の拡がりがあらわになり、電子音で空間が満たされていく。やがて、彼らは、それら箱などの蓋を閉じていって、藤本氏はそれらをジュラルミン・ケースに納めて退場していく。二つ目の演奏が終わった(らしい)。
次にはハットをかぶった男と先ほどの女性が現れ、それぞれがマイクの前に座る。男性はふいごや空気入れでマイクに“風”を吹きかけて音を生じさせ、女性は紙風船に息を吹き込んで膨らませた後に両手の指で少しずつたたんだり潰したりして紙風船が発する音をマイクに届けていく。そういう合奏であった。ふいごでいかにも優しくマイクに“風”を送り理始めた時、またも大笑いしそうになってこらえた。
日曜日の東京都現代美術館
2022-10-03
MOTという略称(愛称?)の東京都現代美術館で企画展のチケットを買うと、MOTの収蔵品から選んで構成した「MOTコレクション展」が無料になる。加えて、私は老人なので企画展のチケットは割引になる。なので企画展は「MOTアニュアル2022 私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」展を選んだ。高川和也、工藤春香、大久保あり、良知暁の4名が出品しているがいずれも未知の作家たち。
まず、高川和也の映像《そのリズムに乗せて》。
ちょうど掲示の開始時刻直前だったので、真っ暗なスペースに入る。ほとんど何も見えない。おっかなびっくりで進む。少しずつ目が慣れてベンチがあることがわかった。空いているところ座ったらタイミング良く始まった。
映像には一人は作家(高川)自身、もう一人はFUNIというラッパーが登場した。むむ、苦手な、というか、何も知らないに等しい分野。一生懸命に見てしまった。
FUNIは高川を励まし、ラップについて語る。高川は昔書いた日記をラップにしてみようとする。それを聞いたFUNIは、自分もまた日記を書いていたことがあってそれが次第にラップのためのメモのようなものになってきたことを作家に示し、さらに高川を励ます。高川はある哲学者が行っているワークショップのような集まりに参加して、参加者全員に自分の日記を読んでもらって感想や意見を言ってもらう。その過程で、自分の日記をラップにできる、ラップにしてよい、という確信を得て、FUNIにラップのテクニックの教えを乞う。と、そういう筋立てである。FUNIからの具体的な指導を受けて高川が上達するのが私にも分かる。FUNIの指導は合理的に段階を追って順になされていた。高川も嬉しそうだった。かなり長い映像だが(52分)、興味深く見た。
次に見たのは工藤晴香《あなたの見ている風景を私は見ることはできない。私の見ている風景をあなたは見ることができない。》。
最初の小ぶりなスペース。床面から浮かせて水平に置かれた円形の鏡に三つの折り紙の舟が置かれている(全体が顔にも見える)。壁に地図を手書きしたものや湖を描いた絵、鉛筆で真っ黒く塗りつぶされた紙片。
次の大きなスペース。半透明の極めて薄手の白い布がカーテンのように吊るされて横切っている。上から見れば「S」の形になっているだろう。床との間には隙間がある。“カーテン”の裏表にはそれぞれ年表らしきがグレイの各ゴチック体で印字されている。極めて薄い布地なので裏側に印字された文字群も左右反転してうっすらと見えている。読めば、「優生思想」や「優生保護法」をめぐる年表である。政治や行政の年表が表側に、裏側には当事者たちの運動の年表が印字されている。全部読んでみたが、帰宅してしばらく経った今、もうほぼ忘れてしまっている(悲しい)。“カーテン”の下方に一組のスニーカーが置かれており、気がつくと壁際や“カーテン”で囲まれた中央部にソファーやテーブル、ぬいぐるみ、コカコーラのペットボトル、スニーカーなどが配されている。上方に白いTシャツが広げられて吊るされている。周囲の壁には、油絵らしき肖像画が二点、古そうな新聞の小さな切り抜き、小さな用紙にペン書きでメモされた言葉が横に等間隔で多数留められている。これらのメモも今、ほぼ忘れてしまっているが(悲しい)、目が見えない人のだろうか、障害のあるらしき「一也」、彼をめぐる介助者らしき人のメモのような印象だった。さらに、モニタに動画。これらから、どうやら相模原市の障害者施設で起きた大量殺傷事件から展開した作品か、と見当をつけた。事件そのものを扱うというより、事件をきっかけに作家が行った相模湖や優生思想、水路や当事者などについてのリサーチの報告、といった印象である。中ではやはり”年表”に見応えがあった。
モニタの映像は、作家が自ら相模湖からガラスの容器に水を汲み、横浜あたりの運河(?あるいは海?)まで歩いてその水を流し、その場所の小さな草を二本抜いて容器に詰め、もう一度相模湖へ向かう、というものである。私はそこまでは意地で見たが、きっとこれは相模湖のほとりにこの植物を植えるのだろうと見当をつけて、途中でモニタの前から離れた。私が見た映像では相模湖から横浜あたりまで歩き続け、また戻りはじめたかのような作家の姿だだったが、実際は歩き通していないのではないか。影のでき方に変化がなさすぎる。ま、相模湖から横浜まで、往復全部を実際に歩かなくてもいいわけだが、、、。
まず、高川和也の映像《そのリズムに乗せて》。
ちょうど掲示の開始時刻直前だったので、真っ暗なスペースに入る。ほとんど何も見えない。おっかなびっくりで進む。少しずつ目が慣れてベンチがあることがわかった。空いているところ座ったらタイミング良く始まった。
映像には一人は作家(高川)自身、もう一人はFUNIというラッパーが登場した。むむ、苦手な、というか、何も知らないに等しい分野。一生懸命に見てしまった。
FUNIは高川を励まし、ラップについて語る。高川は昔書いた日記をラップにしてみようとする。それを聞いたFUNIは、自分もまた日記を書いていたことがあってそれが次第にラップのためのメモのようなものになってきたことを作家に示し、さらに高川を励ます。高川はある哲学者が行っているワークショップのような集まりに参加して、参加者全員に自分の日記を読んでもらって感想や意見を言ってもらう。その過程で、自分の日記をラップにできる、ラップにしてよい、という確信を得て、FUNIにラップのテクニックの教えを乞う。と、そういう筋立てである。FUNIからの具体的な指導を受けて高川が上達するのが私にも分かる。FUNIの指導は合理的に段階を追って順になされていた。高川も嬉しそうだった。かなり長い映像だが(52分)、興味深く見た。
次に見たのは工藤晴香《あなたの見ている風景を私は見ることはできない。私の見ている風景をあなたは見ることができない。》。
最初の小ぶりなスペース。床面から浮かせて水平に置かれた円形の鏡に三つの折り紙の舟が置かれている(全体が顔にも見える)。壁に地図を手書きしたものや湖を描いた絵、鉛筆で真っ黒く塗りつぶされた紙片。
次の大きなスペース。半透明の極めて薄手の白い布がカーテンのように吊るされて横切っている。上から見れば「S」の形になっているだろう。床との間には隙間がある。“カーテン”の裏表にはそれぞれ年表らしきがグレイの各ゴチック体で印字されている。極めて薄い布地なので裏側に印字された文字群も左右反転してうっすらと見えている。読めば、「優生思想」や「優生保護法」をめぐる年表である。政治や行政の年表が表側に、裏側には当事者たちの運動の年表が印字されている。全部読んでみたが、帰宅してしばらく経った今、もうほぼ忘れてしまっている(悲しい)。“カーテン”の下方に一組のスニーカーが置かれており、気がつくと壁際や“カーテン”で囲まれた中央部にソファーやテーブル、ぬいぐるみ、コカコーラのペットボトル、スニーカーなどが配されている。上方に白いTシャツが広げられて吊るされている。周囲の壁には、油絵らしき肖像画が二点、古そうな新聞の小さな切り抜き、小さな用紙にペン書きでメモされた言葉が横に等間隔で多数留められている。これらのメモも今、ほぼ忘れてしまっているが(悲しい)、目が見えない人のだろうか、障害のあるらしき「一也」、彼をめぐる介助者らしき人のメモのような印象だった。さらに、モニタに動画。これらから、どうやら相模原市の障害者施設で起きた大量殺傷事件から展開した作品か、と見当をつけた。事件そのものを扱うというより、事件をきっかけに作家が行った相模湖や優生思想、水路や当事者などについてのリサーチの報告、といった印象である。中ではやはり”年表”に見応えがあった。
モニタの映像は、作家が自ら相模湖からガラスの容器に水を汲み、横浜あたりの運河(?あるいは海?)まで歩いてその水を流し、その場所の小さな草を二本抜いて容器に詰め、もう一度相模湖へ向かう、というものである。私はそこまでは意地で見たが、きっとこれは相模湖のほとりにこの植物を植えるのだろうと見当をつけて、途中でモニタの前から離れた。私が見た映像では相模湖から横浜あたりまで歩き続け、また戻りはじめたかのような作家の姿だだったが、実際は歩き通していないのではないか。影のでき方に変化がなさすぎる。ま、相模湖から横浜まで、往復全部を実際に歩かなくてもいいわけだが、、、。