立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
岡山県立美術館「藤原和通 そこにある音」展を見た その2
2024-10-28
「Chapter 2 パーレにて」
この章ではイタリア時代の藤原氏の活動を「リキアーミ」を中心に紹介している。
さまざまな事情があったにしろ、結果的に藤原氏は「パリ青年ビエンナーレ」と「ベニスビエンナーレ」という“晴れ舞台”で構想していた巨大な「音具」を実現できなかった。立て続けのことで、しかも多くの人々を巻き込んでのことだから責任も生じただろう。当時の藤原氏の心中は想像するに余りある。
結局、そのままイタリア各地を転々としながら、やがて北イタリア山中(アルプス)の寒村パーレに落ち着き、バイオリンの弓を作りながら1988年までそこで暮らした。
この章ではイタリア時代の藤原氏の活動を「リキアーミ」を中心に紹介している。
さまざまな事情があったにしろ、結果的に藤原氏は「パリ青年ビエンナーレ」と「ベニスビエンナーレ」という“晴れ舞台”で構想していた巨大な「音具」を実現できなかった。立て続けのことで、しかも多くの人々を巻き込んでのことだから責任も生じただろう。当時の藤原氏の心中は想像するに余りある。
結局、そのままイタリア各地を転々としながら、やがて北イタリア山中(アルプス)の寒村パーレに落ち着き、バイオリンの弓を作りながら1988年までそこで暮らした。
岡山県立美術館「藤原和通 そこにある音」展を見た その1
2024-10-24
10月13日、日帰りで表記の展覧会に行ってきた。どうしても見ておきたかったのである。
藤原和通(ふじわらかずみち)氏は、「音楽」と「音」を、言うならば“命懸け”で追求した人だ。また、生涯、キノコに深い関心を寄せつづけた人でもあった。サービス精神が旺盛な人でもあった。1944年倉敷市に生まれ、2020年横浜市で亡くなった。
藤原氏の晩年、私は、何度か藤原氏の仕事場で話を伺う機会を得て、その仕事ぶりと人柄に魅了された。私は、この藤原和通という人を、「天才」だ、と確信しており、直接何度もお話を伺えた幸運を感謝している。
藤原氏が亡くなったことは長く藤原氏のアシスタントを務めた新江和美氏からの電話で知った。ともかく遺品が散逸しないようにアドバイスするのが精一杯だった。新江氏は厄介な事柄をひとつずつクリアして、新江氏自身が藤原氏の作品や各種資料を所蔵するかたちでそれらの散逸を防ぎ、現在もそれらの保管と整理・研究にあたっている(はずである)。その新江氏が今回の展覧会に全面的に協力した、と聞いた。新江氏と私とはちょっとした行き違いから、行き来がなくなって久しい。やむを得ないことと思っている。
担当学芸員の洪性孝(ホン ソンヒョ)氏とは一度下諏訪の松澤宥邸でお目にかかっていた。
この「藤原和通 そこにある音」展は素晴らしい。岡山県立美術館は、岡山県出身の藤原氏の活動を紹介するはじめての機会であることを充分に“自覚”して、藤原氏の活動の時系列に沿って「Prologue」と四つの章で構成しており、展示も勘所を外していない。実に見応えがある。とはいえ、必要だったと思われるデモンストレーションや観客の“体験”づくり、といった要素には課題も見えた。
「Prologue 音楽家・藤原和通」
水平の台の上に写真や資料を並べ、透明な板で作った箱状のカバーを台に被せている。反射で見づらいが、驚くべき展示である。藤原氏はよくこうしたものを手元に残していたものだ。
まず写真三点。
一点目、松の並木を背に、並んでしゃがむ小学生たちの前にすっくと立つ小学生・藤原少年の写真。
二点目、中学校のグラウンドでトロンボーンを吹く藤原少年の写真。
三点目については長くなる。
中学でトロンボーンを吹いていた少年が、倉敷青陵高校合唱部で音楽の先生から音楽室の鍵を預けられるほど信頼を受け、出入り自由、心ゆくまで音楽に浸り、やがて音楽家になる夢を抱いた。未確認情報ながら、京都大学法学部に合格するも夢断ち難く中退。大阪で学習塾をやっていたお姉さんを手伝ってお金を貯めて、オペラを作りたい、と上京した。その足で、当時、桐朋学園大学音楽学部教授もしていた作曲家・石井歓氏を大学に訪ねた。石井氏は合唱曲を多く作っていた。弟子にしてください、と頼み込んで、簡単な試験のあと弟子入りを許された。ふつうなら入試を経て大学で教わるだろう、と尋ねると、無駄を省きたかった、とこともなげに言った。このあたり、「天才」の片鱗が顔を覗かせている。
ただちに東京駅そばにあった中古楽器屋でピアノを買い、石井氏の諸々のことを手伝いながら懸命に学んだらしい。セリーの技法を身につけ、当時の超売れっ子の作曲家=宮川泰氏のまるでラクガキのような走り書きの楽譜の清書をはじめとするアルバイトなどにも精を出し、“むっちゃ”忙しくしているうちに沸々と疑問が湧いてきた。「音楽」は「音」で成り立っているのに「音」のことを何も知らない、自分の関心はどうやら「音」にあるようだ、「音」を追求したい、、、と石井氏の元を去った。とはいえ、そう単純でもないかもしれない。石井氏は、1966年に開設された愛知県立芸術大学に教授、音楽学部長として赴任したので、東京と名古屋との二拠点での生活になったのである。また、あのハチャトリアンのもとに留学した、という話もある。いずれも未確認情報である。
石井氏のもとを去って、このあたりが「天才」の面目躍如なのだが、なんと、奈良県の奥吉野に移り住む。雇ってください、と訪ねた先はなんでもあの川喜田半泥子の実家というか直系の家柄だった。体つきを見られて即座に、あんたにはムリ! と断られたが粘り、雇ってもらった。懸命に働いて、一年後には班長を任されるまでになった。班長だった時は、川で丸太を運ぶ仕事などをやっていたという。(ちなみに、あの熊谷守一も岐阜で同じような仕事をしていた時期があったはずである。)
と、ここまで来て、やっと三枚目の写真のことである。奥吉野の山を背景に三人、その中の一人として特徴的な樵(きこり)の帽子を被った藤原青年が写っている。
これら三枚の写真の横にはさらに驚くべき資料が置かれていた。
まず、見開きで置かれた「劇団新人会広報誌『新人会』1969」という印刷物。「『人斬り以蔵異聞』三幕」とあって、俳優陣、スタッフ陣の名前の並びの中に「音楽:藤原和通」と確認できる。その下に台本が置かれている。藤原氏はれっきとしたプロ劇団の芝居の音楽を作っていたのだ。
藤原和通(ふじわらかずみち)氏は、「音楽」と「音」を、言うならば“命懸け”で追求した人だ。また、生涯、キノコに深い関心を寄せつづけた人でもあった。サービス精神が旺盛な人でもあった。1944年倉敷市に生まれ、2020年横浜市で亡くなった。
藤原氏の晩年、私は、何度か藤原氏の仕事場で話を伺う機会を得て、その仕事ぶりと人柄に魅了された。私は、この藤原和通という人を、「天才」だ、と確信しており、直接何度もお話を伺えた幸運を感謝している。
藤原氏が亡くなったことは長く藤原氏のアシスタントを務めた新江和美氏からの電話で知った。ともかく遺品が散逸しないようにアドバイスするのが精一杯だった。新江氏は厄介な事柄をひとつずつクリアして、新江氏自身が藤原氏の作品や各種資料を所蔵するかたちでそれらの散逸を防ぎ、現在もそれらの保管と整理・研究にあたっている(はずである)。その新江氏が今回の展覧会に全面的に協力した、と聞いた。新江氏と私とはちょっとした行き違いから、行き来がなくなって久しい。やむを得ないことと思っている。
担当学芸員の洪性孝(ホン ソンヒョ)氏とは一度下諏訪の松澤宥邸でお目にかかっていた。
この「藤原和通 そこにある音」展は素晴らしい。岡山県立美術館は、岡山県出身の藤原氏の活動を紹介するはじめての機会であることを充分に“自覚”して、藤原氏の活動の時系列に沿って「Prologue」と四つの章で構成しており、展示も勘所を外していない。実に見応えがある。とはいえ、必要だったと思われるデモンストレーションや観客の“体験”づくり、といった要素には課題も見えた。
「Prologue 音楽家・藤原和通」
水平の台の上に写真や資料を並べ、透明な板で作った箱状のカバーを台に被せている。反射で見づらいが、驚くべき展示である。藤原氏はよくこうしたものを手元に残していたものだ。
まず写真三点。
一点目、松の並木を背に、並んでしゃがむ小学生たちの前にすっくと立つ小学生・藤原少年の写真。
二点目、中学校のグラウンドでトロンボーンを吹く藤原少年の写真。
三点目については長くなる。
中学でトロンボーンを吹いていた少年が、倉敷青陵高校合唱部で音楽の先生から音楽室の鍵を預けられるほど信頼を受け、出入り自由、心ゆくまで音楽に浸り、やがて音楽家になる夢を抱いた。未確認情報ながら、京都大学法学部に合格するも夢断ち難く中退。大阪で学習塾をやっていたお姉さんを手伝ってお金を貯めて、オペラを作りたい、と上京した。その足で、当時、桐朋学園大学音楽学部教授もしていた作曲家・石井歓氏を大学に訪ねた。石井氏は合唱曲を多く作っていた。弟子にしてください、と頼み込んで、簡単な試験のあと弟子入りを許された。ふつうなら入試を経て大学で教わるだろう、と尋ねると、無駄を省きたかった、とこともなげに言った。このあたり、「天才」の片鱗が顔を覗かせている。
ただちに東京駅そばにあった中古楽器屋でピアノを買い、石井氏の諸々のことを手伝いながら懸命に学んだらしい。セリーの技法を身につけ、当時の超売れっ子の作曲家=宮川泰氏のまるでラクガキのような走り書きの楽譜の清書をはじめとするアルバイトなどにも精を出し、“むっちゃ”忙しくしているうちに沸々と疑問が湧いてきた。「音楽」は「音」で成り立っているのに「音」のことを何も知らない、自分の関心はどうやら「音」にあるようだ、「音」を追求したい、、、と石井氏の元を去った。とはいえ、そう単純でもないかもしれない。石井氏は、1966年に開設された愛知県立芸術大学に教授、音楽学部長として赴任したので、東京と名古屋との二拠点での生活になったのである。また、あのハチャトリアンのもとに留学した、という話もある。いずれも未確認情報である。
石井氏のもとを去って、このあたりが「天才」の面目躍如なのだが、なんと、奈良県の奥吉野に移り住む。雇ってください、と訪ねた先はなんでもあの川喜田半泥子の実家というか直系の家柄だった。体つきを見られて即座に、あんたにはムリ! と断られたが粘り、雇ってもらった。懸命に働いて、一年後には班長を任されるまでになった。班長だった時は、川で丸太を運ぶ仕事などをやっていたという。(ちなみに、あの熊谷守一も岐阜で同じような仕事をしていた時期があったはずである。)
と、ここまで来て、やっと三枚目の写真のことである。奥吉野の山を背景に三人、その中の一人として特徴的な樵(きこり)の帽子を被った藤原青年が写っている。
これら三枚の写真の横にはさらに驚くべき資料が置かれていた。
まず、見開きで置かれた「劇団新人会広報誌『新人会』1969」という印刷物。「『人斬り以蔵異聞』三幕」とあって、俳優陣、スタッフ陣の名前の並びの中に「音楽:藤原和通」と確認できる。その下に台本が置かれている。藤原氏はれっきとしたプロ劇団の芝居の音楽を作っていたのだ。