232 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

長新太の仕事(4)
2015-11-19
そういうわけで、見つからない。吉祥寺・「トムズボックス」に行って、『ちへいせんのみえるところ』を買ってきた。で、検討の結果だが、これは、同じ原画だった。会場に展示されていたものだ。ただし、絵本では、三場面それぞれ“裁ち落とし”の具合と色のニュアンスが僅かに異なっている。前後の関係もあるから、それで違って見えたのではないか。とはいえ、早とちりだった。お詫び申し上げる。すまん!
(2015年8月3日、東京にて)
長新太の仕事(3)
2015-11-13
最終日の8月2日、がまんできず、も一回行ってきた。
ハービー・ハンコックなどのCDが遺品として展示されていたことを先回は見落としていた。長さんは、仕事しながら、ジャズとかフュージョンを聴いていたのだろうか。
それから、たとえば『ちへいせんのみえるところ』(1978年)だ。絵本になったものには、空と平原だけの見開きが、はじめ、中ごろ、おわり、と三場面ある。絵本の中のそれらを見比べると、同じ絵ではなく、なんと僅かな違いがあるようにみえた。え? 長さんは、同じ絵を使い回すのではなく、ほとんど同じ絵を別々に描いていたのではないか。ただし、会場で手に取れる絵本は観客同士の奪い合い、というか、譲り合いだった。独り占めして、このことを丁寧に確認することはかなわなかった。帰宅して、あったはずのその本を探したが行方不明。だから、いま確証があるわけではない。しかし、長さんなら、やるかもしれないな。あした、も一回探して見つからなければ、本屋に行く。
(2015年8月2日、東京にて)

つづく
長新太の仕事(2)
2015-11-10
もうひとつ、今回の展覧会で特筆すべきは、18才だった長さんの戦争体験を描いた漫画作品が展示されていたことだった。私はこれをはじめて見た。
それは、『火の海』というタイトルだった。『子どものころ戦争があった』(あかね書房、1974年)という本で発表されたものらしい。最初のコマに「1945年/4月15日より16日朝までの/東京・蒲田における/空襲の記録」との添え書きがある。漫画の形式を用いてはいるが、ちゃんとした「記録」だ、というところが大事だろう。
空襲の中、お母さんやお父さんとはぐれて、お兄さんと二人で防空壕に入るが、あまりの火の勢いで、ちいさな川のそばに移動し、火が迫ってくるので川に入って熱さを避け、気がつくと朝、そして、お母さんとお父さんとに再会できるまでのことを、客観視して描いている。投下された爆弾の爆発で地面が揺れる、体が浮き上がるほどの衝撃、直後に上から降ってくる土の雨…、一つ一つのコマが伝えてくるものが、驚くほどリアルだ。なんだか、長さんの表現の根っこにあったものを垣間見たようで、大変感動した。こうしたものを、洗練の極みの技で描いているわけである。とはいえ、技を意識させるところは微塵もない。それもまた長さんのすごいところだ。
長さんが、ベトナム反戦のためのイラスト『無題』(1968年頃?)を描いていたことは、「ちひろ美術館・東京」での先の展覧会にもそれが出品されていたから、私も知っていた。これは今回も展示されていた。素晴らしい作品だ。
私の手元には、ただただ長さんの仕事が好きだから、という理由で、古本屋で見つけては、つい買い求めてきた長さんの資料群がたまっている。とても人に自慢できるようなものではない。が、その中にふたつ、『週刊アンポ』11号(1970年)と絵本『へんですねえへんですねえ』(絵・長新太、文・今井祥智、構成・田島征三、1972年)。このふたつは、資料群の中でもとりわけ大切にしてきた。
『週刊アンポ』は小田実の発行。創刊号の表紙を粟津潔、第2号は横尾忠則、第3号は…、というようにそうそうたる人々が描いている。11号では長さんが表紙を描いた。素晴らしい表紙だ。
『へんですねえへんですねえ』は「ベトナムの子供を支援する会」の発行。長さんはイラストを描いている。おそらくは、長さんはスミ一色で描いたイラストで参加し、それらのレイアウトや色指定を田島征三氏がおこなって冊子としたものだろう。この冊子の売り上げの60パーセント、当時定価が一冊200円だから120円を、ベトナムの子供たちにポータブル・レントゲンをはじめとする医療機材をおくるために使う、とある。いわゆる北爆で“ボール爆弾”がたえず投下され、多くの子供たちを殺傷していた頃のことだ。ベトナムの子供たちが、かつての自分と同じような恐怖のさなかにあることに、長さんもじっとしていられなかったのだろう。
これらは、漫画に描かれたような長さんの空襲体験が、素直に作品に繋がった例だと思う。ゆえに反戦の意思を“直接的に”表明したのだろう。漫画作品の発表はこれらより遅い1974年。自らの戦争体験を作品に描くには、多くの時間を要した、ということだと思う。
そんなわけで、こんなことを感じるようになった。
長さんの絵本の仕事やイラストの仕事には、実は長さんの戦争体験が随所に姿を変えて現れ出ているのではないか。
今回の展覧会を訪れたことの大きな成果だと思う。
長さんの「ナンセンス」と、第一次世界大戦後のダダとの共通点を想起するのは、あながち見当違いでもあるまい。長さんは、既存の秩序というものを信用していないのである。それが「ナンセンス」とか「ユーモア」としてあらわれているのではないか。ありふれた画材をこだわらず使用し、かならず原画を描いたのも、同じことではないか。
作品にたびたび巨大なものが登場することも、恐怖に目を凝らした時のものの見え方を思い起こさせられる。そんな瞬時には、ものが大きく、そして細部までしっかり見えているではないか。
繰り返し描かれる地平線のある野原や水平線のある海、これらと、空襲後の東京の焼け野原を目にした体験とは、どこかで繋がってはいまいか。
長新太の仕事(1)
2015-11-04
東京・上井草の「ちひろ美術館・東京」で『長新太の脳内地図』展をみた。どこだったかでチラシを見つけて、絶対に見たい、と思ってきた展覧会だったが、例によって会期終了間際になってしまった。
絵本に関心のある人なら誰でも長新太(ちょう・しんた、1927年〜2005年)の仕事を知っている。その影響は計り知れない。その証拠に、私ですら、思わず親しげに「長さん」と呼んでしまっている。昔、古くからの知り合いで、やがて絵本作家になった山崎克己氏が、「長さんの絵を買っちゃった」と言ったとき、どれだけ氏をシットしたことだろう。
以前、新宿・曙橋で信号待ちしている時に、となりに長さんが立っていたことがある。あ、長さんだ、と思って、すごくドキドキした。でも、あれは、一瞬の幻覚だったかもしれない。じろじろ確認できるわけがなかったし、もちろん、話しかけたりできなかった。あたりまえだが、こっそり、あとをつけたりもしなかった。
「ちひろ美術館・東京」では、長さんが亡くなったあと、時間をおかず、2006年に長さんの充実した展覧会を開いた。たしか、長さんの仕事場を再現したコーナーも設けられていた。書棚全部の実物大写真の前に仕事机などの現物。長さんの仕事場の様子は、雑誌などで知ってはいても、亡くなったあとでは、やはり感慨があった。そのことはよく覚えているけど、他の細かいことをもう忘れてしまった。あの時は、絵本と取り組む前の長さんが、比較的詳しく紹介されていたことをおぼえている。貴重な展示だった。その後、2013年にも『ずっと長さんとともに』という展覧会をやったと思う。が、これは見ることができなかった。いまでも残念だ。
今回の展覧会では、最初のアイディアを書き留めるために使っていた手帖の実物が三册紹介されていて、興味深く見ることができた。
長さんの手帖のことを最初に紹介したのは、長さんの没後に小さな特集を組んだ『芸術新潮』誌だったと思う。その記事では、出版社などからもらったスケジュール管理のためのありふれた手帖に、日々アイディア・スケッチを描き込んでいたことにふれ、その見開き写真を小さく載せていた。私はそれをカラーコピーして自分の手帖に貼った。

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