118 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

キンビで見た「児童画」その2
2019-11-20
 「ああいう絵」とか“パターン”とか“あんな風”と書いたが、それは具体的に言うと、例えば動物を描くのなら毛筋の一本一本を丁寧に、建物を描くなら瓦の一枚一枚や柱の木目を丁寧に、というような感じ。結果、形状が多少歪んでしまっても気にしない、というか。当時の私には、ああいう絵の良さが分からなかった。
 なのに、いつ頃からか、その“良さ”というか、“面白さ”というか、そういうものを理解できるようになっていたのである。いつ、何がきっかけだったか、具体的には思い出せないが、やはり予備校や大学などでの絵の「学習」を通じてのことだったのではないだろうか。
 動物には毛がたくさん生えているし、建物には屋根に瓦がたくさん並んでいて柱や梁や床板には木目や節がある。それに着目すれば、描かずにいられない気持ちも理解できるわけだ。めんどくさくても描き切るぞ、と頑張る気持ちも理解できる。そして頑張れば、出来上がってくる形状が多少歪んでしまっても画面が“迫力”を持って立ち上がってくる。それは作者には面白いはずだ。だから絵をみる私(たち)も面白いのだ。
 しかし、あくまでも、毛に着目した場合や瓦の並びや柱や梁や床板の木目に着目した場合である。動物には毛だけがあるのではないし、建物だって瓦や木目だけがあるのではない。そんなことは当たり前のことだ。
 何をどう描いてもいいのだ。
 いいはずなのに、ここに並んでいる絵からは、何か強い抑圧のようなものを感じさせられる。大人の価値観の反映のようなものが見て取れるのだ。「教育」の成果、というか。
 本当に「児童」が自分から描いたの? 描かされたの?
 戦後すぐの時期に「児童美術教育」というものが隆盛したことは私も知っている。戦前には山本鼎の「自由画教育」というのもあった(らしい)。それまでは、「臨画」、「臨写」が図画の学習内容だったという。橋本雅邦が描いたお手本の絵を文部省の役人が“形がおかしい”と修正したあとの写真図版を何かの本で見てびっくりしたことがある。透視図的におかしい、ということなのだ。ということは、絵もまた西洋文明移入の一つだったということだろう。当時は「画学」と呼んでいたはずだ。
キンビで見た「児童画」 その1
2019-11-20
11月3日(文化の日)はキンビ(東京国立近代美術館)など国立の美術館・博物館が無料になる、というので、しめしめと、竹橋のキンビに行って開催中の企画展『窓展』や鏑木清方の特別展も含む全ての展示を見て、その感想を苦労して書いた(打った)のだが、「保存」を忘れた。当然、全文消えてしまった。
 もう一度書けば(打てば)いいのだろうが、何を書いたか、もう思い出せない。でも、常設展の一部でいわゆる「児童画」が展示されていたことは強く印象に残っていて、もう一度常設展の「児童画」だけでも時間をかけて丁寧に見たい、と思っていた。
 で、行ったぞ、キンビ。そうしたら、65歳以上は無料、というのでびっくりした。恥ずかしいような気もしたが、自動車の運転免許証を示して無料で入場した。
 「児童画」の展示は3階のフロア。戦争画の部屋の次の部屋の一角に、北川民次の絵や各種資料とともに展示されている。
 キンビと「児童画」というのが意外で、そして素晴らしい。思ってもいなかったキンビのフトコロ、その深さを感じさせてくれる。いつも悪口ばかり書いてごめんなさい。
 と、思ったのだったが、「資料」として「保存」されている、と説明文があった。「作品」ではなくて「資料」? 「収蔵」ではなくて「保存」? と、ちょっとフクザツな気分に陥った。
 でもいいの。「資料」であろうが、「美術品」であろうが。「保存」されてきていて、こうして公開されているんだから。このこと自体がすごい。これからもずっと「保存」し、他の「資料」も公開してほしい。
 キャプションにはこうあった。「日本の児童画/1954—67 昭和29—42年/鉛筆、オイルパステル、水彩、その他・紙/日本放送協会寄贈」。
 展示されていたのは、四つ切りほどの大きさの画用紙に横位置で描かれた児童の絵が、縦に5枚ずつ、横に6列びっしり、計30点。作者や学年などの情報は一切ない。ないが、それぞれすごい密度で迫って来る。
 とはいえ、既視感がある(昔の「児童画」だから既に情報化されつくしていて、既視感は当たり前といえば当たり前だが)。私は、小学生くらいの頃の教科書に載っていた絵や、田舎の街の展覧会などで金紙や銀紙が貼られていた絵(賞を得た絵)の“パターン”を思い出していた。正直に書くが、小学生の私は、どうしてああいう絵が教科書に載ったりコンクールで賞をもらったりするのか、つまりは、なぜ“良い絵”として褒められるのか、全く理解できなかった。小学生の私には、ものや世界は“あんな風”には見えなかったのである。だから、私は、ああいう絵を描いたことがない。(コンスタブルやロイスダールとかが描く絵なら、ああ確かにこんな感じ、と思えたのだったが、当然、私にそのような絵が描けるはずはなかった。)
つづく→
「DECODE:出来事と記録」展 その2
2019-11-01
まず、金村修氏の作品に迎えられた。完全に“想定外”。どこか野外の過酷なところにあらかじめ展示されていたような印象の、ダメージだらけの写真群。それと映像作品である。
 写真は壁と床に展示されている。壁には脱色してしまって像がほとんど消えている風景写真が整然とピンで留められている。床には黒々としたシミや汚れが共存している風景写真がよれよれになって重ねられて重しで押さえられている。私の知っている金村氏の写真とは随分印象が違う。
 ビデオ撮影による映像は壁への二つのプロジェクション。少し間をあけて同じ大きさで横に並んで映写されている。片方からはノイズ様の音も出ている。二つで一つの作品なのか一つずつの作品なのか判然としなかったが、私は一つずつ順番に見た。二つ同時にも見た。
 長いカットと目まぐるしく切り刻まれたカットが交互に出てくる。モニタの映像をさらにビデオ撮影したようなカットが、看板やポスターを入れ込んだ金村氏の写真作品を連想させる。雨や風のカットが多く登場し、近頃の台風被害を予言しているかのようにも見えてくる。金村氏の映像作品を始めて見た。私は金村氏の写真が好きで、比較的見てきたほうだと思う。家のどこかに金村氏が書いたほんもあるはずだが今見つけることができない。それには、背中に太陽の光を受けるようにしてどんどん歩いて撮影していく、というようなくだりがあって、そこに痺れたものだ。今回の映像も私は好きだ。壁と床の多数のダメージ写真は正直ビミョウ。近年はこういう仕事ぶりなのだろうか。
 次の部屋に映像版『位相—大地』のプロジェクション。『位相—大地』の制作過程を写した写真の複写を7分に構成したものだ。おう! これを見たかったのだ。先のカタログの図版で知っていたたくさんの写真に、さらに何枚も加わっていて興味が尽きない。が、このプロジェクションでも“ハリボテ説”の証拠となるものは見つけることができなかった。
 大きなガラスケースには関根氏の実に多くの資料類。これも実に見応えがある。手稿、スケッチ、マケット、案内状、ポスター、パンフレット、カタログ、著書、郵便物、写真などなど。環境美術研究所の多くの資料もあって、まさに関根氏の活動の全貌を示す貴重な一次資料と言える。実に見応えがある。
 他に、同時代の作家たちの作品や、彼らの作品を撮影した写真(安斎重男、中嶋興などによる)を映像化したプロジェクションなどで手際よく構成されていた。
「DECODE:出来事と記録」展 その1
2019-11-01
越中富山のマンキンタン、鼻くそ丸めてセンキンタン、と、タマキン・ロビーで急に思い出したのだった。今日は天気もよかったし、表記の展覧会を見るためにタマキンに行ってきたのだ。会期末が近付いてしまっていたので、焦って行った。
 私どものようなツウになると、埼玉県立近代美術館はタマキンと呼ぶのである。ちなみに、鎌倉にあった神奈川県立美術館はカマキンと呼んできたが、本体が葉山に移っちゃったので、親しみある新しい呼び名をまだ確定できていない。ハヤキン、あるいはヤマキンあたりではどうだろうか。うーん。
 で、この「DECODE」展だが、今年亡くなってしまった関根伸夫氏が生前タマキンに寄贈していた氏の資料群が出るというので見逃せないと思ったのだった。特に、『位相—大地』(1968年)については、確認しておきたいことがあった。  
 それにはこういうわけがある。
 今年の春、あるところで、『位相—大地』はハリボテだった、という衝撃情報を含む文がある人の署名入りで公開されたのである。ハ、ハリボテ? 私はその文にその現場で接して、めまいさえ感じた。なので、私の見間違いではないか、と別の日にもう一度確認しにその文の前に出かけたくらいだった。入場料も払って。
 今や「もの派」の始まりとかいって、もう伝説的な『位相—大地』の“筒”の内部が空洞だとしたら、受け止め方が全く違ってくる。ほんとにハリボテだったの? 間違いないの?
 で、私は私なりにヒトに尋ねたり調べたりして、西宮市の大谷記念美術館で1996年に行われた『位相—大地の考古学』という展覧会に行き着いた。美術館に電話してそのカタログの在庫があることを確かめて取り寄せ、そこに収録されていた制作過程の多くの写真の図版を見た。なんども見たが、“筒”の内部に空洞を作るための仕掛けがあるような様子は確認できなかった。「確認できなかった」ということが確認できたにとどまったわけである。ただし、掘り出した土にセメントを混ぜ込んで水をかけながら型枠の中に積み上げて踏み固めていった、とはあった。が、土を固めていくというその工夫があったことと、ハリボテであることとは全く違うことである。
 『位相—大地』は、1970年の万博を始め、その後何度も再現されている。私も、2008年横浜の方の野外展で再現された『位相—大地』を見たことがある。ちょうど関根さんもいたので、家人に記念撮影してもらった。とっても嬉しかった。ボケボケだがここに掲載してもらおう。関根さんだ。
 あの時のように、「再現」の場合なら、作り方にいっそうの合理的な工夫があってもおかしくはない、と私は思う。重機も使うだろうし、型枠も立派なものを使うだろう。安全上の観点からすれば、ハリボテ状の構造を“筒”の内部に仕組むことだってあったかもしれない。土を固める方法さえ、セメントから“進化”している可能性もある。アメリカには恒久設置の『位相—大地』があるようなのだ。
 しかし、1968年の最初のものは違うだろう。それまでこの世にあんな作品はなかったのだ。件の写真図版をどう見ても、人力で穴を掘り、垂木とベニヤ板と荒縄で型枠を作って、掘り出した土を積み上げて作っている。なんらかの構造物が内部に作られている様子は確認できない。故吉田克朗氏や小清水漸氏など、須磨離宮公園での制作に関係した人たちの手記にもハリボテのことは出てこない。
 この「DECODE」展の会期中には、制作を手伝った“生き残り”=小清水漸氏がトークする日が設けられていたので、氏に直接尋ねてみたかったが、あいにくその日はタマキンに行けなかったのだ。
 そんなこんながあって、タマキンに出かけたわけである。「DECODE」展はとても面白かった。
→つづく

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