立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
正木さんが送ってくれた榎倉さんの資料群
2022-11-28
正木基(まさきもとい)さん。もと目黒区美術館の学芸員で、『文化資源としての〈炭鉱〉展』(2009年)など大事な仕事を多数積み重ねた人である。
2011年、目黒区美術館での開催のために正木さんが精魂込めて準備した『原爆を視る 1945ー1970』展は、同年3月11日の東日本大震災や福島第一原子力発電所の事故が理由になって、開催そのものが中止になってしまった。彼はもちろん、関係者、さらに展覧会を待ち侘びていた人々だけでなく、この国の人々にとって、まことに残念なことであった(中止に至る経緯は、例えば倉林靖『震災とアート』(ブックエンド、2013年)の「第6回」の中の「幻の展覧会「原爆を視る」に詳しく書かれている)。
私はこの正木さんと1983年の夏の終わりに札幌で知りあった。
1982年夏から84年夏まで、私は訳あって帯広市の実家で“家業”を手伝いながら作品を作っていたのだが、1983年夏、川俣正氏が札幌で「テトラハウス・プロジェクト」というのをやっていることを新聞で知った。ちょうど私も札幌で作品発表があったので、合間にその「テトラハウス」を見物に行った。正木さんは、「テトラハウス・プロジェクト」の仕掛け人だったのである。だから、「テトラハウス」でごく自然に知り合った。でも、その話は省略する。当時、正木さんは開館して間もない北海道立近代美術館の学芸員だった。
その後、正木さんは札幌から東京に戻って(彼はもともと東京の人)、目黒区美術館開設準備室に勤務し、やがて1987年に開館した目黒区美術館を根城に怒涛の大活躍を始めた。これぞ! という時には、美術館に泊まり込むまでして時間を惜しんで仕事に集中していたようである。私も1984年秋から再び東京での生活を始めていたので、画廊などで時々顔を合わせることになって今に至っている(正木さんは定年まで目黒区美術館で勤め上げ、今はフリーで活動している)。
“前フリ”が長くなった。
その正木さんが、先日、ズッシーンと大きな重たい段ボール箱を拙宅宛に送ってくれた。もちろん重いのは箱ではなく箱の中身。私が取り組んできたある調査に役立つかもしれないからこしばらくお貸しする、と正木さんは言うのだった。
箱に入っていたのは、1995年に急逝した榎倉康二さんに関する資料群で、頑丈な分厚いファイルが7冊! 正木さんは、1989年に榎倉さんの初めての作品集=『榎倉康二作品集 KOJI ENOKURA 1969-1989』博進堂)を編集し論考も執筆したので、その時に集めた資料群とのことである。
感謝したとともに恐縮した。これだけのものを集めるにはベラボーな手間と時間とを要したに違いない。早速、ファイルの中身をざっと眺めてみて、私は身がすくむ思いがした。実に整然と整理されているのだ。
なるほど、これはプロの仕業である。
資料はこうやって整理するものなのか、と恐れおののいて、今、少しずつ中を見ているところである。
正木さんが想定したように、“正木ファイル”を繙きながらで、私は、私の調査で今まで見逃してきたいくつかのことに気づくことになった。が、ここではそのことにも触れない。ファイルされた資料群を読みながら、考えたり思い出した榎倉さんのことを書いてみたい。
2011年、目黒区美術館での開催のために正木さんが精魂込めて準備した『原爆を視る 1945ー1970』展は、同年3月11日の東日本大震災や福島第一原子力発電所の事故が理由になって、開催そのものが中止になってしまった。彼はもちろん、関係者、さらに展覧会を待ち侘びていた人々だけでなく、この国の人々にとって、まことに残念なことであった(中止に至る経緯は、例えば倉林靖『震災とアート』(ブックエンド、2013年)の「第6回」の中の「幻の展覧会「原爆を視る」に詳しく書かれている)。
私はこの正木さんと1983年の夏の終わりに札幌で知りあった。
1982年夏から84年夏まで、私は訳あって帯広市の実家で“家業”を手伝いながら作品を作っていたのだが、1983年夏、川俣正氏が札幌で「テトラハウス・プロジェクト」というのをやっていることを新聞で知った。ちょうど私も札幌で作品発表があったので、合間にその「テトラハウス」を見物に行った。正木さんは、「テトラハウス・プロジェクト」の仕掛け人だったのである。だから、「テトラハウス」でごく自然に知り合った。でも、その話は省略する。当時、正木さんは開館して間もない北海道立近代美術館の学芸員だった。
その後、正木さんは札幌から東京に戻って(彼はもともと東京の人)、目黒区美術館開設準備室に勤務し、やがて1987年に開館した目黒区美術館を根城に怒涛の大活躍を始めた。これぞ! という時には、美術館に泊まり込むまでして時間を惜しんで仕事に集中していたようである。私も1984年秋から再び東京での生活を始めていたので、画廊などで時々顔を合わせることになって今に至っている(正木さんは定年まで目黒区美術館で勤め上げ、今はフリーで活動している)。
“前フリ”が長くなった。
その正木さんが、先日、ズッシーンと大きな重たい段ボール箱を拙宅宛に送ってくれた。もちろん重いのは箱ではなく箱の中身。私が取り組んできたある調査に役立つかもしれないからこしばらくお貸しする、と正木さんは言うのだった。
箱に入っていたのは、1995年に急逝した榎倉康二さんに関する資料群で、頑丈な分厚いファイルが7冊! 正木さんは、1989年に榎倉さんの初めての作品集=『榎倉康二作品集 KOJI ENOKURA 1969-1989』博進堂)を編集し論考も執筆したので、その時に集めた資料群とのことである。
感謝したとともに恐縮した。これだけのものを集めるにはベラボーな手間と時間とを要したに違いない。早速、ファイルの中身をざっと眺めてみて、私は身がすくむ思いがした。実に整然と整理されているのだ。
なるほど、これはプロの仕業である。
資料はこうやって整理するものなのか、と恐れおののいて、今、少しずつ中を見ているところである。
正木さんが想定したように、“正木ファイル”を繙きながらで、私は、私の調査で今まで見逃してきたいくつかのことに気づくことになった。が、ここではそのことにも触れない。ファイルされた資料群を読みながら、考えたり思い出した榎倉さんのことを書いてみたい。