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藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

「北川民次展 メキシコから日本へ」を見た
2024-11-07
 北川民次といえば、図画工作や美術の教科書でなぜかおなじみだった。岩波新書『絵を描く子供たち』の背表紙でもその名はずっと知っていたが、全貌を知らなかった。

 快晴の日曜日(文化の日)、田園都市線・用賀駅に降り立ってテクテク歩き出す。
 象設計集団によるあの遊歩道は今も健在で、ほどなく国道に出て砧公園が見える。
 せっかくだから樹々を愛でながら行こう、と信号待ちして国道を渡る。
 公園に入って歩を進めれば、大きなクスやケヤキの堂々とした姿や木漏れ日が嬉しいはずが、奥に複数のテントがしつらえられていて人々が群がっており、拡声器からお姉さんの早口の大きな声がしている。拡声器だから大きな声は当たり前だが、イベントの真っ最中らしい。樹々どころではない。ホーホーのテイで世田谷美術館に逃げ込んだ。

 チケットを買って、会場に入り、一点一点佇んで眺め入り、巡っていけば、ほう、こういう人だったのか、と興味深い。作品と資料、合わせて180点ほどが並んでいる、という。が、途中からなんだか時系列がよく分からなくなる。この人の経歴は複雑なのだ。とりわけ若い頃の移動はめまぐるしい。会場出口に掲げられていた年譜を参考に一度整理しておくことが必要だろう。

 1894年静岡県生まれ。早稲田大学予科を経て、オレゴン州在住の兄を頼って1914年に渡米、しばらく西海岸で過ごすが、1916年シカゴを経てニューヨークに移り住む。働きながらアート・スチューデント・リーグで学び、1920年アメリカ南部へ向かう。1921年キューバに移るが、正体不明の日本人にお金やドローイングなどを入れたトランクを盗まれ、やがてメキシコ市に移る。1922年日本人医師を頼ってコスコマテペックに移る。1923年その医師と共に熱帯地方(ベラクルス州)に赴き、その後ひとりで放浪しながら絵を描き、メキシコ市で個展。1924年国立美術学校で学び三ヶ月で卒業。そこの校長からの推薦でチュルブスコ野外学校の画学生になる。1925年トラルパン野外美術学校の助手になる。1926年トラルパン野外美術学校に用務員として正式に勤務する。1928年国立芸術宮殿ギャラリーで個展。1929年二宮鉄野と結婚。1930年長女誕生。1931年ニューヨークでの「現代メキシコ作家とメキシコ派の作家展」に出品。シケイロスに会う。1932年トラルパン野外美術学校閉校、開校したタスコ野外美術学校に校長として勤務。メキシコを訪れた藤田嗣治との交友(翌年6月まで)。1935年シカゴ美術館内こども美術館で北川指導の子どもたちの「作品展」。国吉康雄、イサム・ノグチがタスコに来訪。1936年タスコ野外美術学校閉校、日本に帰国。

 ここまでが主にメキシコで活動したおおまかな足跡である。会場には1921年作の油絵から展示されている。日本を離れてからメキシコを中心に22年経て帰国だ。続ける、、、。

 1936年帰国後、瀬戸市(妻:鉄野の実家があった)に滞在する。1937年上京、豊島区長崎仲町(現千早町)に住む。二科展に出品、二科会会員。日動画廊で個展。1938年久保貞次郎来訪。1939年「海王丸」で沖縄、トラック諸島を巡る。長男誕生。1940年ニューヨーク近代美術館「メキシコ美術の2000年」展に「タスコの山B」が展示。1941年「コドモ文化会」を久保貞次郎らと設立。1942年絵本『マハウノツボ セトモノ/オハナシ』刊行。1943年二科会の活動停止。瀬戸市安戸に疎開。
 
 ここまでが帰国後東京での活動の足跡だ。戦争、疎開、、、。藤田嗣治とは東京で再会したらしい。藤田1937年作の「北川民次の肖像」が展示されている。ご当人(北川民次)はこれを気に入らなかったようだ。

 1944年瀬戸高等女学校の教員として赴任。1945年終戦。1946年再建二科展。1949年「名古屋動物園児童美術学校」開設。1951年瑞穂区に「北川児童美術学園」開設。
 1955年1月メキシコ再訪。12月にニューヨークへ移動。1956年1月パリに滞在。スペイン、イタリアを経て5月に帰国。1965年以降壁画制作。1968年東春日井郡に移る。1974年妻の鉄野死去。1978年二科会会長。数ヶ月後に辞任、退会。筆を置く。1988年瀬戸市の病院に入院。1989年瀬戸市の病院で死去。

 瀬戸市移住後のことは端折りすぎたかもしれない。

 ともかく、早大予科時代に絵画に関心を持ち、やがて描き始め、日本を飛び出して20年以上を海外で生活と制作と続けて帰国し、戦争を経て、1978年に筆を置くまで、ほぼ休みなく活動したわけで、こんな人はそんなに多くないはずだ。パリではなく、日本→アメリカ→メキシコ→日本、というのも彼の独自性がうかがえる。

 展示は、六つに“章立て”されて、その“章”ごとに時系列で並べられていて、時系列の把握が混乱してくる所以になってしまっている。回顧展であるなら、やはり時系列を大事にしてほしい、と思うのは私だけだろうか。
 ともかく、以下のような構成であった。
 Ⅰ 民衆へのまなざし、
 Ⅱ 壁画と社会、
 Ⅲ 幻想と象徴、
 Ⅳ 都市と機械文明、
 Ⅴ 美術教育と絵本の仕事、
 エピローグ 再びメキシコへ。
 
 会場を巡って、これは大変に器用な人だなあ、との印象が繰り返し押し寄せてきた。
 一見、素朴で親しみやすい土俗的・民衆的な表情をたたえた作品群だが、注意深く見れば、多くの先人(例えばセザンヌ)や同時代人(例えばピカソ、リベラ、藤田嗣治、レジェなど)からかなりの影響を受けている様子が見て取れる。が、それをナマのまま晒すことがない。そこが、“器用さ”を感じさせるところである。影響を受けることを恐れないが、どんな影響もいったん良く“咀嚼”して自分のものにしていく、これがこの人の信条なのだろう。
 そして、色感が独特である。多くは褐色系のグレイを基調にして、そこに白と黒とをアクセントのように配している。青や赤や緑などの原色もまた、褐色系のグレイに準じて彩度を抑え込みながら抑揚を加えて配している。
 結果、破綻がない。かといって、鈍い、というわけではない。色どうしに独特の響き合いがある。後年、黒線で形状を囲い、鮮やかな色彩を用いるようになっても、こうした半調子を確立した時期を経ていることが効いている。

 典型例として、1930年の作という40号ほどの油彩=「トラルバム霊園のお祭り」を見ていこう。
 “大小の遠近法”と“重なりの遠近法”とを主に用い、おおらかな“線遠近法”を加味して地形や建物を巧みに構成して配し、そこに、さまざまな人物や物品を細部に至るまで丁寧に描き上げてある。
 単純化しつつも線的に明快な形状の組み立ては、古典的な風格さえたたえていて、見飽きることがない。

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