114 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

「ダムタイプ」展 その2
2019-12-18
 古橋悌二の遺作という「LOVERS」は、黒いマットな壁に囲まれた部屋の中央の骨組みに無駄なく縦に設置された2台のスライド映写機と5台のビデオプロジェクターから壁へと、極細の縦線や等身大よりやや大きい数名の全裸の男女の映像とが投映される。床面の位置がほぼ共有されるようにされた映像なので、場に統一感が自然に生じている。それら男女の映像は、適度なスローモーションに処理されて、ある時は歩き、ある時は走り、ある時は止まって前を向き、あるときは止まって後ろを向く。横方向での移動を捉えた映像では、はじめわずかに体躯の前面が見え→側面だけが見え→わずかに背面が見える、というように一点に固定して撮影したカメラの位置を強調している。部屋のプロジェクターの位置と撮影時のカメラの位置が同じになるようにしてあるのかもしれない。二つ像が重なるときはそのまま像が重なって前後の関係は生じない。止まって立った人物像は両方の腕を横に大きく広げ、やがて何か(誰か)を抱きとめるようにして止まる。そこに別の人物像がすれ違ったりすることもあれば、重なることもあり、仰向けに倒れて奈落の底へと消えて行くこともある。そうした映像に、二台のスライドプロジェクターから、一本ずつの極細の白い垂直線がそれぞれ横方向に移動していく。壁上の情報をスキャンしているかのようだ。このように黒い壁に投影される映像には、鑑賞者の体の影がさらに映り込んで映像を遮る。エイズによって35歳で亡くなったという古橋悌二の、ある意味では素朴すぎるくらいの、真っ直ぐな、そういう遺作だ。それにしても、黒い壁に人物像があれほど明瞭に投映される仕組みが私には分からない。黒は光を吸収するから黒なのではなかったか? そこになぜ肌の色が写り込むのだろうか? 私は思わずプロジェクターの前に手をかざしてみた。手の影ができてそこの像は欠けた。ということはプロジェクターからの映像以外の要素はないのだった。実に不思議。いいけど。
 
「MEMORANDAM OR VOYAGE」は、素晴らしい。横長の巨大なモニタ(会場で配布していたリストには「4K VIEWING(自発光型 超高精細大型ビジョン)」とある。そのモニタに、鮮明すぎるほどの映像が目まぐるしく現出していく。映像自体が大きくて鮮明で、見飽きることがない。断続的に発せられる音、アルファベットによる文字情報も巧みに動員されている。ここにも水平方向に伸びる細線が垂直方向に移動する。
 2020年代にさしかかろうとしている今、1980年代終わりから90年代半ばくらいの状況ともさらに違って、デジタル世界は信じられない速度で日常生活の中に入り込んでいる。AIの話題も頻出している。そんな状況で、今見ても、ダムタイプがカッコいいのはなぜか? 
 おそらく、絶えず更新され続ける各種電子機器や装置、それを扱う技術、これらを積極的に取り込みつつ、今なお改変を繰り返し続けている、ということではないか(なので、かつてのダムタイプの記録映像が、ブラウン管のモニタで示されていたのは興味深かった)。
 今回の展示においても、アナログとデジタルの垣根をもちろん軽々と行き来し、映像、音響、ダンス、インスタレーション、などの領域も行き来し、混交させて、ダムタイプという“テイスト”を惜しみなく提供している。確かに稀有な集団ではある。個々の活動にも目が離せない。
 と書いたところで、アンナ・カリーナが亡くなったという情報を得た。79歳だったというので、びっくりした。
(2019年12月17日、東京にて)
「ダムタイプ」展 その1
2019-12-18
東京都現代美術館で「ダムタイプ」展をみた。
 昔、ある女子大で非常勤の教員として「基礎造形」という科目を教えていたことがあった。ロックバンドをやっているという学生がいて、センセ、ゴダールの『ワンプラスワン』っていう映画のビデオ持ってる? と言うので、持ってる、と答えると、見せて、と言った。いいけどせっかくだから、と次の授業の後に教室のスクリーンに大きく映そうという事になった。音も大きくして。
 で当日、思いがけない事に、結構多くの学生が授業後も居残って当該ビデオを“鑑賞”し、勢いで次の週も何か映すことになった。
 次の週は、やはりゴダールの『勝手にしやがれ』を映したのだが、終わってから、なんでこんなひどい映画を見せるの? と詰め寄ってくる学生がいた。わけが分からずにいると、だって不良の映画じゃないの、と言うのだった。
 で、次の週は「不良」とは反対側の主人公を扱った押井守の『攻殻機動隊』を持って行った。今度は、かっこいい!とすごくウケた。
 次の週はダムタイプの『p H』を持って行った。そしたら、すっごくかっこいい!とさらにウケた。ウケているのはダムタイプなのに、私までウケたような気がしてまんざらでもなかった。
 そんなわけで、ダムタイプは女子大生にもかっこよかったのである。
 あれから多くの時を経て、ダムタイプは今もかっこいいか? これがこの展覧会の見どころであろう。 
 で、早くも結論だが、今も十分かっこよかった。
 どうかっこいいか? それを説明するのは厄介だ。が、駆け足でやってみよう。
 ともかく、デジタル技術を軽々と使いこなしていること。映像編集はもとより、プロジェクター・照明機器・音響機器など各種の装置の制御、印刷物の版下づくりなどなど、その技は当時の最先端だっただろう。
 そのアナロジーと言ってもよいだろうが、ダムタイプの作品には方形のグリット構造が度々登場し、映像や装置の中にその場をスキャンするかのようなか細い直線が水平/垂直に移動し、コマ切れの電子音が発せられる。つまり、日常のアナログ世界から“飛躍”したデジタル世界を暗示する記号がこの会場の随所にも満ち満ちている。生活感がまったく無くて、かっこよさだけがある、と言ってもいいかもしれない。そこにダンスが加わる。これらの相乗効果。
 だから、今回の展示でも、不要な視覚要素を極端なまでに排除している。例えば、「Playback」をはじめとした現代美術館会場の床を明度の低い敷物で覆いつくし、装置を駆動させるための電気コード類はその敷物間のわずかな隙間にはめ込んで目立たぬようにしてあったりする。あるいは、コード類など“裏側”を覗き込める会場設営の「MEMORANNDUM OR BOYAGE」のような場合でも、その効果がきちんと計算されている。芸が細かいのである。さすが「京都」だ。
 「Playback」では、4×4=16台の装置が等間隔に並んで音を発している。大人の胸ほどの高さの枠におさめられたそれらの同一形状の装置は、確かに“ターンテーブル”ではあるが、そこに乗せられた樹脂製の分厚い円盤(=レコード)、スピーカー、アンプなど、全て特別にデザインされた1セットなので、直角やエッジ、それから隙間が“決まって”いて、それ自体がかっこいい。それが16台。あちこちのスピーカーから様々な音や音声が、途切れ途切れに、ある場合は単発で、ある場合はズレたり、重なって発せられる。そうした音響設定のアイディア自体はありふれたものではあるが、グリットを強調し抜いたその場の様相はある特別な感興を生じさせている。
つづく→

つづく→
目「非常にはっきりとわからない」展 その2
2019-12-04
もう一つの大きな部屋では、赤手袋、黒衣装の若い男性二人が白い大きな仮設壁を移動中であった。一人が私の近くにきたので、トイレはどこですか? と尋ねてみた。ずっと我慢していたのだ。えーっと、エレベーター前のロビーのところにあるはずです。
 ロビーに戻って探してみると、ああ、トイレマークがあった。そこにも養生シートが下がっていたので、さっきは見過ごしたのだ。縁が粘着テープで補強された二枚のシートの隙間から入り込んでトイレに入ると、さすがにトイレには養生などはなされていなかった。“治外法権”というか、落ち着いて用を足せた。
 トイレから出ると、家人から声がかかった。おいで。 
 家人にしたがってさっきの部屋に戻ると、二人の男性が今度はさっきの白い仮設壁をもう一度動かしていた。部屋の表情が大きく変化する。壁の後ろ側から大きな彫刻を梱包したようなものが現れる。白い仮設壁は、裏側を見せて別の場所に固定され、新たな壁が形成される。天井のレールを巧みに使ったその移動の様子は、美術館では仮設壁がどう用いられているか、展示の会場構成はどう行われるか、などを批評的に示している。二人の男性はさらに、梱包された大きな彫刻のようなものや、分厚い合板を積み重ねたものなどを動かしたりする。
 家人がその男性たちに、パフォーマンス? と声をかけた。
 いえ、作業です。
 私も、あなたたちは「目」の人? と声をかけてみた。
 いえ、作業してるだけで、詳しいことはわからないです。
 あの足場の上で横になっている人は「目」の人? いつ起きてくるの?
 詳しいことはわからないんです。
男性たちは、困惑したようなそぶりで次の“作業”のために私たちから離れていった。会場には、もうひと組“作業”に携わっている女性と初老の男性のチームがいて、箱などを動かしていた。これらのことによって、会場の様相が変化していく。天井からの照明が落ちたりもして、大きなぼんぼり状のスタンドの光が際立ったりさえした。“作業”の人たちは、「目」からの“台本”によって“作業”しているのだろうか。足場の上の横たわる人はじっとしたまま動かない。見事である。もしかすると人形かもしれない、とも思うが確認の術がない。呼吸の様子などは垂れ下げてあるシートで見えなくされている。“芸”が細かいのだ。
目「非常にはっきりとわからない」展 その1
2019-12-04
天気の良い暖かな日、総武本線を待っていたら、人身事故でダイヤが大幅に乱れています、という放送。気の毒に、よほどのことだったんだろうな、とかその人(知らない人だが)のことを思っていると、すぐに電車が来て、千葉駅まで座って行けた。
 千葉駅で少し迷ったが、テレビ番組によく出てくるフクロウの交番を見つけて思い出し、あとは難なく千葉市美術館までたどり着けた。
 会場に入ると養生シートであちこちが覆われていて、矢印がチケット売り場を示している。素直に従って、売り場で、大人二枚、と言うと、お姉さんが、絵の展覧会ではありませんが‥、とか言うのである。それでいいんですよ、と言うと、本当にいいんですか? みたいな顔をする。本当にいいんですよ、とチケットを準備してもらっている間、クレームが多いんですか? とたずねると、曖昧な笑みを浮かべながら、浮世絵とかの展示を期待してこられる方がいらして‥、と言うのだった。
 確かに千葉市美術館は鈴木春信の展覧会など素晴らしい展覧会も開催して来た。そうした先入観にとらわれる年寄りほど、絵がないじゃないか! なんなんだこれは! プンプン! などと、そんなトラブルを生じさせるので、きっと、あらかじめ“予防線”をはったのだろう。お姉さんもかわいそうに。同時に、第三者が見る自分の姿に苦笑する。「ミニマルアート」展も、あの「コズス」展も「赤瀬川原平」展もこの美術館が行ってきたのに。
 チケット売り場でのお姉さんの説明が続く。
 このチケットをお示しいただけば、会期中何回も入場していただけます。今日はこれを胸のところなどに貼ってください。貼ってくだされば、何度でも会場の出入りが自由です。1階のこの会場では、どこを歩いていただいても結構ですが、7階8階では、白のテープか黄色と黒との縞のテープで区切られたところが通路ですので、通路以外のところには立ち入らないでください。なるほど。

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