148 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

横浜で昼ご飯を食べた話
2019-02-28
ちょっとバタバタした日が続いていたので、雨の中、家人と横浜美術館をめざして出かけた。久しぶりの横浜。
 電車の中で赤瀬川原平『赤瀬川原平の名画読本』(光文社・カッパブックス)を読んで感心してしまった。マネの「オランピア」とシスレーの「サン・マレス」の項を読んだだけで、みなとみらい駅に着いてしまっていた。ものすごく上手。例えば「オランピア」についてはこんな具合。前段は省略。

 地味ではあるけど、やはりマネの目からはじめて自然の色が出てきた。それまでの長い長いヤニ色の絵画の歴史にプツンと穴が開いて、自然の明るい色が侵入している。そのプツンと開いた穴がマネの目玉であった。
 ところがマネは黒い色が好きである。私にはこのパラドクスが実に面白い。マネの絵をあれこれ見るとわかるが、衣服や背景やその他、黒いものは黒々と塗っている。その黒が美しい。黒い色として気持ちいい。それまでのヤニ色の絵の黒とは違うのである。絵画的風習に逃げ込むような、そういう迎合的な黒とは明らかに違う、むしろ挑戦的な黒い色だ。
 それまでのほとんどの画家が黒をベースとして使いながら、それは黒い色ではなかった。それはテーマ以外をうやむやにするための、それを塗っておけば間違いないという、安全パイとしての黒だった。それが十九世紀、自然の色をはじめて色として見たのだ。そして絵の中に大胆に、積極的に黒い色を塗り込んで行く。印象派を生む自然の明るい色彩世界は、最初に黒い色から始まったという不思議な皮肉。
 マネのキャンバスに塗られる黒はしあわせである。やはり好きで塗られる色というのは生き生きしている。それまでの、仕方なく塗られていた黒の、生きる望みを失ったような表情とは段違いである。
小伝馬町と相模原の松澤宥 その2
2019-02-08
数日後、その中の一つ、JR横浜線・相模原駅から徒歩で約20分のパープルーム・ギャラリーに行ってみた。「パープルーム予備校」という若者たちの集団のことは聞いたことはある。が、その実態は全く知らない。彼らの自主運営ギャラリーであろう。なぜそういうところで松澤宥展が開かれるのか?
 たどり着いたパープルーム・ギャラリーは通りから丸見えで、壁が黄色、インパクトがある。意外なことに数名の先客があって壁や台に展示されている作品に熱心に見入っていた。展示は実にきちんとして、折り目正しい。
 私が中に入ってざっと眺め、さて、と一つひとつ見入ろうとしている時、どうやってこの展覧会を知りましたか? とギャラリーを運営しているらしき若者に尋ねられた。全く知らない爺さんがなぜここに入って来たか、知っておきたいのだろう。

 
小伝馬町と相模原の松澤宥 その1
2019-02-08
 気晴らしのはずが、“ネット・サーフィン”というものについ夢中になってひどく疲れてしまうことがある。面白い情報に出喰わして、とても得をした感じで嬉しくなることもある。
 先日は、小伝馬町で松澤宥(まつざわゆたか)の初期作品や映像資料などの展示をしているという情報をゲットした。
 松澤宥(1922年〜2006年)は、ご存知の通り、文字による文や単語を用い、それを紙や布に手書き(あるいは印字して)示したり、自ら読み上げたりするパフォーマンスをし、その様子を写真などで示したりする作品で内外に知られている。
 その文字による作品は例えば長い白布に、毛筆の手書き、縦書きでこう書かれている。

 人類よ消滅しよう 行こう行こう(ギャティギャティとルビ)反文明委員会

 私は、確か1971年、「毎日現代美術展」会場入り口に下げられたこれを実見しているが、なぜこれが美術なのか? とちんぷんかんぷんであった。以降、
様々な展覧会で氏の作品に出喰わしてきたが、決して氏の作品の熱心な観客とはいえなかった。あ、一度、展覧会で一緒になったこともあったはずだが、自分のことに精一杯で、実見できたはずのパフォーマンスの現場にさえ行けなかった。 
 で、その“ネット・サーフィン”でゲットした情報をさらに詳しく見ていくと、実に短期間の展示で、ゲットした時点でもう始まっていた。焦る。なんとか終了前には行けそうだったので手元の紙にメモをとった。ルーニー・247ファインアーツ。「松澤宥 概念芸術以前2」「美学校の記憶 成田秀彦」。1月29日〜2月3日。行って実に得をした。
 そう大きなスペースではないものの、横長の“ホール”壁に初期の油絵の小品が一点、コラージュ作品らが六点。そして部屋が二つ。そのひとつには壁三面にそれぞれ大きくプロジェクションされた映像資料など。別の部屋には成田秀彦氏の撮影によるかつての美学校での写真や美学校のポスター。
 これら展示総体の企画は長沼宏昌氏。同氏は、松澤氏のパフォーマンスを撮影する機会があって、それ以来、松澤氏と密接な関係が続いてきたらしい。氏は次々に会場を訪れる人々に展示作品の説明を実に丁寧に、そして精力的に繰り返しおこなっていたから、私は“聞き耳頭巾”。特に壁に大きく映写されるビデオ映像についての氏の説明は貴重であった。
 映像プロジェクションの部屋には椅子が置かれ、座って中央壁に、松澤氏が活動拠点にしていた下諏訪の祭礼などの様子。長沼氏自身による撮影・編集による。松澤氏の活動にとって、この地方の信仰や祭礼がとても重要だったことがよく示されていた。左右壁にはあの名高い「プサイの部屋」の映像。左側に部屋の中をあちこち移動しながら長沼氏自身がビデオ撮影した“閉鎖”前の様子、“閉鎖”後の空っぽになった様子。右側に“閉鎖”前の「プサイの部屋」の細部を撮影した写真をズームアップするなどしながら動画に構成した映像。それぞれを丹念に見ると、かなりの時間を要したが、実に面白かった。「プサイの部屋」には、1964年6月1日に「オブジェを消せ」という啓示を受ける以前に松澤氏によって作られた数々の物品がそのまま“安置”され続けてきたようだが、建物の老朽化もあって、近年物品たちを別の場所に移して、部屋は“閉鎖”されたのだという。この部屋は松澤氏のアトリエであり、「虚空間状況探知センター」としての活動の拠点でもあった。映し出される細部が実に興味深い。覗き趣味では悲しい。
 

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