立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
ゴダールの3D映画をみた(3)
2015-03-24
映像がものすごくきれい、ということに話をしぼろう。3Dという最近人間が手にした映像の技をゴダールがいじり倒しているが故に、ものすごいきれいさが実現できているのだと思った。これは、たやすいことではない。
テーブルやベンチ、椅子などの形状を利用しての奥行き感の強調、花瓶や電気スタンド、柵や繋留の杭などを利用しての重なり作り、などといったことは3Dのためのオーソドックスな手法であるに違いない。そうした手法は当然のように踏まえられる。
が、それだけではない。例えば、ふたりの人物が左右に分かれてそれぞれ同時に何をしているかを3Dで重ね撮りするとか、ライトしか見えない夜景を撮るとか、激しい逆光で撮るとか、ガラス越しに撮るとか、水を撮るとか、ソラリゼーションのような表情に画像処理するとか、手持ちで撮るとか、カメラを逆さまにして撮るとか、シャワーから降り注ぐお湯に向かって撮るとか、…など、ふつうあり得ないようなことをしている。当然のように目は混乱に陥る。
さらに、モノクロとカラーとの使い分け、コマ送りの挿入、テレビモニタやスマホの画像の2Dとの対比的な挿入、というような要素が加わる。例えば、昔の映画からの引用、ニュース映画からの引用など、とりわけ、ノイズしかないテレビ画面だけのカットのきれいさは記憶に残る。
また、窓からの景色が絵のようにみえる室内に陽がさし込むシーンなど、3Dと2Dを反転させるような意図も見えることがあって、印象的である。
水についてだけ思い起こしてみても、降る雨、水たまり、濡れた路面、車のフロントグラスに当たる水、河、湖、水中、スクリューでかき回された水、落ち葉が浮かんだ水、青空が映り込む水、底のありさまが見える水、手を洗う水、など、その表情は実に多様である。だいたい、水を3Dで撮ろうなどとゴダール以外の誰が考えるだろうか。
狂言回しのような役割を担っているように見える犬とその周囲・周辺もまたじつに多様な表情を見せている。超ローアングルからのアップなど、犬の毛並みのテクスチャーが美しい。
カットが変わる度に、私はびっくり仰天し、目をどこに向ければ良いか混乱させられながら、いずれも、ものすごくきれいだ、と思った。編集もゴダールならではである。つまり、3Dの映像だからこそ可能な表現であり、3Dでなければできない表現である、と思った。
ゴダールは85歳だとかいう。すごいじいさまだ。感嘆せざるを得ない。
テーブルやベンチ、椅子などの形状を利用しての奥行き感の強調、花瓶や電気スタンド、柵や繋留の杭などを利用しての重なり作り、などといったことは3Dのためのオーソドックスな手法であるに違いない。そうした手法は当然のように踏まえられる。
が、それだけではない。例えば、ふたりの人物が左右に分かれてそれぞれ同時に何をしているかを3Dで重ね撮りするとか、ライトしか見えない夜景を撮るとか、激しい逆光で撮るとか、ガラス越しに撮るとか、水を撮るとか、ソラリゼーションのような表情に画像処理するとか、手持ちで撮るとか、カメラを逆さまにして撮るとか、シャワーから降り注ぐお湯に向かって撮るとか、…など、ふつうあり得ないようなことをしている。当然のように目は混乱に陥る。
さらに、モノクロとカラーとの使い分け、コマ送りの挿入、テレビモニタやスマホの画像の2Dとの対比的な挿入、というような要素が加わる。例えば、昔の映画からの引用、ニュース映画からの引用など、とりわけ、ノイズしかないテレビ画面だけのカットのきれいさは記憶に残る。
また、窓からの景色が絵のようにみえる室内に陽がさし込むシーンなど、3Dと2Dを反転させるような意図も見えることがあって、印象的である。
水についてだけ思い起こしてみても、降る雨、水たまり、濡れた路面、車のフロントグラスに当たる水、河、湖、水中、スクリューでかき回された水、落ち葉が浮かんだ水、青空が映り込む水、底のありさまが見える水、手を洗う水、など、その表情は実に多様である。だいたい、水を3Dで撮ろうなどとゴダール以外の誰が考えるだろうか。
狂言回しのような役割を担っているように見える犬とその周囲・周辺もまたじつに多様な表情を見せている。超ローアングルからのアップなど、犬の毛並みのテクスチャーが美しい。
カットが変わる度に、私はびっくり仰天し、目をどこに向ければ良いか混乱させられながら、いずれも、ものすごくきれいだ、と思った。編集もゴダールならではである。つまり、3Dの映像だからこそ可能な表現であり、3Dでなければできない表現である、と思った。
ゴダールは85歳だとかいう。すごいじいさまだ。感嘆せざるを得ない。
ゴダールの3D映画をみた(2)
2015-03-23
予告編が終わって、眼鏡を装着せよ、との案内がなされると、映画はすぐに始まった。
赤の角ゴチック体で「アデュー」、もちろんフランス語の綴りで、それが数回反復されて、つぎに「あの頃が一番よかったなあ」とかなんとかフランス語の文が示され、もちろん私は日本語の字幕を読むのである。すぐに「133501」の数字が示されるが、何を意味する数字かまったく分からない。そして、いくつかの短いカットのあと、「1」と画面前方に、「ナチュール」のフランス語綴りが後方に、つまり3Dで示され、もちろんここでも私は「自然」と日本語の字幕を読むのだ。
そして、3Dで湖(レマン湖?)を右から左手前へと来る遊覧船(?)。手前に繋留のための杭ふたつ。このものすごくきれいなカットから、めくるめく3D世界が展開していく。…が、3D映画に慣れないせいか、目の使い方が分からなくて戸惑う。とは言え、色というか、光というか、ともかく映像そのものが、ものすごくきれいだ。
その後、当然のよう短いカットごとに新たな情報が押し寄せてきて、次々とたたみ込まれる。いちいち書き出すことは避ける。ソバージュの金髪娘の背後で赤いパラソルがゆっくり開くとか、路上のテーブルに並べられた本につぎつぎと手が伸びる、とか。字幕に「収容所列島」と出て「ググることはない」と台詞があったり、にもかかわらず、スマホにソルジェニツィンの顔が映っていたり(ググったわけだ)、「文学的考察」という字幕から始まる「プッス」「プッス」「プチ」「フッセ」の言葉遊びとか、ゴダールだもの、しょうがないのだ。はじめの方の僅かな時間での展開についてだけでも、この程度の紹介で精一杯だ。フランス語が分からないせいもあって、もう開始早々にもかかわらず、ついていけていない。ついていけない、というその混乱状態がおもしろい、という人を、ゴダールの映画は選んでいるようにさえ思う。私は、すでに、そういうタイプに教育されてしまっている。
赤の角ゴチック体で「アデュー」、もちろんフランス語の綴りで、それが数回反復されて、つぎに「あの頃が一番よかったなあ」とかなんとかフランス語の文が示され、もちろん私は日本語の字幕を読むのである。すぐに「133501」の数字が示されるが、何を意味する数字かまったく分からない。そして、いくつかの短いカットのあと、「1」と画面前方に、「ナチュール」のフランス語綴りが後方に、つまり3Dで示され、もちろんここでも私は「自然」と日本語の字幕を読むのだ。
そして、3Dで湖(レマン湖?)を右から左手前へと来る遊覧船(?)。手前に繋留のための杭ふたつ。このものすごくきれいなカットから、めくるめく3D世界が展開していく。…が、3D映画に慣れないせいか、目の使い方が分からなくて戸惑う。とは言え、色というか、光というか、ともかく映像そのものが、ものすごくきれいだ。
その後、当然のよう短いカットごとに新たな情報が押し寄せてきて、次々とたたみ込まれる。いちいち書き出すことは避ける。ソバージュの金髪娘の背後で赤いパラソルがゆっくり開くとか、路上のテーブルに並べられた本につぎつぎと手が伸びる、とか。字幕に「収容所列島」と出て「ググることはない」と台詞があったり、にもかかわらず、スマホにソルジェニツィンの顔が映っていたり(ググったわけだ)、「文学的考察」という字幕から始まる「プッス」「プッス」「プチ」「フッセ」の言葉遊びとか、ゴダールだもの、しょうがないのだ。はじめの方の僅かな時間での展開についてだけでも、この程度の紹介で精一杯だ。フランス語が分からないせいもあって、もう開始早々にもかかわらず、ついていけていない。ついていけない、というその混乱状態がおもしろい、という人を、ゴダールの映画は選んでいるようにさえ思う。私は、すでに、そういうタイプに教育されてしまっている。
ゴダールの3D映画をみた(1)
2015-03-19
ゴダールの最新作という3D映画『さらば 愛の言葉よ』をみた。
例によって、映像、音、音楽、言葉、文字、字幕…、と情報量が膨大なうえに、今回は「3D」、さらに情報量が加わったわけで、ほぼお手上げ、まったくの消化不良である。
にもかかわらず、満足した。できれば、もう一回、みたい。
情報量が膨大、と書いたが、情報の量が私の容量を超えて過剰になってしまうと、脳が自己防衛して拒否反応をおこすのか、睡魔が襲い、ついには陥落し、爆睡することがままある。哲学書や学術書などと同様、ゴダールの映画は睡眠導入剤のかわりに使える。その証拠に、高校生の時に『中国女』をみて爆睡して以来、ゴダールには気をつけてきたにもかかわらず、その後も、かなりの確率で爆睡してきた。目覚めたとき、すごく損をした気になる。同時に、自分の頭の悪さ、教養のなさが露呈するので、それを直視するのがつらい。悔しいので、フランス語ができれば…、とか思うことがある。
例によって、映像、音、音楽、言葉、文字、字幕…、と情報量が膨大なうえに、今回は「3D」、さらに情報量が加わったわけで、ほぼお手上げ、まったくの消化不良である。
にもかかわらず、満足した。できれば、もう一回、みたい。
情報量が膨大、と書いたが、情報の量が私の容量を超えて過剰になってしまうと、脳が自己防衛して拒否反応をおこすのか、睡魔が襲い、ついには陥落し、爆睡することがままある。哲学書や学術書などと同様、ゴダールの映画は睡眠導入剤のかわりに使える。その証拠に、高校生の時に『中国女』をみて爆睡して以来、ゴダールには気をつけてきたにもかかわらず、その後も、かなりの確率で爆睡してきた。目覚めたとき、すごく損をした気になる。同時に、自分の頭の悪さ、教養のなさが露呈するので、それを直視するのがつらい。悔しいので、フランス語ができれば…、とか思うことがある。