56 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

「香月泰男展」に滑り込んだ
2022-03-28
 3月26日、練馬区立美術館は盛況だった。「香月泰男展」が次の日で終わってしまうからだろうか、高齢の方々を中心に、観客が絶え間なく訪れていた。
 見応えがある。私は途中でヘトヘトになってしまった。
 最初期作品が数点。
 まず、20歳の頃の絵。1931年作。香月は東京美術学校の学生だった(はずだ)。ゴッホから懸命に学び取ろうとしている。
 その横に、ブルー・グレイが基調の、年齢を考えれば、驚くほど完成度の高い風景画がある(1934年)。
 さらにその横には、大きすぎる両手の老人=香月の祖父の肖像画がある(1936年)。
 そのさらに横に、二人の少年を描いた大作がある(1936年)。
 これらはいずれも学生時代の作品だ。
 私はすでにもう“降参”である。香月泰男という人には、才能というものがきらめいている。

 あ、入口からの最初の壁面には、すでに何度か見たことがあった『釣り床』(1941年)と『水鏡』(1942年)とが並んでいた。その二点が、初期(戦前・戦中=応召前)の香月の作品群への導入になっていた。いずれも、さすがの完成度で、今や死語と化したような、マッスとかムーヴマン、単純化、構成、、、というような造形用語がここに確かに息づいている。加えて、どれも色がいい。仕事が実に丁寧である。これらの作品を支えたエスキースもあった。エスキースの段階ですでに無駄がない。
 『門・石垣』(1940年)、『波紋』(1943年)などの前では息をのんだ。『兎』や『尾花』も魅力的である。前期だけの展示だったので図録で知った『棚と壺』も見ておきたかった。

 こうした豊かな才能に恵まれた若者も戦争に駆り出され、あげく、捕虜になり、シベリアで筆舌に尽くし難い経験を強いられ、復員=帰国する。 

 香月の作品に、戦争体験はしばらく表に出てこない。造形的な追求が主になっているようである。とはいえ、『雨〈牛〉』(1947年)、『休憩』(1947年)、『埋葬』(1948年)というように、牛や馬の姿を借りた“ほのめかし”による戦争体験への言及を認めることはできる。すでに展示を終えて図録で見ることになった『休憩』では、休憩とは名ばかりで、死んでしまった馬を描いたのではないか、とさえ見える。死んだ馬を描いたといえば、即座に連想されるのは神田日勝だが、日勝に比していかにも“スマート”、モダン、というか、垢抜けた造形処理を経た“横たわる馬”である。
 それはともかく、1950年代に入るとキュビズム、とりわけブラックを咀嚼しようとする様子が見てとれる。
 中でも、『電車の中の手』(1953年)は驚嘆しつつ見た。この作品は、あまり他に類例を見ない表現に至っている。二つのことが挙げられるだろう。一つはキュビズム受容の具体例として。もう一つは、写真的というかスナップショット的な日常の光景の切り取り方において。一種トリミング的、というか浮世絵的な構図は、香月の作品の特徴と言っていいかもしれない。
 ともかく、どんな試みをしても、香月の作品は、ある水準を保持している。自分で作った小さな木彫をモチーフに取り込む、というかモチーフを確認する意味で木彫をしていたのだろうか、そういうこともしている。実に興味深い。
松澤展 その2
2022-03-09
 というわけで、篠ノ井線というのだろうか、それに飛び乗って長野から暗くなりつつある松本にやってきた。途中、車窓から素晴らしい眺めが広がっていた。中村宏さんの絵のようだった。松本で目指すのはマツモト・アート・センター。ここで、北澤一伯氏が松澤宥関係の展示をやっている。
 道路に面した小振だが真っ白なスペースの正面壁に、「私の死」という1970年のあの伝説の「東京ビエンナーレ・人間と物質」展会場だった旧東京都美術館の“松澤スペース”入り口の上に掲げられたパネルを再現した言葉が再現されている。それは

私の死
(時間の中にのみ存在する絵画)

あなたがこの部屋をしづかによぎる時あなたの心に一瞬
私の死をよぎらせよそれは未来の正真正銘の私の死であ
るがあなたの死ともまた過去の何千億の人間の死とも未
来の何万兆の人間の死とも似ているアレなのだよ松澤宥


というものである(ただし英文は省略)。
 横の階段から上に行くと、「松沢/「私の死」(1970)/あなたはただ、ここに掲示されてい/る掲示板の文章に従えばいいわけで/す。作家にとって、作品とは与えら/れるものでなく、あなたひとりひと/りの心の中にうみだされるという/ことです。」というパネルがあるが、これは北澤氏によるものだろうと判断した。その先にガランとした空間が広がっている。ここをよぎりながら松澤宥の死のことを思ってください、というのである。一つの壁に、先ほどの言葉と対になった言葉がある。

私の死
(時間の中にのみ存在する絵画)
松澤宥

私は今ここを過ぎるあなたに私の未来の死を手渡します
その時刻に私は日本の中央高原のある洞窟の中であなた
の両の乳房の下からあなたの二つの心臓を取り出しそれ
らをそこ特有の乳白色の霧の中に飛び立たせてやります


というのがそれだ(英文は省略)。松澤宥は死んでしまったが、こうして言葉=文字=文は残っている。ここに示したように、松澤宥の手書き文字ではなくても、また正方形のパネルではなくても意味は伝わる。意味は伝わると言ってもビミョーである。詩的なイメージの贈与なのだ、と考えていいものだろうか。        
 階段を降りると、小さな部屋があって、机の上と周辺とが展示構成されている。まず、机の上のアクリルケースの中に松田行正氏が作ったという本をメモ帳代わりに松澤氏が使っていたというその本が置かれている。その右側には今見てきた二つの作品が額装されて置かれている。その手前には今や超高額で取引されると伝え聞く岡崎球子画廊製作の「プサイの箱」が置かれている。希望者は白手袋を装着して中を見る事ができる。その左側には、机の上に置かれた本の中身のカラーコピーの束が置かれている。希望者は手にとって閲覧する事ができる。机の左側を見れば、松澤宥をめぐる参考図書が並んでいる。その左横には、美術史家・富井玲子氏が行った松澤宥についてのレクチャーの映像が流れている。マツモト・アート・センターのためのレクチャーだという。ヘッドホンを装着すれば音声も聞くことができる。
 北澤さんによれば、ここは普段は事務などをしている部屋で、机は北澤さん用のものだという。日常的な仕事の場が展示場に変じているわけだ。素晴らしい発想である。松澤宥の展示はこれで四年間続けてきている、とのことであった。しばし談笑しつつ過ごすことになった。
松澤宥展を見た その2
2022-03-08
 手紙といえば、「白いときの会」「音会」「山式」「開かれている」「ニルバーナ展」などでは手紙のやりとりだけでなく、手紙そのものも作品化していく。それらの資料が網羅的に展示されていたのは嬉しい。これらの活動は、1977年の「サンパウロ・ビエンナーレ」への団体での参加に連なっていくが、その「サンパウロ・ビエンナーレ」での展示が再現されていた。これも嬉しい。床面に松澤作品が広がり、周囲の壁に松澤と共に歩んできた人々の記録写真が並んでいる。実は、私は最初から松澤宥に関心があったわけではなかった。昨年春に私家版冊子としてまとめた『藤原和通 Ⅰ 1970ー1974 [音響標定]』のための編集過程で、松澤宥という人を“発見”することになったのである。同時に、田中孝道氏、春原敏之氏、山本育夫氏といった人たちを知り、「一般財団法人 松澤宥プサイ(ψ)の部屋」の松澤春雄氏そして松澤久美子氏を知ることになった。そんなこともあって、ぐいぐい引き込まれてきている。展示には、田中氏や春原氏、故金子氏の資料もあって、フリー・コンミューンを志向していた時期のことが生き生きと読み取れる。
 「白鳥よ」などの作品、「美学校関係」の資料やパフォーマンスのビデオ、「プサイの部屋」の再現展示などが続いて、最後はヘトヘトになってしまった。
 “オブジェを消し”て以降も、文字を記した紙やパフォーマンスの写真や映像は残った。「啓示」以前の作品群や資料群も残されていた。だから、こうして松澤宥の足跡を辿る事ができる。幸いというべきか。
 大急ぎで長野駅に戻り、列車に飛び乗って松本に向かった。続く。
(2021年3月8日)
 
松澤宥展を見た
2022-03-08
 善光寺近くの長野県立美術館は、最近完成したせいか、よそよそしいほどきれいだった。そこで開催中の「松澤宥展」を見た。見応えという言葉では足りないくらいの見応え(というか、“読み応え”?)の展覧会だった。午前10時過ぎに会場に入って、午後3時くらいまで、目を凝らし続けることになったが、それでも全然時間が足りない。膨大で圧倒的な情報量だったのである。
 まずロビーで、「人類よ消滅しよう 行こう行こう(ギャティギャティのルビ) 反文明委員会」と墨書されたあのピンクの幟に迎えられる。富井玲子氏によれば、その幟の長さを松澤氏に尋ねたとき、即座に返ってきた答えは、もちろん22メートル、だったそうだが、実測すると22メートルではなくて17メートルだったという。それはどうでもいいのだが、世界中を旅してきた幟である。今や、レプリカも作られているようであるが、今回は天井から吊るされ、途中から床に延べられている。以前、豊科で見た設営とは違って、また興味深い。幟の設営のされかたはフレキシブルなのである。
 ところで、幟にはもう一種類あったような気がする。それは確か「人類の滅亡近し 皆しかと心の用意と 〇〇〇〇をすべし 反文明委員会 虚空間状況探知センター」とされていたと思う。こちらの幟の方はあまり展示されることがない。今回も展示されていないが、その理由は不明。 
 さて、私は間違えてしまった。エレベーターで会場の2階に上がり、手前にあった入り口を入って、常設展、というかコレクション展に迷い込んだのである。え、なんで? となんだか釈然としなかったが、展示自体は充実した興味深いものだった。が、やはり「松澤宥展」が気になって、“流して”しまうことになった。
 尋ねると、「松澤宥展」は2階奥が入り口だった。
 早稲田大学建築科で学んでいた時の課題の図面から始まっていて、よくもまあ、こうしたものまで、と驚くほどである。成績表まである。
 さらには、詩と取り組んでいた時期のガリ版刷りの同人誌や個人詩集をはじめとする紹介が続く。いずれも貴重なものだろうが、残念ながら全部に目を通すには至れなかった。そもそも私には「詩心」というものがない。詩の読解には困難がつきまとうのである。なので、最初から半分以上を諦めていたが、つい文字を追いかけてしまうのだった。が、追いかけるそばから忘れていってしまう。焦りが生じてくる。ともかく、多くの詩作品があって、松澤がVOUの同人でもあったことを初めて知った。松澤宥の詩は、日本語文字の行分けの姿から、次第に不思議な様相を見せ始める。言葉だけではなくて、記号や図形までが動員されて、グラフィックな印象が前面に出てくるのだ。発表されたのが印刷物であることがその印象を増している。その読み方もよくわからない。
 フルブライトの留学生としてアメリカで過ごして、帰国後、本格的に絵画に取り組み始める、という時系列だろうか。なんでも、ニューヨークで深夜ラジオ放送されていたUFOやテレパシーなどについての番組に熱中していたらしい。
 大ぶりの紙に描かれた絵画作品の多くは同じサイズで、今回、初めて公に紹介されるものだという。1964年のあの「オブジェを消せ」の「啓示」によって、それ以降、松澤自身によって、倉の奥深くに仕舞い込まれていた作品群の一部らしい。
 これが素晴らしい。
 確信を持って揺るがない形状、丹念な塗り込み、独特な色遣い、、、など、、、目を見張る。近年、松澤の誕生日の2月2日を中心に、小品の絵画作品やドローイングなどが、あちこちで紹介されてきている。が、私が見ることのできたそれらとは、今回は桁ちがいの完成度だった。豊科で見た時も驚いたが、展示されている数がさらに多いので、いっそう説得力を感じさせる。とはいえ、謎に満ち満ちた絵画群である。
 私はなぜか晩年の高松次郎のあの不思議なエイのような形状が描かれた絵画作品群を思い出していた。高松次郎は、フリーハンドで引いた多くの線の網目の中から手繰り出すようにあのエイのような形状を導き出していた。その形状に至るまで、一定の“手続き”が必要だったのである。その”手続き”を経て、大きなキャンバスにエイのような形状を堂々と描き始めたのだが、十分にそれを追求できないまま亡くなった。いかにも残念である。

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