34 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

諏訪市美術館に立ち寄ってきた
2023-05-25
 所用あって諏訪に行った。用事の合間に上諏訪にある諏訪市美術館を訪れた。平日の美術館は実に閑散としていた。雨のせいもあったかもしれない。展示は、とても充実していた。
 この美術館には、1994年に63歳で亡くなった彫刻家・細川宗英氏の彫刻作品が多数常設展示されている。以前、全館を使っての回顧展が開かれたときにここを訪れたことがあった。
 その時も、1953年作の「F嬢の首」という最初期のブロンズの作品に大変な感動を覚えたが、今回、再びまみえて、感動を新たにすることになった。もちろん他の作品群も彫刻に素人の私ごときが何事かを述べうることなどできず、そんなことから、はるかにとび抜けた問題意識で貫かれている。それだけはわかる。ともかく、最初期の作品がこれなのだから、口あんぐりなのである。
 顎をやや前方に突き出した頭部、暗示される両方の肩の方向から右へとわずかに捻りながら頭部を支える首、頭部の正中線は直線状ではなく緩やかに揺れ動いて、眼窩、眼球、瞼、頬骨、小鼻、口元‥、と連動しながら顔の作りに微妙な動勢を生じさせ、図式的・機械的なシンメトリーから隔たって、生き生きした表現に至っている。「彫刻」ならでは表現である。細川氏は1930年生まれというから、当時23歳。若くしてこれだけの力量を示しているのだから、あとはどうなっちゃったんだろ? と思うのが自然というもの。その答えは、これを読んでくださっている方々が、諏訪を訪れて体感なさる意外になさそうである。
 ともかく、日本という風土の中で「彫刻」を、とりわけ粘土や石膏、セメントといった素材による“モデリング”で、どう成立させ形作るか、という問題を抱えながら、果敢に「彫刻」と取り組み続けた、と言えるのではないだろうか。諏訪市美術館が常設展示するにふさわしい稀有な作家であろう。
 美術館一階の半分ほどのスペースを占有する細川作品群を巡り終えて、次のスペースに移動すると、不意をつかれるように大沼映夫氏の2003年の油画「遊人」に出くわした。そして、つい長い時間没入した。
 「大沼映夫氏」とかクールに書いているが、私の学生時代の恩師ともいうべき人である。つい最近、求められて、川俣正氏の1983年作品、札幌での「テトラハウスN-3 W-26」について長い文を書いて、その時に大沼氏のことにも触れたばかりだった。
 今回予期せずまみえた「遊人」は、「ライフダンス」と呼ばれるシリーズのうちの作品で、比較的小ぶりな大きさである。「ライフダンス」のシリーズは、発表の当時にたびたび見ていたが、ほとんどちゃんと鑑賞してこなかったことが分かって、その不覚さを恥じ入るほどだった。
 多くの人間の姿が線の要素で示されているが、頭部を上から捉えた形状を丸で描いている以外に閉じた形状がない。白い色面のあちこちに人体の形状を暗示する幅広の線が配され組み合わされているが、線が閉じることがないので、オールオーバーと言ってもいいような要素を含んだ作りである。
 が、白の色調が尋常ではない。白を筆で塗り付けた複雑な痕跡がマチエールの差異を示して複雑な調子の変化を生じており、そこに極めて微妙に変化する色彩の配置さえをも感じさせる。出会い頭には“黒さ”と感じさせられた微妙な肥瘦を含んだ幅広の線が、実は実に複雑な色相の重なりで成り立っていることがみてとれ、その線の傍らに赤や青や黄色の色相が寄り添っていて、それぞれが画面全体に震えのような影響を及ぼしている。極めて知的に構成された、しかも色彩への超高感度の感性に支えられた画面であるのがよく分かって感嘆することになった。
 今年90歳になられたというが、先の国画会でも、新作2点を展示して果敢な挑戦を続けておられ、私はもう随分お目にかかることも無くなってしまったが、またまた、叱られているような気がした。私もとっくにもう爺さんなのに、眉毛や耳から長い毛が伸びていたりするのを見つけてびっくりしたりするのは、いつまでも学生気分が抜けない証拠だ。が、こればかりは如何ともし難い。
「マティス展」をみた
2023-05-12
 “黄金週間”も終わり、そろそろ世間も落ち着いただろう、と思った朝、TVの天気予報も 今日は全国的に晴天! というので、よし! と上野・東京都美術館で開催中の「マティス展」に出かけた。
 いつの間にか、マチスは「マチス」ではなく「マティス」と表記されるようになったみたいなのだが、私としてはやっぱり「マチス」と言わないと“感じ”がでない。中学や高校の「美術」の教科書で「マチス」と覚えたからだろう。今の教科書でどう表記されているか知らないが、大昔、学生だった頃に出版されたのを買って、今も仕事場の書棚にささっている本は『マティス 画家のノート』(二見史郎訳、みすゞ書房、1978年)と「マティス」となっている。なので、1970年代の終わり頃には「マティス」と呼んでいたようでもある。では、いつから、どなたがどこで「マティス」と呼び始めたり表記し始めたものだろうか? そして、それはなぜ? と、こんなことが気になるのは“病気”の兆候かもしれない。近頃、何をやっても集中力の極端な低下が自覚されるのは、年齢による衰えや隣の解体撤去工事の騒音や揺れのせいだけではないのではないのか? やばいぞ、、、。と、あ、ドンドン話の筋というものが脇にそれて行ってしまっている。モンダイは、そういうことではなくて、「マティス展」なのである。
 都美館に向かいながらドキドキしていた。予約が必要だ、というのだが(ホームページとかで)、見物の予約をしていないままなのである。予約以外にも少し当日券がある、というので、当日券はすでにもう売り切れた、と断られるのを覚悟して出かけて来た。こんなことにドキドキしてしまうのも“病気”の兆候かもしれない。
 都美館の窓口に直行し、当日券はありますか、と尋ねたら、ラッキー、オッケーだった。加えて老人割引が効いてお安くなった。近頃、展覧会の入場料が高くなって、とってもつらいので助かった。とっても嬉しかった。
 展示は1900年作の油彩「自画像」から始まる。画面向かって左側の紫の色面の広がりが印象的だったが、今回この展覧会で展示されたマチスの最初期の作品は、次に登場した1895年の油彩「読書する女」だった。マチスは1969年北フランスの生まれだから、26歳の時の作品だ。
 マチスは、1887年から翌年にパリに出て法律を学び、そのまま帰郷して「代訴人見習い」という仕事をしていたが、1890年に体を壊して長期療養し、その間に油彩画を始めて夢中になった。1891年に再度パリに出てきて、アカデミー・ジュリアンでフランス・アカデミーの大親分のあのブーグローに教わり、ボザール(国立美術学校)の受験に備えたものの、1892年の受験には失敗、国立装飾美術学校夜間部に通ってマルケを知った。その年から、あのモローのアトリエにも出入りしつつ、ほぼ毎日ルーブル美術館で模写をして過ごした。1893年にはサン=ミッシェルの河畔のアパートで女性と住み始め、1894年に長女誕生。1895年からボザール(国立美術学校)のモロー教室で学び始めた。1896年には同居してきた女性と離別(長女はどうなった?)。その頃描いた中の一枚が「読書する女」なのである。
 有名な絵である。マチスの画集には大体収録されているが、実物は初めてみた(ように思う)。画集で知っていた絵とは全く違う印象で、あれま、ずっと騙されてきた、と思った。まず、大きさの印象。そして色。実にしっとりとしている。筆触などもありありと見て取れる。当時の若いマチスがそこに息づいている。
 私は、生活のためにパース(透視図法によるさまざまな完成予想図)と呼ばれる特殊な絵を描いて収入を得ていた時期があったので、パース的=図法的・作図的な形状の“狂い”が気になってしまう悪いクセがある。この「読書をする女」では、それがとっても気になる。
 例えば、画面に向かって右に広がる茶色い壁と床との境界の斜めの線的な形状である。壁に懸けられた二枚の額縁の形状から見れば、壁と床との境界線はもっと水平に近いはず。これでは斜めになり過ぎではないだろうか?
 さらに、女性が座る椅子の足と床との関係。向かって右側の足が床と接する位置は曖昧過ぎないか? また、女性の腰は小さ過ぎないだろうか、膝の位置、上すぎではないだろうか?
 そしてさらに、中央左側の茶色いキャビネットと床との境目の斜めの線の具合も斜め過ぎないか? 、、、といった次第。
 はっきり言ってどうでもいいことである。明暗を基調にした色の組み立て、色どうしの関係はとってもきれいなのだから、若きマチスの確かな力量は十分に伝わってくる。
 確かにこの「読書する女」という絵は、どこといって取り立てて言うべきところはない。ないが、私がつい気にしてしまうパースの“狂い”は、“狂い”ではなく、ワザと、確信犯的になされたものではないか、と思われてくる。そのくらい色の魅力がある絵である。
 アクセント的に挿入され、各所に位置付けられているさまざまな白さが確認できるが、それらの明度の高い不定形の散らばりと微妙な調子は的確で、単にアクセントの役割を果たしているだけではない。また、キャビネットの上面に置かれたツボに与えられた鮮度の高い緑やキャビネットのこれも鮮度の高い茶色。さらに、それらを両側から挟み込んで支えるくすんだオリーブ色と茶系の広がり。つまり、左の模様のある壁の色やキャビネットにかけられた布やカルトンの色と、右の壁、それからキャビネット、椅子や床の色との関係。これは、大まかに補色関係である。そこに、女性の髪、リボン、襟、衣服、グラス、額縁といった不定形の黒さが配され、先に述べた不定形のさまざまな白さも配されて、相互に絡み合っている。さらに、マチスに特徴的な「画中画」の要素の萌芽も伺えて実に興味深い。この時期やもっと以前の時期の油彩やデッサンはもっともっと見たい。
 同じ年に描かれた油彩「ベル=イル」があった。ブルターニュのこの島へと旅行したのであろうか。ある種の解放感に支えられた決然とした意志がみうけられ、この絵には、すでにもうマチスが成り立ちつつある。驚異的な飛躍だと言っていいだろう。固有色へのこだわりはすでになく、陰影の表現はなされているものの、それは色相互の関係でなされている。こうなってくると、もうパースのことなんか気にならなくなる。空に明るく広がる雲の切れ目から覗く青空の不定形の“伸び”が筆触や絵の具の物質感を強調して実に大胆だ。「フォーヴィスム」はすでにもう準備万端、といったところだろうか、セザンヌをよく咀嚼していることが伝わってくる。
 同様なことは、会場の入り口に展示されていた「自画像」(1890年)や「サン=ミシェル橋」(1890年)「チョコレートポットのある静物」(1900ー1902年)「べヴィラクアの肖像」(1901ー1903年)でも言える。
 とりわけ「チョコレートポットのある静物」は西陽が差し込んでいるのだろうか、小ぶりな椅子のようなものの上に皮表紙の大きな書物が横たえられ、その上に果物らしき球体と銀製のチョコレートポットが置かれているところを描いたものだ。銀器の表面には周囲の物たちが映り込んでいる様子を描いているが、それらの周囲には左側にフレンチカンカンの女性を描いたらしき絵が立てかけられていたり(画中画)、半開きの扇らしきをあしらった暖簾のようなものが下がっていたり小物入れの箱が置かれていたりしている。そして陽を受けた絨毯であろうか、椅子の下方に思い切った緑色を塗り込めたり、本の小口のところに向けてホワイトをナイフで衝突させたりして画面に“喝”を与え、他との関係を作り替えつつ全体を引き締めようとしている。ありふれた何気ない部屋の様子をモチーフにしながら、取り組んでいることはかなり激しい。
 1899ー1901年作の彫刻作品「野うさぎを貪るジャガー(バリーに基づく)」もまたマチスの非凡な力量を見せつけてくる。バリーというのは18世紀前半に活躍した動物をモチーフにした彫刻で知られる(らしい)。その彫刻を模刻というか手がかりにして作ったわけである。これがいい。そう大きなものでもないのに、形状がうねっている。もうほぼ抽象彫刻である。
 そんなわけで、最初のコーナーでもう息切れしてしまった。地階をめぐるだけでもフラフラになった。彫刻が素晴らしい。もちろん絵も素晴らしい。どれもこれも素晴らしい。ああ、ここ住みたい!

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