立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
昔、まだ小さかった義兄が枇杷を食べた(2)
2015-06-10
数日後、土を取り除く作業を仕事場で再開した。横にしたり、ひっくり返したりしながら、根に傷を付けないように丁寧に進めていく。ときどき生き物がうごめき出てくる。そして次第に、ここの土は向こうまで繋がっていそうだ、というような見当がついてくる。つまり、塊に穴があいてくる。穴があくと、塊の表情が一変する。その穴から、さらに別の穴があく。横にしたりひっくり返したりしながら、土を取り除く作業は進行する。まるで、体が小さくなって、穴の中を冒険しているような感じがしてくる。じつにおもしろい。久しぶりにわくわくする。上が下になり、こちら側が向こう側になる。微細な形状や土の表情の変化が次の手がかりになる。方向感覚が失われて、視線の先にのみ集中している。そんなことをやっているうちに一日経ってしまった。
昔、まだ小さかった義兄が枇杷を食べた(1)
2015-06-08
昔、まだ小さかった義兄が枇杷を食べた。枇杷の実には大きな種がある。その種を義兄が植木鉢の土に埋めておいたら芽が出て育ち始めたのだそうだ。やがて大きめのポリバケツに入れ替えたら、どんどん育って、もっと大きなポリバケツに入れたのだそうだ。バケツは通りに面した壁際に置かれていた。枇杷はどんどん大きくなって、やがて実をつけ始めるようになった。背の高さは二階の窓に届いてしまった。その頃になって、さすがに危ないのではないか、と言い始めた者がいた。義兄の妹と結婚した私だ。
たとえば台風が来て、強い風が吹いて枇杷が倒れて、通行人にケガなどさせてしまっては大変なことになる。せめて枝を払ってしまいたい。
だめ。こんなにけなげに育ったのだから。台風なんかに負けるはずがない。
義兄や家人の母、つまり義母は大反対するのであった。
義母の反対にも関わらず、私はこっそり枝を払って、枇杷が上の方の葉っぱで少しでも風を受けないようにしてきた。それが見つかると、義母に叱られた。
あるとき、道路の工事で枇杷を動かさなければならなくなった。
このままでは工事ができない。動かさなければならない。
それを口実に、私はばっさりと枝を切り落としてしまった。きっと“ひこばえ”が出てくるはずだ。やっと全体が軽くなった。さあ動かそう。いくらやってみても、バケツはまったく動かなかった。ポリバケツの下から手首程の太さの根が数本伸びていて、アスファルトの下に潜り込んでいたのだった。バケツ全体を動かすために、それらの根を切った。工事は問題なくできた。
工事完了後に“所定の位置”にバケツを戻したが、“ひこばえ”が出るどころか、枇杷は枯れてしまった。義母が悲しい顔をした。
根を切れば死んでしまうのはわかってたじゃないの、と非難された気がした。
枯れた枇杷はそのまま放置された。
たとえば台風が来て、強い風が吹いて枇杷が倒れて、通行人にケガなどさせてしまっては大変なことになる。せめて枝を払ってしまいたい。
だめ。こんなにけなげに育ったのだから。台風なんかに負けるはずがない。
義兄や家人の母、つまり義母は大反対するのであった。
義母の反対にも関わらず、私はこっそり枝を払って、枇杷が上の方の葉っぱで少しでも風を受けないようにしてきた。それが見つかると、義母に叱られた。
あるとき、道路の工事で枇杷を動かさなければならなくなった。
このままでは工事ができない。動かさなければならない。
それを口実に、私はばっさりと枝を切り落としてしまった。きっと“ひこばえ”が出てくるはずだ。やっと全体が軽くなった。さあ動かそう。いくらやってみても、バケツはまったく動かなかった。ポリバケツの下から手首程の太さの根が数本伸びていて、アスファルトの下に潜り込んでいたのだった。バケツ全体を動かすために、それらの根を切った。工事は問題なくできた。
工事完了後に“所定の位置”にバケツを戻したが、“ひこばえ”が出るどころか、枇杷は枯れてしまった。義母が悲しい顔をした。
根を切れば死んでしまうのはわかってたじゃないの、と非難された気がした。
枯れた枇杷はそのまま放置された。