92 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

神田日勝とペインティング・ナイフ その2
2020-06-15
 1956年の『自画像』では、筆も使われているが、ペインティング・ナイフも使われている。画面向かって左側の肩から腕にかけて、輪郭に沿った方向にナイフの先端を使ってなされた絵具の“盛り上げ”が見て取れる。顔部や首部にもナイフを使っているが、注目すべきは向かって右側の肩である。輪郭にナイフのヘリを当てがい、シャツの色を押し当て、直角方向に絵の具を引きずる、これを何度か繰り返して、肩のキワの位置を上方に移動している。繊細な色味の中での、しかし決然とした行為だと言えるだろう。ナイフのエッジが作り出すシャープさとナイフゆえの絵の具の塗りの厚みが、顎と首とシャツとに囲まれる背景の色の面積と形状の表れのあり方の問題へ回答を与えようとしている。ここには、日勝の“構成的な意思”が、素朴にではあるが見受けられる。顔や首ではどっしりとした大きな“構造”を捉えようとしており、かといって細部をおろそかにしていない。光の当たり具合も感じている。耳の描出や襟の首への回り込みなどがやや惜しいが、観察がしっかり定着されていて初々しいいい絵になっている。最初期にこうしてすでに、ペインティング・ナイフの効果があれこれ試されている。
 ペインティング・ナイフを用いた日勝のワザは、短期間にどんどん進化して、アクロバチックと言って良いほど巧みになる。
神田日勝とペインティング・ナイフ その1
2020-06-15
 神田日勝の絵を考える上で、もう一つ避けて通れないのが、ペインティング・ナイフのことである。
 と、その話題に入る前に、先回書いた私の文に重要な誤りがあった。

 日勝は1969年10月、「独立展」に出品した『人間B』を見るために、1945年の鹿追入植以来初めて上京した、と書いた。これが誤りだった。ゆうべ(!)図録を見ていて気づいた。
 正しくは、日勝の上京は1969年5月。「独立選抜展」に出品した『壁と顔』を見るためだった。そのあと、10月の「独立展」に『人間B』を出品したわけである。この時は上京していない。
 読んでくださった方々には、誠に申し訳ありません。ここにお詫びして訂正させていただきます。ごめんなさい!  
 落ち込んで、しばらくして、なぜそういう誤りを犯したか? と考えてみた。
 おそらく、『人間B』が展示されている「独立展」を東京まで見に行ってから、鹿追で『馬(絶筆・未完)』や『室内風景』を構想し、描き始めた、という順番にしたほうが、「話」の筋道がスッキリできる、という気持ちがあったのではないか。大いに反省している。「物語」を捏造してはいけない。
 実際には、「独立選抜展」の『壁と顔』の展示を自分の目で見るために5月に上京して、その後、7月の全道展に『作品B』を出品し、10月の「独立展」には『人間B』を出品して、その後『馬(絶筆・未完)』や『室内風景』に取り組んだ、わけである。ただし、制作の時系列と、発表のそれとが一致するとは限らない。限らないが、この時期、日勝の気持ちが複雑に揺らいでいる、複数の「形式」を相対化している、そのことは明らかだろう。

 それで、ペインティング・ナイフである。
 油絵の歴史を考えると、ペインティング・ナイフを用いて描画している例はクールベあたりが最初になるだろうか(ペインティング・ナイフの作例をたどるだけでも、面白い問題が抽出できそうだ)。
 ペインティング・ナイフは鋼でできているから(ステンレスやプラスチックのものもあるけど)その弾力が特徴的で、大きさや、形状もいろいろ。また、腹、先端、縁というように各所で絵の具を厚く塗ったり引きずったりするだけでなく、引っ掻いたり掻き取ったり削ったりできることなどを含めて、ペインティング・ナイフだけででも絵の中に様々な効果を得ることができる。一旦その面白さにハマると確かにクセになる。日勝の作品のほとんど全てがペインティング・ナイフで描かれてきたとしても、それはそれで納得できる。とはいえ私は、別の理由もあったのではないか、とも思うのだ。
「神田日勝 大地への筆触」展 その4
2020-06-11
今回の日勝展は、日勝の懸命な歩みを示しながら、同時に日勝が孤立した「農民画家」などではなかったことを多面的に明らかにしている。素晴らしい。最新の研究成果が惜しげもなく注がれている。
 例えば、スクラップブック。若い日勝が、どんな作品に興味を持ち、繰り返し眺めて参考にしていたか、その一端が明らかになった。図録では、スクラップブックのすべてを見開きの状態の写真図版に編集して紹介している。素晴らしい。スクラップブックは会場でも現物が展示されており、絵葉書や印刷物からの写真図版が貼り込まれている様子が観察できる。
 また、スケッチブック(それは、ありふれたノートブックであった)。あるページには労働用の革の靴が鉛筆の線だけで描出されている。とても巧みなスケッチである。そのスケッチは例えば『ゴミ箱』(1961年)や『人』(1962年)の中に登場している。
 『集う』(1965年)についての展示も素晴らしい。初めて知ったこの絵について、写真や習作の前で様々なことを考えた。
 一明、曺良奎、寺島春雄、海老原喜之助、北川民次、海老原瑛の作品の現物が展示されているのも日勝を捉え返すための大きなヒントを与えてくれている。
 図録がまた素晴らしい。神田日勝ファンには必携の充実した内容である。
 ミュージアムショップでは『神田日勝作品集成』も販売されている。これは鬼に金棒の有料プレゼントだ。みなさんも「鬼」になってこの「金棒」を振り回して欲しい。“桃太郎”もなんのその。こういうレゾネをきちんとまとめるという“地味な仕事”をきちんとしている神田日勝記念美術館は素晴らしい。
 そんなこんなで、ああ、また行きたい。
                     (2020年6月8日、東京にて)
 上:「死馬」1965年
 下:「ブーツ」スケッチ1961年・「部分」油彩
以上すべて図版は「神田日勝展」画集より

●神田日勝展
会期:6月2日(火) - 6月28日(日)
※入館チケットはローソンチケット(Lコード30066)販売のみ。
受付では購入できません。

会場:東京ステーションギャラリー
公式HP:http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202004_kandanissho.html

「神田日勝 大地への筆触」展 その3
2020-06-11
 『室内風景』と取り組むに当たって、海老原瑛の油絵『1969年3月30日』(1969年)を日勝が知っていたことは確認されているらしい。海老原瑛の当該作品は「第9回現代日本美術展」(1969年)で発表され、その図録の作品写真図版を見つめる日勝の姿についての証言があるという。その海老原作品は、今回の会場に展示されている。広げた6枚の新聞紙を隙間なくキャンバスに油絵で描いたもので、シワの陰影も施されている。私は海老原作品を全く知らなかった。新聞紙を丹念に描いた例は、いろいろあると思うが、例えば以前東京ステーションギャラーで展示した吉村芳生は小さな文字ひとつひとつまで丹念に写し取っていたし、美学校絵・文字工房でも赤瀬川原平が授業に取り込んでいた。それはともかく、日勝は海老原作品の写真図版を見て、カチン!ときたのではないか。俺だって新聞紙を描いてきたぞ。こんな作品には絶対に負けない。俺は新聞紙だけ貼り込められた部屋を作る。
『室内風景』のためのスケッチを見ると、床と壁が三面の“部屋”にすることは最初から一貫して設定されている。ということは、厄介な奥行きの問題を抱え込まねばならない。しかし、やってやろうじゃないか、と日勝は決めて、筆をとったのである。
「神田日勝 大地への筆触」展 その2
2020-06-11
1964年には死んで腹を裂かれた赤毛の牛を描いた『牛』(この作品は生前未発表だったという。また、この年の日勝は多産で、作品はバラエティーに富んでいる。「独立展」初入選の『一人』、次の年の「独立選抜展」へ出品の『飯場の風景』、先ほど述べた『集う』の習作など。長男が誕生したからか、『人間』と題した絵具を流動的に使って一気に描いたような、後の時代の「ヘタウマ」的な絵もある。これらは全て会場に展示されている。『人間』という絵は初めて見た。全く知らなかった)。1965年に『馬』と『死馬』。1966年に『牛』、『静物』、『開拓の馬』。さらに『画室A』、『画室B』とめまぐるしいが、1966年作の『静物』について一明は図録のインタビューでこんなことを言っている。

 「僕が弟の絵で特に大嫌いなのがあるの(笑)。全道展で会友賞をとった、筵(*ママ)の上にいろいろな野菜をいっぱい描いている絵。」
 「僕が審査員なら落選させたいような派手で汚い絵。」
 「このあたりの時期、説明的な要素が勝った絵が多いんだ。絵具の缶を並べた絵とか。意識的にキュビズム風に描いているけど、なんだか観念的でね。」
   
 その「絵の具の缶を並べた」画室の連作の制作は続く。1967年の『画室C』『画室D』『画室E』では一明を一層強く意識している(はずだ)。
 1968年には、画室の連作の流れであろうか『室内風景』が描かれ、ここに人物像が再び登場することになった。独立展出品作の『壁と顔』もこの年だ。この時期の画室の連作や『壁と顔』でのペインティングナイフの扱いのワザは実に丹念で素晴らしい。ところが、同じ年に“ちゃぶ台返し”のように『晴れた日の風景』を描いている。三人の家族を描いた1964年の『人間』の展開かもしれない。絵具の“可塑性”を利用して身振り露わに不定形の原色の数々で画面を覆って漫画的な線を引き、馬と人と太陽と青空にしている。パレットなど使っていないはずだ。きっと、ずっとやってみたかったのだろう。ある日、決断して、えいっ! とやった。しかし、成功しているとはとても言い難い。というか、『晴れた日の風景』は、成功/失敗を度外視した準備体操のようなものだろう。さらに『人と牛A』、『人と牛B』、『人と牛C』、『人と牛D』と連作され、さすが日勝、『人と牛D』あたりでは、ある魅力が芽生えるところまで持ってきている。
 
「神田日勝 大地への筆触」展 その1
2020-06-11
 待ち遠しかった表記の展覧会が6月2日から開いた。東京ステーションギャラリー。
 すでにここに書いたように、私には馴染みのある(ありすぎる)人なので、今、その作品群をまとめて見たらどう感じるか、怖さ半分、期待半分だった。で、どうだったか? 期待以上に見応えがあって、勉強になった。みなさんもコロナに気をつけながら、ぜひお出かけになると良いと思う。 
 そもそも神田日勝は、油絵の手ほどきを兄=一明から受けた。「1952年ー1956年頃」作の『風景』がそのことを伝えてくれる。例外的にキャンバスに描かれたこの作品には、用具の使い方、技法、効果など油絵の基本的なことが一揃い含まれていて、一明がとても本格的にきちんと日勝に油絵を教えたことを雄弁に示している。その兄が1955年に東京芸大油画科に合格した。一明の仲間だけでなく、弟=日勝も大きな刺激を受けたはずだ。
 その次の年=1956年から、十勝地方の公募美術展「平原社展」を舞台に日勝の対外的な発表活動は開始される。
 『痩馬』(1956年)と『馬』(1957年)。私は今までこの良さがよくわからなかった。今回じっくり見て、日勝が知っている「馬」を“理想化”して描いている、と理解できた。とりわけ飼い葉桶(箱)に突っ込んだ首の両顎の間の喉元、頬骨、コメカミなどの形状の表現は触覚的で説得力がある。日勝のまぶたに焼きついている一瞬見せる馬の姿や特徴、撫でた手に残る骨のデコボコした感触、それらをなぞりながら、幾度となくペインティングナイフを動かしている。馬小屋で馬を見ながら描いたのではないだろう。一見、モノクロームを呈しているが、色調は豊かで、日勝の繊細さを示している。飼い葉桶(この絵では箱だが)はすでにセザンヌ風だ。こうした多視点・逆遠近の“形式”を日勝が知っていていけないはずがない。世間にはセザンヌ風の“デフォルメ”が流布していたし、兄の一明や、卒業した中学の美術教師=山本時市から、「セザンヌ」を教わったりもしただろう。日勝のアルバムには東京・ブリジストン美術館(現アーティゾン美術館)所蔵のセザンヌの『静物』の絵葉書も貼られていた。その現物は会場で見ることができる。セザンヌは形式を探求してあの『静物』に至ったのではないが、日勝がアルバムの『静物』の絵葉書を繰り返し眺めて、セザンヌの“形式”を“採用”したとしても不思議はない。また、馬房の壁の表現には、すでに日勝特有の質感表現がなされようとしている。画面の隅々まできちんと手が入り、画面のどの箇所にも神経がゆきとどいている。「画面」という意識がすでに確立されているのだ。日勝のすべての原点が全てここにある。一明は「いい絵だ。大切にとっておけ。」と書いた手紙を日勝に送っていた(らしい)。さすがだ。
 1960年になると、日勝は「全道展」に大作の出品を開始し、活躍の舞台を広げていく。1961年には「全道展」で兄共々大きな賞を受けた。その時の兄=一明の作品『赤い室内』が今回展示されていたのには感激した。この作品の写真図版を手掛かりに考えたことはすでに書いた。実物は図版で感じていたよりももっと強靭で、隙間の抜けがクリアである。丸や四角の反復というような造形的な配慮もなされ細部まで神経が行き届いている。日勝が学び取るのに不足はない。この絵以前も、この絵も、この絵の後も、日勝は何度も何度も兄の絵に目を凝らしただろう。

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