50 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

パトリック・ボカノウスキーの映画『太陽の夢』を見た
2022-07-19
 宮本武蔵には子供がいたかどうか? と唐突に尋ねられて、え? いなかったんじゃないの? と答える。すると、どうしてそう言える? とさらに言うので困ったりしていると、武蔵、子がねえ(武蔵小金井)、と言ってニッコリするのである。

 桃太郎の家来は? と言うので、猿と犬と雉、と答えると、その中で屁が一番臭いのは? とさらに言うので、え? なんでそんなこと聞くの? と言うと、いいから、どれが一番臭い? と言うので、猿かなあ、とか適当に答えると、どうして猿? と言ってくるので、いや、テキトーなんだけど、とか言っていると、猿のは臭え(猿の惑星)、と言ってニッコリするのである。

 O君の仕業であった。実にくだらない。くだらないのが面白かった。

 そんな大昔のことを思い出したのは、武蔵小金井まで映画を見に行ってきたからだろう。もちろん『猿の惑星』をではない。
 パトリック・ボカノウスキー監督の『太陽の夢』(2016年)。いわゆる「実験映画」と言われる映画である。
 パリ在住のボカノウスキーさんは1943年生まれというから今年79歳。知る人ぞ知る、という人のようである。知らなくてももちろん構わない。普通は知らないはずだ。私だって知らなかった。

 数年前、同じ監督の代表作=『天使/L’ANGE』(1982年)という映画の試写会に行ったことがあった。その時は不覚にも途中で眠ってしまった。せっかく試写会に招待してくれた「ミストラル・ジャパン」の水由章氏に申し訳なくて、本当に合わせる顔がなかった。
 その水由氏が、先日、SNSにこの『太陽の夢』上映の情報を載せていた。それを見つけて、今度は絶対に寝ないぞ、と気合を入れて出かけて行ったのである。

 万が一寝ちゃったらどうしよう、なんて心配は無用であった。60分以上の間、スクリーンにはめくるめく多重露光の映像が展開して、私は息をするのも忘れていたかもしれない。もちろん息はしていたわけだが、堪能、ということをさせてもらったのだった。めっちゃ面白かった。
 は? めっちゃ面白かった? それだけ? お前はアホか? と内なる声が聞こえる。聞こえるが、私の超貧弱な表現力では、すっごく面白かったのであります、とか言い換えるくらいで精一杯である。まったく言い換えにはなっていない、それは分かっている。が、いかんともしがたい。
 あ、多重露光、と書いた(打ち込んだ)が、この作品はデジタルで制作されているのだそうである。デジタルでは、複数の画像が重なることを、多重露光とは言わないのかもしれない。私はホームビデオの編集すらやったことがないので、そういうことは分からないのだ。もちろん、そのことを威張っているのではない。自分の保守性はイヤになっている。
 壁などに映写された映像を撮影した画像、コマ撮りの画像、人物の逆光の全身像が海面に映り込んでできる反映像も逆さまにして実像のような画像として使われて、それらが重ねられていく。単一な意味性に収斂することを極力排除しながらの展開である。その映像空間は、煌めく水面とか移動する列車の車窓から木々の間に見える太陽とか、光、ということで一貫しているものの、多様な様相を帯びていて、観客を飽きさせることがない。デジタルならではの色彩の変換なども動員されているし、残像効果も巧みに挿入される。結果、視覚性と意味性とが一つところに止まることがない。私の視線は重なり合った像の層の間を行ったり来たりしながら、不思議な空間をさまよっていた。物語性はないが、巧みな構成へ向けられた意志も感じさせられていた。映画でなければできない表現を目の当たりにした、という印象であった。
灼熱の町田に行ってきた
2022-07-05
 暑すぎる日が続く。でも、めげずに行ってきた。町田市立国際版画美術館「彫刻刀が刻む戦後日本ー2つの民衆版画運動」展。
 例によって会期終了寸前だった。滑り込みセーフ、と思ったが、滑り込むのが遅すぎた。
 図録が売り切れだったのである。えーん。
 あの圧倒的な情報量の展示は、図録なしでは、もうそのほとんどを思い出せないくらいである。きっと図録に図版や記載があるだろうと思って「流して」しまった展示のところもあった。図録売り切れ、増刷せず、との掲示を見たときはボーゼンとしてしまった。
 暑さにめげながらあの長い階段を登り、影を探しながら東口に辿り着いて小田急線各駅で涼みながら帰宅して、「メルカリ」とか「オークション」とか「日本の古本屋」とかに、売り切れた図録が出ているのではないか? と思って調べたが、やっぱりなかった。えーん。増刷してほしい!
 ともかく圧倒的な情報量であった。すごい展覧会だったのである。ヘトヘトになった。

 1947年2月に、1930年代の中国の抗日戦争下での木刻(木版画)運動の“成果品”が東京と神戸で紹介され、それは、有志の手によって全国各地を巡回するほどに、人々に共感を持って受け入れられた、ということから展示は始まっていた。連合国軍(ま、アメリカ軍だが)の占領下の日本での出来事である。
 展示されていた中国の木刻は、実物をほぼ初めて見た。今見てもそれなりの迫力である。当時の人々が共感したワケも理解できた。
 1947年2月はGHQがゼネスト中止を指令した時でもあったはずだ。それは、占領軍総司令部が日本統治の方向、つまり一定の民主化は推進するが労働運動・社会運動には厳しい制約を課す、という方向を明瞭に示した時だったはずである。そうした時に人々が受容する木刻画は大きな意味を持っただろう。
 木刻運動に影響を与えた(らしい)ケーテ・コルヴィッツの銅版と木版との展示は、木版ならではの強さをシンプルに示すものとして、木刻へのその影響関係を示しながら、実に巧みな構成だと感心させられた。
 こうした木刻の展覧会を全国に巡回していく活動の中で1949年10月に「日本版画運動協会」が結成され、木版による版画運動が活発化していった(らしい)。中国木刻からの流れからすれば、彼らが農民運動や労働運動の現場に関わっていくのは自然なことだった。滝平二郎、太田耕士、鈴木健二、新居広治、上野誠などの名が見える。また「押仁太」とのメンバーの頭文字から作り上げたグループの活動の紹介もなされている。事前の想像以上に興味深く見た。
 占領軍の日本統治は1952年のサンフランシスコ講和条約批准まで続いた。1951年には日米安保条約が締結されていてアメリカ軍の駐留が継続され現在まで続いているワケである。1950年には朝鮮戦争が勃発し、レッド・パージが始まった。火炎瓶で対抗した人々もいた。こうした激動の中、いわゆる「55年体制」も固まっていったのである。
 木版による版画運動も、例えば若い画家たちによるルポルタージュ運動などと無縁ではなかったはずだが、展示では微かな“ほのめかし”にとどまっていたのがいかにも残念だった。会場面積の制約もあったに違いない。とはいえ、『週刊小河内』の現物を初めて見ることができた。ケースの中に“表紙”だけだったけど。中が見たい!
 やがて自然に、木版画を教育活動に導入する「教育版画運動」や児童生徒が“生活を見つめるリアルなまなざしを獲得すること”をテーマとする「生活版画」へと展開していく。「生活綴り方」との連動などが紹介されていた。
 1950年代の「サークル」活動における木版画についての展示は圧巻であった。版画サークルとしての活動はもちろん、ガリ版印刷はじめ印刷と連動した木版画のさまざまな活用、ホッチキス留めから製本されたものまで、各種の冊子の発行などが全国各地で展開していて、眩暈がするようであった。メディアを自分たちの手で作り上げていく迫力がグイグイ伝わってくる。
 見れば、それらの中に若き中西夏之氏の「新聞」との見開きがさりげなく含まれていた。
 母袋俊也氏が昨日Facebookにその写真を投稿していて私はびっくりしてしまった。母袋氏に尋ねると、なんと撮影可能だったのだそうである。ああ、中に気を取られて、気づかなかった、、、。

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