立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
何もはかどらない日々
2023-07-21
暑い。梅雨が明けてほんとの夏がやって来たらどうなっちゃうんだろ、と思うほど暑い。一方では、水害がひどくて他人事ではない。いつ、大雨や嵐が拙宅を襲ってくるか、それはわからないし、そういうことがあれば、拙宅は大きな被害を被るだろう。直下型地震のこともあるし。
古くからの知り合いだった写真家・森岡純氏がひっそりと亡くなった。森岡氏は1970年代半ばあたりから、創形美術学校での師であった美術家・高山登氏の作品を撮り始め、高山氏から叱られながら写真のあれこれを身につけ、まずは森岡氏周辺、高山氏周辺の美術家たちから依頼されてさまざまな美術作品を撮影するようになった。以来ずっと、美術作品の撮影のかたわら、自分自身の写真を撮るためにカメラを持ってあちこちを歩くというスタンスで活動してきた人である。作品写真では私も何度かお世話になった。
それよりも何より、思い出深いのは、森岡氏が自分のために撮った写真の多くが、どことなく貧乏そうな風情に満ちた建物などを対象にしていたことである。それらは彼の個展で発表された。
実は、拙宅の玄関の戸を開けたら目の前にカメラを持った森岡氏がいたことがあって、拙宅のあたりをよく徘徊して撮影している、と聞いて苦笑させられた。以来、何度か拙宅を訪れてくれた。ろくな「おもてなし」もできなかったけど、、、。
森岡氏は16ミリ映画も作ったことがあって、それはスジも何もないような映画だったけど、なんと拙宅を捉えたシーンもちゃんと含まれていた。
そんなわけで、拙宅は、結構気に入った彼の被写体だったようである。ということは、拙宅がどういう建物か、すっかりバレてしまうがやむを得まい。
とはいえ、近年の拙宅近辺の変化は凄まじく、大きな道路が開通し、それがさらに先まで整いつつあり、ビルが立ち並び、森岡氏の徘徊に適する場ではなくなってしまった。もうフジムラさんの家のあたりには行かなくなった、と彼もだいぶ前から言っていて、そんな時は、なんだかとても寂しい気がしたものである。
そういうわけで、しばらく会っていなかった。
火葬場からの帰り、ふと思い立ってムサビに行った。「若林奮展」。たまたま道筋が“合理的”だった、という以外に火葬の日に訪れた意味はない。
かなり大掛かりな展覧会で正直驚いた。さすがムサビ、というべきか。会場に奥様の淀井彩子さんらしき方の姿があったが、面識もないのでお声がけなどしなかった。私は内気なのである。
会場のムサビ図書館の一階には「Daisy」のシリーズのうちの二つの連作が10点整然と並んでいた。その右奥の部屋に「所有・雰囲気・振動ー森のはずれ」。階段を登ると真っ白な空間に
黒の不定形が浮いていた(タイトルを失念)。壁に平面。隣の部屋では「森のはずれ」の修復についての映像。別の部屋には「振動尺」のシリーズ。回り込んだりしゃがんだりしながらさまざまに見入る事ができる。そして、デッサンなど各種資料が手際よく並んだ部屋。
以上のように構成されていて、大変見応えがあった。とりわけ、パリ留学から帰国後の若林氏が、彫刻をゼロ地点から考え直すために、抽象化された手指を携えた「振動尺」や、六畳間ほどの鉄の部屋、これらが若林さんにはどうしても必要だった、ということがとてもよく伝わってきて、感銘を新たにした。
「Daisy」のシリーズなど、エッジの扱いひとつで、一見した時は、幾何学的でシンプルな形状が、明らかに「彫刻」へと変じてしまっている。そんなことはわかっていたはずなのに、目の当たりにすると改めて驚かされたのである。二階への階段などから一階フロアを見下ろすと、「Daisy」の上部には謎めいた形状と色が仕組まれていて、ハッとさせられるが、一階に降りて近づいても、チビの私には背伸びしても覗く事ができない。これはやはりイライラする(チビで悪かったわね)。
随分長い時間をムサビ図書館で過ごしたと思う。
帰路、バス停で、友人の見送りであろうか淀井彩子さんらしき人が再びおられたが、やはり気後れしてお声がけなどできなかった。
その後、家人と落ち合って、国分寺・児嶋画廊での「エマニュエル・シャメルート」展に行った。この人が亡くなった、と知らされた時にはほんとにびっくりした。何年か前に、ずっとパリに住む若い友人の細木由範氏が作品展示をする、というので家人と一緒に見物に行った事がある。その展示がエマニュエルとの二人展だった。ふと目があったエマニュエルの焼き物の作品に囚われて、細木氏が案内してくれたエマニュエルのアトリエで、あれがほしい、と言ったら、快くオッケー(あ、ウィだったかな)、とっても安く譲ってくれた。その作品をお貸ししたので今回展示されているはず。そんなこともあったし、エマニュエルの奥さんのリリアンさんが来ている、というので、苦手なパーティーの日に行ったのだが、すでに飲み食いしている人たちでごった返していて、私にはとても耐えられず、初対面のリリアンさんにちょっとだけ挨拶して、すぐに帰ってきた。
これが一週間前である。随分歩いた日だった。
古くからの知り合いだった写真家・森岡純氏がひっそりと亡くなった。森岡氏は1970年代半ばあたりから、創形美術学校での師であった美術家・高山登氏の作品を撮り始め、高山氏から叱られながら写真のあれこれを身につけ、まずは森岡氏周辺、高山氏周辺の美術家たちから依頼されてさまざまな美術作品を撮影するようになった。以来ずっと、美術作品の撮影のかたわら、自分自身の写真を撮るためにカメラを持ってあちこちを歩くというスタンスで活動してきた人である。作品写真では私も何度かお世話になった。
それよりも何より、思い出深いのは、森岡氏が自分のために撮った写真の多くが、どことなく貧乏そうな風情に満ちた建物などを対象にしていたことである。それらは彼の個展で発表された。
実は、拙宅の玄関の戸を開けたら目の前にカメラを持った森岡氏がいたことがあって、拙宅のあたりをよく徘徊して撮影している、と聞いて苦笑させられた。以来、何度か拙宅を訪れてくれた。ろくな「おもてなし」もできなかったけど、、、。
森岡氏は16ミリ映画も作ったことがあって、それはスジも何もないような映画だったけど、なんと拙宅を捉えたシーンもちゃんと含まれていた。
そんなわけで、拙宅は、結構気に入った彼の被写体だったようである。ということは、拙宅がどういう建物か、すっかりバレてしまうがやむを得まい。
とはいえ、近年の拙宅近辺の変化は凄まじく、大きな道路が開通し、それがさらに先まで整いつつあり、ビルが立ち並び、森岡氏の徘徊に適する場ではなくなってしまった。もうフジムラさんの家のあたりには行かなくなった、と彼もだいぶ前から言っていて、そんな時は、なんだかとても寂しい気がしたものである。
そういうわけで、しばらく会っていなかった。
火葬場からの帰り、ふと思い立ってムサビに行った。「若林奮展」。たまたま道筋が“合理的”だった、という以外に火葬の日に訪れた意味はない。
かなり大掛かりな展覧会で正直驚いた。さすがムサビ、というべきか。会場に奥様の淀井彩子さんらしき方の姿があったが、面識もないのでお声がけなどしなかった。私は内気なのである。
会場のムサビ図書館の一階には「Daisy」のシリーズのうちの二つの連作が10点整然と並んでいた。その右奥の部屋に「所有・雰囲気・振動ー森のはずれ」。階段を登ると真っ白な空間に
黒の不定形が浮いていた(タイトルを失念)。壁に平面。隣の部屋では「森のはずれ」の修復についての映像。別の部屋には「振動尺」のシリーズ。回り込んだりしゃがんだりしながらさまざまに見入る事ができる。そして、デッサンなど各種資料が手際よく並んだ部屋。
以上のように構成されていて、大変見応えがあった。とりわけ、パリ留学から帰国後の若林氏が、彫刻をゼロ地点から考え直すために、抽象化された手指を携えた「振動尺」や、六畳間ほどの鉄の部屋、これらが若林さんにはどうしても必要だった、ということがとてもよく伝わってきて、感銘を新たにした。
「Daisy」のシリーズなど、エッジの扱いひとつで、一見した時は、幾何学的でシンプルな形状が、明らかに「彫刻」へと変じてしまっている。そんなことはわかっていたはずなのに、目の当たりにすると改めて驚かされたのである。二階への階段などから一階フロアを見下ろすと、「Daisy」の上部には謎めいた形状と色が仕組まれていて、ハッとさせられるが、一階に降りて近づいても、チビの私には背伸びしても覗く事ができない。これはやはりイライラする(チビで悪かったわね)。
随分長い時間をムサビ図書館で過ごしたと思う。
帰路、バス停で、友人の見送りであろうか淀井彩子さんらしき人が再びおられたが、やはり気後れしてお声がけなどできなかった。
その後、家人と落ち合って、国分寺・児嶋画廊での「エマニュエル・シャメルート」展に行った。この人が亡くなった、と知らされた時にはほんとにびっくりした。何年か前に、ずっとパリに住む若い友人の細木由範氏が作品展示をする、というので家人と一緒に見物に行った事がある。その展示がエマニュエルとの二人展だった。ふと目があったエマニュエルの焼き物の作品に囚われて、細木氏が案内してくれたエマニュエルのアトリエで、あれがほしい、と言ったら、快くオッケー(あ、ウィだったかな)、とっても安く譲ってくれた。その作品をお貸ししたので今回展示されているはず。そんなこともあったし、エマニュエルの奥さんのリリアンさんが来ている、というので、苦手なパーティーの日に行ったのだが、すでに飲み食いしている人たちでごった返していて、私にはとても耐えられず、初対面のリリアンさんにちょっとだけ挨拶して、すぐに帰ってきた。
これが一週間前である。随分歩いた日だった。