立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
山楽、山雪、応挙を見た
2013-08-09
東京国立博物館での「円空展」を見た。
京都出張があったので、時間をやりくりして、京都国立博物館で「狩野山楽・山雪展」を見た。帰路、思い切って名古屋に寄って、愛知県立美術館で「円山応挙展」も見た。会期終了直前、滑り込みセーフだった。
すでに二日間経過しているのに、お腹一杯である。というか、まだへとへとである。
京都駅から京都国立博物館へ行くときは、いつも七条をてくてく歩く。すでに桜の季節は過ぎた。新緑が次々に芽吹いている。クスなどはこれから本格的に色づく。すれ違う人々に、いつになく白人の観光客が多く見受けられた。こんなところにも、円安の影響があるのだろうか、とか思っているうちに博物館に着いた。
京都国立博物館の常設館が建て替え工事に入ってから久しい。最近、やっと建物の形状が現れてきた。大きな建物である。以前、京都国立博物館の常設展示の絵画部門は二か月に一度展示替えをしていた。それに気付いて、京都に出張するときには、できるだけ博物館に寄るようにした。特別展がごった返している時も、常設展は空いていた。どんな時も、びっくりするようなものがさりげなく展示されていて、本当に贅沢な時間を過ごすことができた。
ある時、狩野元信の水墨の掛け軸を見て、ああ、これからどんなに頑張っても、俺にはもうこういう線は引けそうにないかもしれない、いや、もう絶対に引けない、俺はさぼりすぎた、と思ったことがあった。それはすぐに心の奥深くしまいこんだ。そうでもしなければ、やりきれなかった。何年か前の「狩野永徳展」の時にそれを思い出しかけたが、目の前に現れ出る作品群の余りと言えば余りの分量と大きさに圧倒されているうちに、忘れてしまったふりができた。それなのに、今回はすでに思い出してしまって、いやな予感がした。
予感通り、圧倒されたのである。とりわけ、山雪の「長恨歌画巻」二巻にはびっくり仰天。一部の隙もないものすごい集中力にタジタジとさせられた。こうしたものを作り上げてしまう「狩野派」というものの底力というか、ゆるぎない教養の深さを見せつけられ、この位描けなければ絵描きとは言わない、と言われたような気がした。一方では同じ巻物でも、いかにも軽やかで巧みな「武家相撲絵巻」のようなものもあった。なるほどなあ、昔の人は、何でもどのようにでも描けて当然なのだった。それが「絵師」といわれる人たちなのであった。
会場には、京狩野秘伝の“教則本”が初展示されていて、これが実に興味深かった。描き出すものによって筆の使い方を選び取ることや、人体の描き方、とりわけ頭部の捉え方、考え方、人体を捉えたうえでそこに着物を着せて襞を捉えるという合理的な考え方などが読み取れるものだ。じつに親切で重宝な“教則本”である。『介子園画伝』の狩野派版とでも言えるかもしれない。「描き方」がじつに合理的な「見方」にのっとって体系化されている。勉強不足でこうした“教則本”の存在を知らなかった。できれば、もう少し詳しく知りたい。
会場に展示されている屏風、襖絵、掛け軸。どれも素晴らしかった。江戸に行かずに京都に残った気概のようなものが少しだけ分かったように思う。
名古屋で見た円山応挙にも“ごめんなさい!”であった。山楽・山雪に比べると、いかにも華やか、軽やかで、なるほど町衆の支持を集めて当然だったわけだ、と素直に理解できる。「山楽・山雪展」から時を置かず、名古屋にやってきて「応挙展」を見たが故の印象だが、おそらく誤ってはいないはずである。狩野派はやはり重厚である。
会場入ってすぐのところに、絽の着物の女性と一緒の大石内蔵助を描いた絵があった。女性は赤い腰巻以外は素肌に着物を纏っている。絽の着物だから当然中が透けて見える。京都で見た狩野派の“教則本”の通り、というか、人体と着物との関係が顕わな状況である。二つの展覧会のそんな共通点に興味を持った。
京都出張があったので、時間をやりくりして、京都国立博物館で「狩野山楽・山雪展」を見た。帰路、思い切って名古屋に寄って、愛知県立美術館で「円山応挙展」も見た。会期終了直前、滑り込みセーフだった。
すでに二日間経過しているのに、お腹一杯である。というか、まだへとへとである。
京都駅から京都国立博物館へ行くときは、いつも七条をてくてく歩く。すでに桜の季節は過ぎた。新緑が次々に芽吹いている。クスなどはこれから本格的に色づく。すれ違う人々に、いつになく白人の観光客が多く見受けられた。こんなところにも、円安の影響があるのだろうか、とか思っているうちに博物館に着いた。
京都国立博物館の常設館が建て替え工事に入ってから久しい。最近、やっと建物の形状が現れてきた。大きな建物である。以前、京都国立博物館の常設展示の絵画部門は二か月に一度展示替えをしていた。それに気付いて、京都に出張するときには、できるだけ博物館に寄るようにした。特別展がごった返している時も、常設展は空いていた。どんな時も、びっくりするようなものがさりげなく展示されていて、本当に贅沢な時間を過ごすことができた。
ある時、狩野元信の水墨の掛け軸を見て、ああ、これからどんなに頑張っても、俺にはもうこういう線は引けそうにないかもしれない、いや、もう絶対に引けない、俺はさぼりすぎた、と思ったことがあった。それはすぐに心の奥深くしまいこんだ。そうでもしなければ、やりきれなかった。何年か前の「狩野永徳展」の時にそれを思い出しかけたが、目の前に現れ出る作品群の余りと言えば余りの分量と大きさに圧倒されているうちに、忘れてしまったふりができた。それなのに、今回はすでに思い出してしまって、いやな予感がした。
予感通り、圧倒されたのである。とりわけ、山雪の「長恨歌画巻」二巻にはびっくり仰天。一部の隙もないものすごい集中力にタジタジとさせられた。こうしたものを作り上げてしまう「狩野派」というものの底力というか、ゆるぎない教養の深さを見せつけられ、この位描けなければ絵描きとは言わない、と言われたような気がした。一方では同じ巻物でも、いかにも軽やかで巧みな「武家相撲絵巻」のようなものもあった。なるほどなあ、昔の人は、何でもどのようにでも描けて当然なのだった。それが「絵師」といわれる人たちなのであった。
会場には、京狩野秘伝の“教則本”が初展示されていて、これが実に興味深かった。描き出すものによって筆の使い方を選び取ることや、人体の描き方、とりわけ頭部の捉え方、考え方、人体を捉えたうえでそこに着物を着せて襞を捉えるという合理的な考え方などが読み取れるものだ。じつに親切で重宝な“教則本”である。『介子園画伝』の狩野派版とでも言えるかもしれない。「描き方」がじつに合理的な「見方」にのっとって体系化されている。勉強不足でこうした“教則本”の存在を知らなかった。できれば、もう少し詳しく知りたい。
会場に展示されている屏風、襖絵、掛け軸。どれも素晴らしかった。江戸に行かずに京都に残った気概のようなものが少しだけ分かったように思う。
名古屋で見た円山応挙にも“ごめんなさい!”であった。山楽・山雪に比べると、いかにも華やか、軽やかで、なるほど町衆の支持を集めて当然だったわけだ、と素直に理解できる。「山楽・山雪展」から時を置かず、名古屋にやってきて「応挙展」を見たが故の印象だが、おそらく誤ってはいないはずである。狩野派はやはり重厚である。
会場入ってすぐのところに、絽の着物の女性と一緒の大石内蔵助を描いた絵があった。女性は赤い腰巻以外は素肌に着物を纏っている。絽の着物だから当然中が透けて見える。京都で見た狩野派の“教則本”の通り、というか、人体と着物との関係が顕わな状況である。二つの展覧会のそんな共通点に興味を持った。