254 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

画家・数野繁夫さんについて(3)
2014-08-05
結局、私は二年間数野さんのクラスにいて、芸大に合格できた。別の時にも書いたが、合格後すぐ「どばた」の夜間部の雑役のアルバイトを一年間引き受けたので、数野さんとはよく会った。時に居酒屋に連れて行ってくれて、自分の学生時代のことや友達のこと、絵のことなどを話してくれた。絵にはリズムが一番大事だ、という話やジャコメッティーの話などが思い出される。卒業制作は長い間描いていた絵をやめてしまって一気に短時間で描いた、という話も居酒屋で聞いた。
その後も、私を講習会の講師に呼んでくれたり、昼間部の講師に呼んでくれたりした。私は数野さんにお世話になり続けてきた。
1981年3月、長く「どばた」昼間部の絵画科主任だった数野さんが「どばた」をやめるとき、「『すいどーばた』は私の青春そのものだった」と挨拶したことが忘れられない。次の年に、私も三年半務めた「どばた」の講師をやめた。面白かったけど、心底疲れたからだ。あのような過酷な仕事を数野さんは長く続けてきたのだから、さぞ疲れていただろうと、と思う。その後は、展覧会の案内をもらったら見に行って、会えば少し話をする、といった関係が続いていた。
数野さんの絵は、一時ほとんど抽象画のようになったが、奥様のみはるさんとの結婚が契機になったのかどうか、奥様の肖像や蝉捕りの少年(息子さん?)のような人物像を含めて、野菜や瓶など、身近の事物をモチーフの中心にしつつ、骨太な構造を探求することは譲らない、という姿勢は揺らぐことがなかった、と思う。
入院治療が続いていることを聞いて、お見舞いに行こうと思っているうちに、どんどん日が経って、今になってしまった。残念でならない。
よい人に教わった幸運を改めて感謝したい。

画像:「オドビスの花」1999年
画家・数野繁夫さんについて(2)
2014-08-05
数野さんは、つい何年か前までゲーダイ=芸大の油画科で脇田和の助手をしていたこと、学生時代は山口薫の研究室だったこと、学部の卒業制作は主席・買い上げだったこと、など、私もいつの間にか知るようになった。
『アトリエ』という受験生のための当時の“指南書”に、数野さんの「とげ抜き」のデッサンの制作過程が載っていることを誰かから教えてもらって、本屋に見に行ったりもした。廊下に貼られた案内はがきを見つけて、数野さんの絵を見に行ったこともある。鯉のぼりが描かれた絵だった。
そうこうしているうちに、一学期も終わり近くになり、数野さんが個人面談をするという。
私の番になって、階段脇の小さな部屋に入ると、まあ、すわれ、と言われた。そして、おまえ、家でなにやってるの? ときかれた。私は、百姓です、と答えた。数野さんは笑いながら、そうじゃなくて、ここから帰ったあと何をしてるのか、ってきいてるんだよ、と言った。あれま。
そのあとのことは、まったく覚えていない。気がつくと、数野さんは夏休みにヨーロッパを回るんだって、と誰かが話していた。
二学期、数野さんが無事に帰ってきたから、とクラスでコンパがあった。私は思い切って数野さんの席に行って、どこが一番印象に残っていますか? と尋ねてみた。即座に、ギリシャだ、と返ってきた。コンパは、その後、飲みなれない連中があちこちで倒れて救急車が出た。救急隊員が怒っていた。なんだか、とてもなつかしい。
やがて私にも、数野さんがどういう時に学生に声をかけているか、が分かるようになってきた。見ている実感がよく伝わるばかりでなく、何か目的意識を持って描いている、という時に、声掛けしているのだった。なるほど、のんべんだらりと描いていてもだめなんだ。
加えて、講評会の時など、思いがけない絵に対して数野さんが発する言葉に、目を覚まされたものだ。たとえそれが、コンクールの選外、いわゆる“お蔵入り”の絵でも、数野さんは、ここがよい、と思った絵を、わざわざ探して取り出してみんなに示し、この絵は、確かに成績は良くないが、こことここのベタ塗りのこの形の組み合わせが、絵の中の「空間」を形作っている、こういうことができるのは素晴らしい、頑張れ、という具合に言うのだった。二度三度そういう話を聞くと、描写することと構造のようなものを形作ることとの関係を意識せざるを得なくなり、そして、少しずつ、数野さんが言わんとすることが理解できるような気がしたものである。
「絵の中のほんと」という難解な言葉もよく飛び出したし、「あたりまえのものをあたりまえに」ということもよく言った。苛立った時には、「あと1分でこれを描けなかったらおまえを殺す、って言われたらどこを描くか?」という言い方もした。
めったにないことだが、直接、学生の絵に手を入れることもあって、そんな時、後ろから見ていると、筆を入れるたびごとにぐいぐい絵が大きくなっていく。本当にびっくりした。ぜんぜん力が違うことを見せつけられた。
数野さんは理屈っぽいことは殆ど言わない。しかし、絵に骨太の構造を求める数野さんの姿勢は、数野さんに教わった者たちへ確かに伝わっていた、と思う。                つづく

画像:「サンマルツアーの種のあるトマトのある風景」2000年
画家・数野繁夫さんについて(1)
2014-08-05
7月19日、画家・数野繁夫さんの奥様、みはるさんから暑中見舞いのはがきが拙宅に届いた。そこには、昨年(2013年)12月に数野さんが亡くなったことが記されてあった。病気療養が続いていたことは知っていたが、亡くなったことは全く知らず、びっくりした。そして、いろいろなことが思い出された。数野さんについて書こうと思う。
数野さんと出会ったのは、もう40年以上前。以来、私は、数野さんを大事な恩人のひとりだと思っている。私は、絵の見方、考え方を一から数野さんに教わった。
1970年6月末、私は、絵描きになりたい、と思って、北海道帯広市から上京した。
高校を卒業しても田舎でうろうろしていた私を見て、心配したある人が、ほんとに絵描きになりたいのだったら東京に行って勉強してゲーダイというところに行かなければだめだ、と忠告してくれたのを信用しての上京だった。しかし、東京には「美術研究所」というところがあってそこで勉強できる、という以外、何の情報もなかった。だから、上京後すぐ、ともかく山手線に乗って、窓から外を見て「美術研究所」というものを探した。鴬谷と日暮里の間に「寛永寺坂美術研究所」という看板を見つけて、そこを訪ねて入れてもらった。しばらくしてから、ゲーダイというところに入るためにはそれ専門の予備校があることを知った。
71年3月の受験も失敗し、次の年は「どばた」という予備校に通うことにした。4月、クラスの発表があって、私は「数野クラス」だった。「すうの」と読むのか「かずの」と読むのか、ともかく指定された教室に行くと、遅刻したわけでもないのに、学生がもうびっしり満杯で石膏デッサンをしていた。のんびりした「寛永寺坂美術研究所」とは全く違った様子に面食らった。やむをえず、三列目の隅の方にわずかなスペースを見つけてそこで描いた。やがて、気に入った場所で描くためには、月曜の朝6時半くらいに来て教室が開くのを待っていなければならないことを、誰かから教えてもらった。
数野(かずの)さんは、週二回、そんな教室に現れるのだが、後ろからざっと見回して、幾人かに二言三言声をかけ、それでもう消えるのだった。一学期の間、私に声がかかることはほとんどなかった。いま考えると、ものを見ないで、から回りばかりの、“絵以前”の状態だったから、声のかけようがなかったのであろう。 つづく

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