立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
再び「ジャコメッティ展」に行ってきた
2017-08-25
そういうわけで、も一回、国立新美術館のジャコメッティ展に行ってきた。会期終了間際の週日午前。
まず、展示されていた「キューブ」に絵は刻み込まれていなかった。絵に気付かなかったのは当然のことだったのである。
手元のジョルジュ・ディディ=ユベルマン『キューブと顔』(石井直志訳、パルコ出版、1995年)の163ページと167ページとには、それぞれ「キューブ」に刻み込まれた線画を示す部分写真を図版にして掲載している。それは鮮明な図版ではないが、石膏ではなくブロンズのように見える。
ユベルマンはこの本の冒頭で、「キューブ」は1934年のはじめに石膏で制作され、1954年から1962年にかけてブロンズ鋳造された、と書いていて、その石膏の状態の「キューブ」の写真図版も二枚掲載している。(こうして始まるユベルマンのこの本はとても面白いが、深入りしない。)
加えてユベルマンは次のように書いている。
「一九三九年代末か一九四〇年代中頃のある日、ジャコメッティは突然、」「作品に自身の刻印を残し、決定的な自身の痕跡を刻み、あるいは作品を決定的な自身の痕跡そのものにしようとした」。
具体的にはこうだ。
「多面体の上部の面の一つ」に「ジャコメッティは深く、切り込むように、顔を線描している」。(160ページ)
「さらに、自画像の描かれた面に隣接する面にもデッサンが存在していて、それは多面体そのものを描いている。」(168ページ)
ということは、「キューブ」は1934年に石膏で制作され(今回の展示のキャプションには「1934/35年」とあった)、1954年から1962年のいずれかの時期にブロンズに鋳造されたのであれば、1939年末か1940年中頃に石膏作品に書き込まれた(はず)の線画はブロンズ鋳造に残っているはず。展示作品にはそれがなかった。あれま、なぜか? と詮索したくなるのは悪いクセ。
で、帰宅して手元の資料をあれこれひっくり返してみると、どうやらマーグ美術財団の「キューブ」はツルツルで、チューリッヒのジャコメッティ財団の「キューブ」には線画があるらしいことまでは分かってきた。それは複数の図版で確認できる。では、「キューブ」をブロンズ鋳造した時期や数、所蔵先について記載のある資料が手元にあるか、といえば、ない。調べるスベもない。なんかスッキリしないけど。
でも、もし、「キューブ」に線画があったら、フロッタージュしたい、という欲望を抑えるのに苦労しただろう。「自称・美術家のじじい、ジャコメッティ作品をフロッタージュしようとして逮捕」なんて新聞記事にならなくてよかった。マネする人が出るからね。
とはいえ、二度目に訪れることができてとてもよかった。やはり作品にはとても感動させられた。本当は、その感動の内実を書かねばならないのだけど、文才がなさ過ぎてムリ。ある種の“感触”を胸にとどめておくのだけで精一杯。
ここで、苦言。
彫刻作品をアクリルケースで“保護”するのはまだしも、複数の彫刻作品を大きな台に並べてしまうセンスが理解できない。理由は簡単。彫刻作品は一点ずつ横からも背後からも鑑賞できるようにするべきだから。
また、ジャコメッティの彫刻に“正面性”のようなものがあるのは否定できないにしても、台上に横一列に並べたり、背後が真っ暗になってしまってもよいと言うような照明を許容したり、背後に回り込めないように作品を設営したりなど、いかがなものだろうか。言い換えれば、照明や設営で観客を誘導しすぎているのではないか。それは鑑賞者の受容の中身を押しつけることに繋がってさえいるのではないか。
以上のような“問題”にもめげず、初期作品はじめ、なるほど、さすがジャコメッティ、と改めて心底感じ入ったのだった。美術館側の“演出”が鼻につくのも結局苦にならなかったのはジャコメッティの作品の力ゆえであろう。満足して帰路について「キューブ」の線画を調べ始めたのだった。
残暑御見舞!
2017年8月23日 東京にて
まず、展示されていた「キューブ」に絵は刻み込まれていなかった。絵に気付かなかったのは当然のことだったのである。
手元のジョルジュ・ディディ=ユベルマン『キューブと顔』(石井直志訳、パルコ出版、1995年)の163ページと167ページとには、それぞれ「キューブ」に刻み込まれた線画を示す部分写真を図版にして掲載している。それは鮮明な図版ではないが、石膏ではなくブロンズのように見える。
ユベルマンはこの本の冒頭で、「キューブ」は1934年のはじめに石膏で制作され、1954年から1962年にかけてブロンズ鋳造された、と書いていて、その石膏の状態の「キューブ」の写真図版も二枚掲載している。(こうして始まるユベルマンのこの本はとても面白いが、深入りしない。)
加えてユベルマンは次のように書いている。
「一九三九年代末か一九四〇年代中頃のある日、ジャコメッティは突然、」「作品に自身の刻印を残し、決定的な自身の痕跡を刻み、あるいは作品を決定的な自身の痕跡そのものにしようとした」。
具体的にはこうだ。
「多面体の上部の面の一つ」に「ジャコメッティは深く、切り込むように、顔を線描している」。(160ページ)
「さらに、自画像の描かれた面に隣接する面にもデッサンが存在していて、それは多面体そのものを描いている。」(168ページ)
ということは、「キューブ」は1934年に石膏で制作され(今回の展示のキャプションには「1934/35年」とあった)、1954年から1962年のいずれかの時期にブロンズに鋳造されたのであれば、1939年末か1940年中頃に石膏作品に書き込まれた(はず)の線画はブロンズ鋳造に残っているはず。展示作品にはそれがなかった。あれま、なぜか? と詮索したくなるのは悪いクセ。
で、帰宅して手元の資料をあれこれひっくり返してみると、どうやらマーグ美術財団の「キューブ」はツルツルで、チューリッヒのジャコメッティ財団の「キューブ」には線画があるらしいことまでは分かってきた。それは複数の図版で確認できる。では、「キューブ」をブロンズ鋳造した時期や数、所蔵先について記載のある資料が手元にあるか、といえば、ない。調べるスベもない。なんかスッキリしないけど。
でも、もし、「キューブ」に線画があったら、フロッタージュしたい、という欲望を抑えるのに苦労しただろう。「自称・美術家のじじい、ジャコメッティ作品をフロッタージュしようとして逮捕」なんて新聞記事にならなくてよかった。マネする人が出るからね。
とはいえ、二度目に訪れることができてとてもよかった。やはり作品にはとても感動させられた。本当は、その感動の内実を書かねばならないのだけど、文才がなさ過ぎてムリ。ある種の“感触”を胸にとどめておくのだけで精一杯。
ここで、苦言。
彫刻作品をアクリルケースで“保護”するのはまだしも、複数の彫刻作品を大きな台に並べてしまうセンスが理解できない。理由は簡単。彫刻作品は一点ずつ横からも背後からも鑑賞できるようにするべきだから。
また、ジャコメッティの彫刻に“正面性”のようなものがあるのは否定できないにしても、台上に横一列に並べたり、背後が真っ暗になってしまってもよいと言うような照明を許容したり、背後に回り込めないように作品を設営したりなど、いかがなものだろうか。言い換えれば、照明や設営で観客を誘導しすぎているのではないか。それは鑑賞者の受容の中身を押しつけることに繋がってさえいるのではないか。
以上のような“問題”にもめげず、初期作品はじめ、なるほど、さすがジャコメッティ、と改めて心底感じ入ったのだった。美術館側の“演出”が鼻につくのも結局苦にならなかったのはジャコメッティの作品の力ゆえであろう。満足して帰路について「キューブ」の線画を調べ始めたのだった。
残暑御見舞!
2017年8月23日 東京にて
「ジャコメッティ」展を見た
2017-08-25
東京・六本木・国立新美術館で開催中の「ジャコメッティ」展を見た。
あのマーグ財団からの作品を中心にして、最初期の作品から晩年のリトグラフまで、ほぼ年代順に整理されての展示だ。見応えがある。
彫刻作品では、かなりの数の作品がアクリルのケースに入っていて隔靴掻痒の感も否めない。が、アクリル板への写り込みやケースの稜近辺に生じてしまっている屈折による像の歪みなどが結構カッコよくて、思いがけない楽しみ方ができる。作品と作品とのあいだに見える向こうの作品との関係などもカッコよい。それはジャコメッティの作品ゆえか、会場構成=インスタレーションの成功ゆえか、判然としない。つい作品に見入ってしまって我を忘れ、やがて息を吐きながら視線をそらした時、壁の白さだけが眼に飛び込んでくる、そんな場面も多々あったが、このタイミングすらも会場構成に組み込まれているようにさえ感じさせられたのだった。とはいえ、ジャコメッティの作品なしに同様のことができるか、といえばその答えは明らかであろう。
彫刻作品では、つい周囲を巡ったり、膝を使って眼の高さを変化させたり、近寄ったり離れたりで作品との距離を変化させたり、など、させられてしまう。膝をなかば曲げて眼の高さをやや低いところに置くと、息をのむくらいカッコいい作品が多い。そのカッコよさに長い間浸っていようとすると、まるで筋トレになる。このように、ジャコメッティの彫刻作品は、ここから見てね、と促してくるのである。膝を曲げながら作品の周囲を巡ろうとすると、太腿がプルプルし始める。ホドホドにするのがよい、と判断した。
彫刻作品の周囲を巡ることを自然に促される、といえば、「キューブ」でそれがとりわけ顕著だ。わずかに眼の位置が移動するだけで、作品の相貌が激変する。出会い頭に一瞥する形状がもうそれだけでカッコいいので引きつけられるだけでなく、つい回りを巡りたくなるのだ。どの面もわずかに膨らんでいるのと、稜がまっすぐでシャープだということが主要な理由であろう。なので、膨らみの向こうと断ち切られた稜線の向こうとの対比が次々に生じ、つい、ひと回りもふた回りも反対回りもしてしまう。近寄ったり離れたり、背伸びしたりしゃがんだりさえもして、心ゆくまで相貌の変化を楽しんでしまうのである。
そういえば、ユベルマンというひとがこの作品をめぐって一冊の本を書いていたことを思い出していた。私も翻訳で読んだことがあったはずだ。しかし、不覚にも中身をすっかり忘れてしまっていた。大変に精緻な内容だった、という感触だけがある。帰宅して、本棚を引っ掻き回して探し出しパラパラしてみると、あれま、上を向いた面上にニードル様のもので引っ掻いて描いたデッサンがあることを手掛かりに論が進行している。あれま、あんなに見入ったのにデッサンがあったことにはまったく気付いていなかった。えーん。すごく損した気分になった。ま、も一回見に行けば済むことだが。
眼の位置がわずかに動くと作品の相貌が激変するのは、なにも「キューブ」に限らない。それは彫刻と言われる表現形式の特質だといえる。とはいえ、ジャコメッティの彫刻には正面性というか、既に述べたことだが、正面のある一点から見てね、というようなところがある。その「一点」をさがす楽しみもあるのだ。もっともそれは私なりの楽しみ方。どう楽しもうが、当然のことながら自由なのである。
会場入り口すぐに置かれていた大きな立像では、横に回らなければ、下半身に対して上半身がわずかなズレ=捻りが作り出されていることに気付けなかった。それに気付いたあとに、もう一度正面から見ると、じつに生き生き感じられてくる。そのことは、いつのまにか「ジャコメッティ」という“形式”に慣れてしまっていて、見ることがおろそかになってしまっている、ということだろう。見るということを絶えず更新することをジャコメッティの作品は観客に求めてくる。
台座、といってよいかどうか、足下の直方体の形状のことも興味深い。手前が低く、奥が高くなっているものが多数ある。なぜそうした形状になったのか?
「私の彫刻はここから見てね」とジャコメッティが促してくることと関係がありそうだが、この文では深入りしない。
デッサンも素晴らしい。とりわけ、最初期の人体デッサンの出品には感激した。
また、先日、ある方が、最晩年の版画集『終わりなきパリ』の普及版であろうか、惜しげもなく私にしばらく貸して下さった。おかげで私は毎日見入ることができた。素晴らしい作品集だった。そのオリジナル本と収録されている版画の一部が展示されていたのも思いがけないことで嬉しかった。
それにしても会場を冷やし過ぎ。寒いぞ!
2017年6月29日 東京にて
あのマーグ財団からの作品を中心にして、最初期の作品から晩年のリトグラフまで、ほぼ年代順に整理されての展示だ。見応えがある。
彫刻作品では、かなりの数の作品がアクリルのケースに入っていて隔靴掻痒の感も否めない。が、アクリル板への写り込みやケースの稜近辺に生じてしまっている屈折による像の歪みなどが結構カッコよくて、思いがけない楽しみ方ができる。作品と作品とのあいだに見える向こうの作品との関係などもカッコよい。それはジャコメッティの作品ゆえか、会場構成=インスタレーションの成功ゆえか、判然としない。つい作品に見入ってしまって我を忘れ、やがて息を吐きながら視線をそらした時、壁の白さだけが眼に飛び込んでくる、そんな場面も多々あったが、このタイミングすらも会場構成に組み込まれているようにさえ感じさせられたのだった。とはいえ、ジャコメッティの作品なしに同様のことができるか、といえばその答えは明らかであろう。
彫刻作品では、つい周囲を巡ったり、膝を使って眼の高さを変化させたり、近寄ったり離れたりで作品との距離を変化させたり、など、させられてしまう。膝をなかば曲げて眼の高さをやや低いところに置くと、息をのむくらいカッコいい作品が多い。そのカッコよさに長い間浸っていようとすると、まるで筋トレになる。このように、ジャコメッティの彫刻作品は、ここから見てね、と促してくるのである。膝を曲げながら作品の周囲を巡ろうとすると、太腿がプルプルし始める。ホドホドにするのがよい、と判断した。
彫刻作品の周囲を巡ることを自然に促される、といえば、「キューブ」でそれがとりわけ顕著だ。わずかに眼の位置が移動するだけで、作品の相貌が激変する。出会い頭に一瞥する形状がもうそれだけでカッコいいので引きつけられるだけでなく、つい回りを巡りたくなるのだ。どの面もわずかに膨らんでいるのと、稜がまっすぐでシャープだということが主要な理由であろう。なので、膨らみの向こうと断ち切られた稜線の向こうとの対比が次々に生じ、つい、ひと回りもふた回りも反対回りもしてしまう。近寄ったり離れたり、背伸びしたりしゃがんだりさえもして、心ゆくまで相貌の変化を楽しんでしまうのである。
そういえば、ユベルマンというひとがこの作品をめぐって一冊の本を書いていたことを思い出していた。私も翻訳で読んだことがあったはずだ。しかし、不覚にも中身をすっかり忘れてしまっていた。大変に精緻な内容だった、という感触だけがある。帰宅して、本棚を引っ掻き回して探し出しパラパラしてみると、あれま、上を向いた面上にニードル様のもので引っ掻いて描いたデッサンがあることを手掛かりに論が進行している。あれま、あんなに見入ったのにデッサンがあったことにはまったく気付いていなかった。えーん。すごく損した気分になった。ま、も一回見に行けば済むことだが。
眼の位置がわずかに動くと作品の相貌が激変するのは、なにも「キューブ」に限らない。それは彫刻と言われる表現形式の特質だといえる。とはいえ、ジャコメッティの彫刻には正面性というか、既に述べたことだが、正面のある一点から見てね、というようなところがある。その「一点」をさがす楽しみもあるのだ。もっともそれは私なりの楽しみ方。どう楽しもうが、当然のことながら自由なのである。
会場入り口すぐに置かれていた大きな立像では、横に回らなければ、下半身に対して上半身がわずかなズレ=捻りが作り出されていることに気付けなかった。それに気付いたあとに、もう一度正面から見ると、じつに生き生き感じられてくる。そのことは、いつのまにか「ジャコメッティ」という“形式”に慣れてしまっていて、見ることがおろそかになってしまっている、ということだろう。見るということを絶えず更新することをジャコメッティの作品は観客に求めてくる。
台座、といってよいかどうか、足下の直方体の形状のことも興味深い。手前が低く、奥が高くなっているものが多数ある。なぜそうした形状になったのか?
「私の彫刻はここから見てね」とジャコメッティが促してくることと関係がありそうだが、この文では深入りしない。
デッサンも素晴らしい。とりわけ、最初期の人体デッサンの出品には感激した。
また、先日、ある方が、最晩年の版画集『終わりなきパリ』の普及版であろうか、惜しげもなく私にしばらく貸して下さった。おかげで私は毎日見入ることができた。素晴らしい作品集だった。そのオリジナル本と収録されている版画の一部が展示されていたのも思いがけないことで嬉しかった。
それにしても会場を冷やし過ぎ。寒いぞ!
2017年6月29日 東京にて
石川九楊展「書だ!」に行ってきたその3
2017-08-09
「サンマ」の文字は誰でも読めるように太く大きく明瞭である。その周囲に走る筆あとに目を凝らせば、「くさき香世界/にみち/満ちて/やっとついた/ヒロシマは死人/をやく匂いにみちてい/たそれはサンマ/を焼くにおい/それはサンマを焼/く匂い/林幸子」と読める。あれま、ただ事ではない。死人を焼く匂いはサンマを焼く匂いと同じだ、と、あの原爆のあとやっとの思いでヒロシマを訪れた林さんは言っているのだ。それを石川九楊氏があのように書いたわけだ。パッと目を引く「サ」「ン」「マ」の三文字が、上記のような文脈に位置付けられて確かな意味を持つまで、私はかなりの集中を強いられながら周囲の書字の判読をしなければならなかった。しかし、この私の側の努力は確かに必要だった。立ち上げって来た言葉=詩句(?)を前に、私はほんとにびっくりしていた。
さらに、すぐ隣には「生まぐさい/血の臭い/死臭/栗原/貞子」と読める。まさに「死篇」である。このように、鑑賞者が一定の努力を強いられるのは当たり前なのだ。そうしないと開かれない世界がある。
「死篇」全体では、これ以上はもうない、というくらい多様な方法による書字が試みられている。その意味でも氏の70年代の仕事の総決算と言えるのではないか。ほんとうに見応えがあって、もっともっと見ていたかったが、それでもなお、どうにも判読できないところが多々あって悔しかったのは白状しなければならない。しかし、途方に暮れるほどの筆あとから、グイッと文字=言葉が立ち上がって来るときの力動感の一端は充分体感できた。その“立ち上がり感”は氏のその後の仕事にも一貫して保持されている。その意味では「死篇」は今日の氏の展開を予言している。すでに古典からの引用が多くを占め、80年代の幕開けにもふさわしかったほんとうに力のこもった作品だ。80年代の仕事を氏は「古典への退却」と言うが、どっこい素晴らしい仕事だ。しかし、正直私は「死篇」で体力を使い果たしてしまった。「歎異抄(全文)No.18」以降はふらふらになった。
気がつけば「李賀詩」のシリーズは「歎異抄(全文)No.18」から4年後の作。「No.18」などのグレイの変容が「李賀詩」の黒というべきかもしれない。
ともかく、今回出品されなかった60年代末の仕事や、70年代の他の諸作もいつかは見たい。そんな時が来ることを心から期待している。
この文を書いているうちに既に展覧会は終了してしまった。今日はまたも暑い。
2017年7月31日 東京にて
さらに、すぐ隣には「生まぐさい/血の臭い/死臭/栗原/貞子」と読める。まさに「死篇」である。このように、鑑賞者が一定の努力を強いられるのは当たり前なのだ。そうしないと開かれない世界がある。
「死篇」全体では、これ以上はもうない、というくらい多様な方法による書字が試みられている。その意味でも氏の70年代の仕事の総決算と言えるのではないか。ほんとうに見応えがあって、もっともっと見ていたかったが、それでもなお、どうにも判読できないところが多々あって悔しかったのは白状しなければならない。しかし、途方に暮れるほどの筆あとから、グイッと文字=言葉が立ち上がって来るときの力動感の一端は充分体感できた。その“立ち上がり感”は氏のその後の仕事にも一貫して保持されている。その意味では「死篇」は今日の氏の展開を予言している。すでに古典からの引用が多くを占め、80年代の幕開けにもふさわしかったほんとうに力のこもった作品だ。80年代の仕事を氏は「古典への退却」と言うが、どっこい素晴らしい仕事だ。しかし、正直私は「死篇」で体力を使い果たしてしまった。「歎異抄(全文)No.18」以降はふらふらになった。
気がつけば「李賀詩」のシリーズは「歎異抄(全文)No.18」から4年後の作。「No.18」などのグレイの変容が「李賀詩」の黒というべきかもしれない。
ともかく、今回出品されなかった60年代末の仕事や、70年代の他の諸作もいつかは見たい。そんな時が来ることを心から期待している。
この文を書いているうちに既に展覧会は終了してしまった。今日はまたも暑い。
2017年7月31日 東京にて
石川九楊展「書だ!」に行ってきたその2
2017-08-09
そして、特設の台上に延べられた全長85メートルという1980年作の「エロイエロイラマサバクタニ又は死篇」(以下「死篇」と表記する)。
この驚嘆すべき作品は、70年代の氏の仕事の総決算であるとともに、「李賀詩」とは別の意味で今日の氏の仕事に繋がるすべてが含まれていると思われた。
まず、70年代の総決算ということについて。
70年代の氏の仕事は、今回6点の大作が会場一階の壁に展示されていたが、総じて、幼少期からの修練で身についた教養を解体するために、であろうか、紙を薄墨で染め、相互に継いで大きくし、書く墨の色も濃くはなく、筆の穂の根元を紙に強く押しつけたまま書いたかのようで、縦に横に斜めに、時に逆さまに、大きくも小さくも書いていて、線や塗りさえもためらいなく加えられている。貼り継がれて巨大になった紙の形状が、「艶歌へ」(1977年)のように不定形になったのもあるし、「言葉は雨のように降りそそいだ 私約イエス伝」(1975年)や「はぐれ鳥とべ」(1978年)のように縦長の同一サイズのものが複数で1点をなしているのもある。書かれている字は、大部分なんとか判読できるが、習字のお手本や活字のような形状の字ではないから、判読にはかなりの努力を要する。さらに注意深く見ていけば、6点の作品は、それぞれ異なった問題を設定しているのが明らかに見て取れ、氏の取り組みの真摯さが伝わってくる。1点ずつ検討していく余裕はここにはないが、いずれも、書の定石のようなものをどう脱臼させ、どう自分の表現を実現するかということに挑んでいる。
それで、「死篇」である。
70年代初頭にはすでに、「神よ、神よ、どうして私をお見捨てになったのですか」という意味の、キリストが喋っていたというアラム語をカタカナ表記してタイトルとした「エロイ・エロイ・ラマサバクタニ」(1972年)がある。6畳もの大きさのあるこの作品は、手応えを得た最初の作品だ、という意味のことを氏自身があちこちで語っている。筆を力ずくで紙に押し付け、ほとんど軸で書いたような印象で、書いた文や語を強調するかのような枠線やスペースを区切る線も多数引き加え、線は直線ばかりではなく弧や円も加わって目くるめくムーヴマンを形成して、ノイズで充満している。興味深いのは、下部中央に小さく書いた「エロイエロ/イラマサバ/クタニ」を丸い線で囲っている以外は、余白や隙間のスペースに、縦、横、斜めに、小さく「エロイ…」「神よ…」と繰り返し書いていることだ。それゆえ、「私には職がない」などと書き込まれた文言と語に絶えず影響を及ぼしている。一見乱暴そのものに書いているかに見えて、じつは周到に準備されていることを感じさせる作品である。
このような70年代初頭の作品とほぼ同じタイトルを持ち、同じく薄墨で染めた紙にオーソドックスな筆法は全く無視して、「エロイ/エロイラマ/サバク/タニ/エロイ/エロイ/ラ/マサバ/クタニ/わが/神/わが神/…」と書き始めた「死篇」は、明らかに70年代の総決算を意識している。『聖書』、『蓮如御文』、『歎異抄』などからの引用が、大きく/小さく、素早く/遅く、根元で/穂先で、じつに多様に書き込んである。読めるようで読めず、読めないようで読める形状の書字が連なっていくが、巻物のような形式での展開は、“全体”というようなことを意識せずに書字に集中できたはずだ。
ここでも、一つの文字が読めたのをきっかけに文の判読が可能になった時には、他に類のない感動が訪れる。
たとえば最後の台に延べられたその始まりのところは先の不揃いな刷毛でザッと垂直になぞったかのようだが、よく見れば、米粒ほどの文字が行列のようにまっすぐに何本も書いてあり、それらの連なりが刷毛目のように見えているのが分かる。おやおや何を書いたものだろう、と近寄っても文字があまりに小さくて(小さすぎて)見えない、読めない。わずかに「…行なはんとなりしかるを汝らが…」と読めるものの“出典”が分からない。帰宅してあわてて調べてみれば、『方丈記』? あそこには『方丈記』がすべて書かれていた? 現場でそれがただちに判明するくらいの教養と観察眼があれば、と思うが、この年齢では、もはや無理だろう。ああ。
その3に続く→
この驚嘆すべき作品は、70年代の氏の仕事の総決算であるとともに、「李賀詩」とは別の意味で今日の氏の仕事に繋がるすべてが含まれていると思われた。
まず、70年代の総決算ということについて。
70年代の氏の仕事は、今回6点の大作が会場一階の壁に展示されていたが、総じて、幼少期からの修練で身についた教養を解体するために、であろうか、紙を薄墨で染め、相互に継いで大きくし、書く墨の色も濃くはなく、筆の穂の根元を紙に強く押しつけたまま書いたかのようで、縦に横に斜めに、時に逆さまに、大きくも小さくも書いていて、線や塗りさえもためらいなく加えられている。貼り継がれて巨大になった紙の形状が、「艶歌へ」(1977年)のように不定形になったのもあるし、「言葉は雨のように降りそそいだ 私約イエス伝」(1975年)や「はぐれ鳥とべ」(1978年)のように縦長の同一サイズのものが複数で1点をなしているのもある。書かれている字は、大部分なんとか判読できるが、習字のお手本や活字のような形状の字ではないから、判読にはかなりの努力を要する。さらに注意深く見ていけば、6点の作品は、それぞれ異なった問題を設定しているのが明らかに見て取れ、氏の取り組みの真摯さが伝わってくる。1点ずつ検討していく余裕はここにはないが、いずれも、書の定石のようなものをどう脱臼させ、どう自分の表現を実現するかということに挑んでいる。
それで、「死篇」である。
70年代初頭にはすでに、「神よ、神よ、どうして私をお見捨てになったのですか」という意味の、キリストが喋っていたというアラム語をカタカナ表記してタイトルとした「エロイ・エロイ・ラマサバクタニ」(1972年)がある。6畳もの大きさのあるこの作品は、手応えを得た最初の作品だ、という意味のことを氏自身があちこちで語っている。筆を力ずくで紙に押し付け、ほとんど軸で書いたような印象で、書いた文や語を強調するかのような枠線やスペースを区切る線も多数引き加え、線は直線ばかりではなく弧や円も加わって目くるめくムーヴマンを形成して、ノイズで充満している。興味深いのは、下部中央に小さく書いた「エロイエロ/イラマサバ/クタニ」を丸い線で囲っている以外は、余白や隙間のスペースに、縦、横、斜めに、小さく「エロイ…」「神よ…」と繰り返し書いていることだ。それゆえ、「私には職がない」などと書き込まれた文言と語に絶えず影響を及ぼしている。一見乱暴そのものに書いているかに見えて、じつは周到に準備されていることを感じさせる作品である。
このような70年代初頭の作品とほぼ同じタイトルを持ち、同じく薄墨で染めた紙にオーソドックスな筆法は全く無視して、「エロイ/エロイラマ/サバク/タニ/エロイ/エロイ/ラ/マサバ/クタニ/わが/神/わが神/…」と書き始めた「死篇」は、明らかに70年代の総決算を意識している。『聖書』、『蓮如御文』、『歎異抄』などからの引用が、大きく/小さく、素早く/遅く、根元で/穂先で、じつに多様に書き込んである。読めるようで読めず、読めないようで読める形状の書字が連なっていくが、巻物のような形式での展開は、“全体”というようなことを意識せずに書字に集中できたはずだ。
ここでも、一つの文字が読めたのをきっかけに文の判読が可能になった時には、他に類のない感動が訪れる。
たとえば最後の台に延べられたその始まりのところは先の不揃いな刷毛でザッと垂直になぞったかのようだが、よく見れば、米粒ほどの文字が行列のようにまっすぐに何本も書いてあり、それらの連なりが刷毛目のように見えているのが分かる。おやおや何を書いたものだろう、と近寄っても文字があまりに小さくて(小さすぎて)見えない、読めない。わずかに「…行なはんとなりしかるを汝らが…」と読めるものの“出典”が分からない。帰宅してあわてて調べてみれば、『方丈記』? あそこには『方丈記』がすべて書かれていた? 現場でそれがただちに判明するくらいの教養と観察眼があれば、と思うが、この年齢では、もはや無理だろう。ああ。
その3に続く→
「石川九楊展「書だ!」に行ってきたその1
2017-08-01
皮肉にも、梅雨が明けて、ひどかった暑さが一段落した。上野の森美術館を目指す。書家・石川九楊氏の大規模な個展が開催中である。いつもながら、会期終了が押し迫っていた。
会場一階で圧倒された。
一階でまず観客を出迎えたのが、壁に「李賀詩 贈陳商」(1992年)、壁に添った特設の台上に「エロイエロイラマサバクタニ又は死篇」(1980年)。一方がほぼ真っ黒、垂直。もう一方はグレイ、水平。このふたつの作品の対比がすでに何事かを象徴的に物語っているが、いずれも私ははじめて見た作品、それぞれ見応えがありすぎる。
「李賀詩 贈陳商」は、同一サイズの縦長のほぼ真っ黒なパネルが17枚、等間隔に展示されていて、ただちにミニマルアートを想起させられる。「ほぼ真っ黒」というのは、紙の白さがわずかに残っているからで、白と黒とは滲みで繋がっている。よく見れば、真っ黒と思われた黒には豊かな調子が含まれおり、筆の線の跡らしき形状もそこかしこに確認できる。それらは書かれた文字の一部だと推測できるものの、とても判読できない。きっと氏は、ここに書かれた李賀詩は読めなくてよい、というか、墨をたっぷり含んだ筆で白い紙に李賀詩を書いて生じた事態をこそ示したかったのだろう。李賀の詩を書けば滲みが生じ、その滲みはさらに広がっていく。ひろがる黒に飲み込まれていく李賀の詩。紙と墨と水と筆、それらの出会いを読み込んでコントロールする作者。その結果、複雑に絡み合って深みある黒から、文字の一部が貌を覗かせるかのような“逆転”がもたらされる。まさに、混沌のさなかから秩序=文字が生成し始めるかのようなエネルギーを内包する黒。書かれているはずの李賀詩との相乗。
こうした「李賀詩」のシリーズが、会場一階壁には他にも2点、縦長パネル5枚一組の「李賀詩 感諷五首」と、横長で額装された「李賀詩 将進酒No.2」。じつに美しく、一気に作品世界に没入させられてしまう。そして、既に延べたようにただ美しいだけではないのだ。
この豊かな黒は、近作の極細線の黒の並びや交錯と隙間から覗く紙の色とで形成される視覚混合のグレイの複雑な調子の広がりに置き換えて考えることができる。グレイの中に、あるきっかけで文字らしき形状を見出した鑑賞者が、その断片を手掛かりに次々に文字そして文が立ち現れてくるのに立ち会うあの稀有な驚きを思い起こせばよい。黒とグレイ、それぞれのシリーズ群は、確かに同じ“構造”を備えていることに気付けるだろう。見かけの姿こそ異なっているものの、これは同じ仕組みを持っており、氏の一貫性の現れの一つだと言える。
つづく→
会場一階で圧倒された。
一階でまず観客を出迎えたのが、壁に「李賀詩 贈陳商」(1992年)、壁に添った特設の台上に「エロイエロイラマサバクタニ又は死篇」(1980年)。一方がほぼ真っ黒、垂直。もう一方はグレイ、水平。このふたつの作品の対比がすでに何事かを象徴的に物語っているが、いずれも私ははじめて見た作品、それぞれ見応えがありすぎる。
「李賀詩 贈陳商」は、同一サイズの縦長のほぼ真っ黒なパネルが17枚、等間隔に展示されていて、ただちにミニマルアートを想起させられる。「ほぼ真っ黒」というのは、紙の白さがわずかに残っているからで、白と黒とは滲みで繋がっている。よく見れば、真っ黒と思われた黒には豊かな調子が含まれおり、筆の線の跡らしき形状もそこかしこに確認できる。それらは書かれた文字の一部だと推測できるものの、とても判読できない。きっと氏は、ここに書かれた李賀詩は読めなくてよい、というか、墨をたっぷり含んだ筆で白い紙に李賀詩を書いて生じた事態をこそ示したかったのだろう。李賀の詩を書けば滲みが生じ、その滲みはさらに広がっていく。ひろがる黒に飲み込まれていく李賀の詩。紙と墨と水と筆、それらの出会いを読み込んでコントロールする作者。その結果、複雑に絡み合って深みある黒から、文字の一部が貌を覗かせるかのような“逆転”がもたらされる。まさに、混沌のさなかから秩序=文字が生成し始めるかのようなエネルギーを内包する黒。書かれているはずの李賀詩との相乗。
こうした「李賀詩」のシリーズが、会場一階壁には他にも2点、縦長パネル5枚一組の「李賀詩 感諷五首」と、横長で額装された「李賀詩 将進酒No.2」。じつに美しく、一気に作品世界に没入させられてしまう。そして、既に延べたようにただ美しいだけではないのだ。
この豊かな黒は、近作の極細線の黒の並びや交錯と隙間から覗く紙の色とで形成される視覚混合のグレイの複雑な調子の広がりに置き換えて考えることができる。グレイの中に、あるきっかけで文字らしき形状を見出した鑑賞者が、その断片を手掛かりに次々に文字そして文が立ち現れてくるのに立ち会うあの稀有な驚きを思い起こせばよい。黒とグレイ、それぞれのシリーズ群は、確かに同じ“構造”を備えていることに気付けるだろう。見かけの姿こそ異なっているものの、これは同じ仕組みを持っており、氏の一貫性の現れの一つだと言える。
つづく→