立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
東京都現代美術館「高橋龍太郎コレクション」展に行ってきた
2024-08-14
連日の猛暑の中の拙宅の耐震補強工事も、工務店と職人さんたちがお盆休みに入って、一時休止である。しめた! 外出できる。で、8月11日(日)、張り切って東京都現代美術館に展覧会見物に行った。
都営新宿線・菊川駅に降り立ち、普段ならそのままテクテク歩くのだが、暑すぎる。バスで行く。午前10時過ぎの菊川駅バス停には列ができていたが、そこは建物の日陰であった。そんな些細なことが嬉しい。程なくバスはやってきて現代美術館前に到着。「日本現代美術私観 高橋龍太郎コレクション」展に入った。
日本現代美術のコレクターとして名高い高橋龍太郎氏(1946〜)である。いまやそのコレクション総数は3500点を超えるという。それらの中から選んだ作品に、東京都現代美術館の収蔵作品を加えることで構成した展覧会(と聞いている)。なぜ、公立美術館が、個人のコレクションに依存した展覧会を開催するのか? 他人のフンドシで相撲を取るようなものではないか? というような疑問は当然のように浮かんでくるが、ともかくは一通り見てから考えてみることにした。この展覧会の担当は学芸員の藪前知子氏と聞いた。
入場後まず出くわしたのは、故久保守氏と故中原實氏の各一点ずつの油画作品だった。と、書いて(打ち込んで)みて、手が止まる。作品のサイズはもちろん、タイトルや制作年も記憶に残っていないことに気付かされるのだ。そんな時は、いつもなら、会場から持ち帰ってくる「出品目録」を頼りにできる。だが、この日には、なんと、「出品目録」が会場のどこにも置かれていなかったのである。
なので、会場から出る時に、入退場をチェックしているお姉さんに「出品目録」のことを尋ねてみた。そしたら、私どもでは分かりませんので少しお待ちください、と“係”の人を呼んでくれた。現れたその男性に(お名前も所属も聞きそびれた)、「出品目録」はいつできますか? と尋ねると、9月上旬には図録が刊行される予定なのでその頃には「出品目録」もできるはずですが、詳しいことは、当館のホームページからこの展覧会を検索して、「出品目録」に関する告知や「出品目録」の公開がなされるのを待ってもらえないでしょうか、とのことであった。
「出品目録」なしに展覧会の図録を作れるのか? なぜ図録の刊行時期と「出品目録」との公開が重なるのか? など数々の疑問が生じたが、食い下がっても、流行りの“カスハラ”になりかねないので、ほどほどにした。が、いかにも釈然としない。男性係員の方はとってもきちんとした方だったのに。
公立美術館の展覧会で、観客のために「出品目録」が準備されていないなんてことは、今まで私は経験したことがなかった。この事態はどう考えてもありえないことである。担当学芸員氏は(もちろん館長氏でも東京都知事氏でもいいけど)こうした事態に至った事情の説明を行い、その説明を含めて「出品目録」を少なくともホームページ上に可能な限り早く公開・配布すべきである。ぷんぷん!
で、この文を続けて書く(打ち込む)ために、しょうがないので、拙宅にあったはずの久保守氏と中原實氏の資料を探すことにした(ぷんぷん)。
結果、中原實氏の資料だけはなんとか見つけ出して取り出すことができた(前述の耐震補強工事を円滑に進めるために、現在、全ての荷物を“塊”にしているので思うように探し出せないのだ)。取り出せたのは、1989年に武蔵野市が発行した「中原實展」の図録だったが、中を繰れば、、、あった。当該油彩作品は1947年作の『杉の子』(167.0×135.0cm)だったのである。
もう一方の久保守氏作品だが、彼の資料が拙宅のどこにあるかは分かっている。が、その場所の前には、今、大きな荷物がいくつも積み重なって鎮座しているので、取り出すのは諦めた。展示されていた久保氏の作品は、空襲で焼け野原と化し何もかも無くなった後の冬の東京の風景を、おそらくは写生を元にして油絵として描いたのだろう、大変きちんとした絵であった。
これら二点、いずれも東京都現代美術館の所蔵。どちらも作者の本格的な技量をよく示すとてもいい絵であった。会場に置かれていて観客が自由に持ち帰ってよい「展覧会ガイド」(会場に掲げられていた文章と同じ文章が日英の二か国語で、加えて会場配置図とがA3両面に刷られている)によれば、この二作品からこの展覧会を開始したのには次のような理由がある、とのことであった。①二点とも高橋龍太郎氏が生まれた1946年頃に描かれた作品であること、②東京都現代美術館が扱う戦後美術(高橋龍太郎氏の「胎内記憶」と重なる50年間の美術)の起点に位置付けうる作品であること。なんだか、コジツケのような気がしないでもない。きっと多々あるであろう東京都現代美術館所蔵の1946年前後制作の作品群から、なぜこれら二点を選んだのか、という理由が曖昧なのではないか。加えて、高橋氏は、「いい絵」には興味がない、ということをYouTubeで閲覧可能なインタビューなどで繰り返し述べている。なのに、なぜ、この二作品で始めるのか、それが分からない。分からないが、思いがけない絵を見ることができたのはラッキーといえばラッキーであった。
これら二作品を掲げたスペースの床には什器を置いて、高橋氏の若き日の姿を捉えた写真や、吉本隆明『擬制の終焉』など学生当時の愛読書、編集に携わっていたというサルトル特集掲載の「三田新聞」のコピーなどをガラスケース越しに展示し、高橋氏の「胎内記憶」を暗示していた。これらを「胎内記憶」というのもなんだかなあ、と思ったが、こだわらずに先に進んだ。
都営新宿線・菊川駅に降り立ち、普段ならそのままテクテク歩くのだが、暑すぎる。バスで行く。午前10時過ぎの菊川駅バス停には列ができていたが、そこは建物の日陰であった。そんな些細なことが嬉しい。程なくバスはやってきて現代美術館前に到着。「日本現代美術私観 高橋龍太郎コレクション」展に入った。
日本現代美術のコレクターとして名高い高橋龍太郎氏(1946〜)である。いまやそのコレクション総数は3500点を超えるという。それらの中から選んだ作品に、東京都現代美術館の収蔵作品を加えることで構成した展覧会(と聞いている)。なぜ、公立美術館が、個人のコレクションに依存した展覧会を開催するのか? 他人のフンドシで相撲を取るようなものではないか? というような疑問は当然のように浮かんでくるが、ともかくは一通り見てから考えてみることにした。この展覧会の担当は学芸員の藪前知子氏と聞いた。
入場後まず出くわしたのは、故久保守氏と故中原實氏の各一点ずつの油画作品だった。と、書いて(打ち込んで)みて、手が止まる。作品のサイズはもちろん、タイトルや制作年も記憶に残っていないことに気付かされるのだ。そんな時は、いつもなら、会場から持ち帰ってくる「出品目録」を頼りにできる。だが、この日には、なんと、「出品目録」が会場のどこにも置かれていなかったのである。
なので、会場から出る時に、入退場をチェックしているお姉さんに「出品目録」のことを尋ねてみた。そしたら、私どもでは分かりませんので少しお待ちください、と“係”の人を呼んでくれた。現れたその男性に(お名前も所属も聞きそびれた)、「出品目録」はいつできますか? と尋ねると、9月上旬には図録が刊行される予定なのでその頃には「出品目録」もできるはずですが、詳しいことは、当館のホームページからこの展覧会を検索して、「出品目録」に関する告知や「出品目録」の公開がなされるのを待ってもらえないでしょうか、とのことであった。
「出品目録」なしに展覧会の図録を作れるのか? なぜ図録の刊行時期と「出品目録」との公開が重なるのか? など数々の疑問が生じたが、食い下がっても、流行りの“カスハラ”になりかねないので、ほどほどにした。が、いかにも釈然としない。男性係員の方はとってもきちんとした方だったのに。
公立美術館の展覧会で、観客のために「出品目録」が準備されていないなんてことは、今まで私は経験したことがなかった。この事態はどう考えてもありえないことである。担当学芸員氏は(もちろん館長氏でも東京都知事氏でもいいけど)こうした事態に至った事情の説明を行い、その説明を含めて「出品目録」を少なくともホームページ上に可能な限り早く公開・配布すべきである。ぷんぷん!
で、この文を続けて書く(打ち込む)ために、しょうがないので、拙宅にあったはずの久保守氏と中原實氏の資料を探すことにした(ぷんぷん)。
結果、中原實氏の資料だけはなんとか見つけ出して取り出すことができた(前述の耐震補強工事を円滑に進めるために、現在、全ての荷物を“塊”にしているので思うように探し出せないのだ)。取り出せたのは、1989年に武蔵野市が発行した「中原實展」の図録だったが、中を繰れば、、、あった。当該油彩作品は1947年作の『杉の子』(167.0×135.0cm)だったのである。
もう一方の久保守氏作品だが、彼の資料が拙宅のどこにあるかは分かっている。が、その場所の前には、今、大きな荷物がいくつも積み重なって鎮座しているので、取り出すのは諦めた。展示されていた久保氏の作品は、空襲で焼け野原と化し何もかも無くなった後の冬の東京の風景を、おそらくは写生を元にして油絵として描いたのだろう、大変きちんとした絵であった。
これら二点、いずれも東京都現代美術館の所蔵。どちらも作者の本格的な技量をよく示すとてもいい絵であった。会場に置かれていて観客が自由に持ち帰ってよい「展覧会ガイド」(会場に掲げられていた文章と同じ文章が日英の二か国語で、加えて会場配置図とがA3両面に刷られている)によれば、この二作品からこの展覧会を開始したのには次のような理由がある、とのことであった。①二点とも高橋龍太郎氏が生まれた1946年頃に描かれた作品であること、②東京都現代美術館が扱う戦後美術(高橋龍太郎氏の「胎内記憶」と重なる50年間の美術)の起点に位置付けうる作品であること。なんだか、コジツケのような気がしないでもない。きっと多々あるであろう東京都現代美術館所蔵の1946年前後制作の作品群から、なぜこれら二点を選んだのか、という理由が曖昧なのではないか。加えて、高橋氏は、「いい絵」には興味がない、ということをYouTubeで閲覧可能なインタビューなどで繰り返し述べている。なのに、なぜ、この二作品で始めるのか、それが分からない。分からないが、思いがけない絵を見ることができたのはラッキーといえばラッキーであった。
これら二作品を掲げたスペースの床には什器を置いて、高橋氏の若き日の姿を捉えた写真や、吉本隆明『擬制の終焉』など学生当時の愛読書、編集に携わっていたというサルトル特集掲載の「三田新聞」のコピーなどをガラスケース越しに展示し、高橋氏の「胎内記憶」を暗示していた。これらを「胎内記憶」というのもなんだかなあ、と思ったが、こだわらずに先に進んだ。
「神護寺 空海と真言密教のはじまり」展をみた
2024-08-06
8月もあっという間に4日となり、日曜日なのにますます暑く、早い時間に目が覚めた。
朝刊が配達される音がする。ノロノロ起き上がって取りに行く。真っ先にテレビ欄を見ると、あれま、今日のNHK「日曜美術館」は表記の展覧会を特集するらしい。まずいぞ、これではどんどん混み始めるに違いない。「日曜美術館」の影響力はあなどれないのだ。で、急遽、このまま午前中に見物に行くことを決めた。東京国立博物館・「神護寺 空海と真言密教のはじまり」展。
9時半過ぎにJR上野駅・公園口に降り立ち、歩き出せば、国立西洋美術館チケット売り場から入り口あたりのわずかな日陰に二重三重の行列ができているのが見えて、焦る。国立科学博物館への道筋の左側にちょいとした“森”があるので、日陰を求めて樹々の間の遊歩道を進めば、白衣姿の野口英世氏のブロンズ像は、今日も試験管をかざして熱心に研究を続けている。ありがたいことだ。
さらに進めば、予想していたことではあるが、木立は途絶え木陰も無くなって、強い照り返しの広場に出なければならくなった。この先さらに、横断歩道を渡って係員に前売りチケットを示して博物館敷地内に入り、平成館までのあの長い道のりを進まねばならない。その間、日陰はない。が、私は進んでいく(えらい)。午前10時前とはいえ、すでに十分すぎる灼熱地獄。
やっと会場に辿り着いた。冷房がうれしい。
エスカレータで二階に進めば、入り口に「神護寺」との“墨書”が大きく掲げられている。空海の字のようでもあるが確信はない。左側壁を見れば、「神護寺」の境内の配置図がある。つい、これに見入った。
神護寺には、以前、まだ京都の学校に勤めていた時、東京からやってきた家人と合流して訪れたことがあった(学生時代の古美研(古美術研究旅行)では行っていないはずだ)。京都駅前からバスで行った。やはり暑い時だったような気がするが、曖昧である。バス停から坂や石段を登った。石段の先に門が見えた時の様子は覚えている。が、境内のことを思い出そうとしても、ほとんど何も覚えていない。図に示されているうち、覚えていたのは「かわらけ投げ」だけだった。あと、おそらくは金堂であろうか、楽しみにしていた「源頼朝像」、その実物大かどうか、ともかく大きな複製写真が置かれていて、それにひどくがっかりしたことを覚えている。本尊の「薬師如来立像」は遠くに見たような気もするが、確かでない。「高雄曼荼羅」はまったく記憶にない。その日、栂尾の高山寺まで足を伸ばそうかとも思っていたが、「鳥獣戯画」が見られる保証もないのでやめた。何も調べずに来てしまったバチが当たった。なんだかなさけない1日だった。そういうわけで、リベンジの意味もある。
朝刊が配達される音がする。ノロノロ起き上がって取りに行く。真っ先にテレビ欄を見ると、あれま、今日のNHK「日曜美術館」は表記の展覧会を特集するらしい。まずいぞ、これではどんどん混み始めるに違いない。「日曜美術館」の影響力はあなどれないのだ。で、急遽、このまま午前中に見物に行くことを決めた。東京国立博物館・「神護寺 空海と真言密教のはじまり」展。
9時半過ぎにJR上野駅・公園口に降り立ち、歩き出せば、国立西洋美術館チケット売り場から入り口あたりのわずかな日陰に二重三重の行列ができているのが見えて、焦る。国立科学博物館への道筋の左側にちょいとした“森”があるので、日陰を求めて樹々の間の遊歩道を進めば、白衣姿の野口英世氏のブロンズ像は、今日も試験管をかざして熱心に研究を続けている。ありがたいことだ。
さらに進めば、予想していたことではあるが、木立は途絶え木陰も無くなって、強い照り返しの広場に出なければならくなった。この先さらに、横断歩道を渡って係員に前売りチケットを示して博物館敷地内に入り、平成館までのあの長い道のりを進まねばならない。その間、日陰はない。が、私は進んでいく(えらい)。午前10時前とはいえ、すでに十分すぎる灼熱地獄。
やっと会場に辿り着いた。冷房がうれしい。
エスカレータで二階に進めば、入り口に「神護寺」との“墨書”が大きく掲げられている。空海の字のようでもあるが確信はない。左側壁を見れば、「神護寺」の境内の配置図がある。つい、これに見入った。
神護寺には、以前、まだ京都の学校に勤めていた時、東京からやってきた家人と合流して訪れたことがあった(学生時代の古美研(古美術研究旅行)では行っていないはずだ)。京都駅前からバスで行った。やはり暑い時だったような気がするが、曖昧である。バス停から坂や石段を登った。石段の先に門が見えた時の様子は覚えている。が、境内のことを思い出そうとしても、ほとんど何も覚えていない。図に示されているうち、覚えていたのは「かわらけ投げ」だけだった。あと、おそらくは金堂であろうか、楽しみにしていた「源頼朝像」、その実物大かどうか、ともかく大きな複製写真が置かれていて、それにひどくがっかりしたことを覚えている。本尊の「薬師如来立像」は遠くに見たような気もするが、確かでない。「高雄曼荼羅」はまったく記憶にない。その日、栂尾の高山寺まで足を伸ばそうかとも思っていたが、「鳥獣戯画」が見られる保証もないのでやめた。何も調べずに来てしまったバチが当たった。なんだかなさけない1日だった。そういうわけで、リベンジの意味もある。
『戦後の女性画家たちー有馬さとえ・朝倉摂・毛利眞美・小林喜巳子・招瑞娟ー』展を見た
2024-08-02
連日の超猛暑ではあるが、7月30日、薄曇りだったので、思い切って出かけた。
渋谷駅に降り立ち、丘の上の実践女子大学・渋谷をめざす。初めての場所。この道筋でいいのか、と途中で心細くなったが、なんとかたどり着けた。守衛さんのところで、書類に必要事項を書き込み、入校証を受け取って首に下げ、会場に向かった。香雪記念資料館。
「香雪」という名のついた美術館が関西にあったはずだが、ここの「香雪」は実践女子大学の前身=実践女子学園の創立者の下田歌子氏の号の「香雪」に由来するという。
表記の展覧会はSNSで知った。以前、町田市立国際版画美術館で関心を持った「小林喜巳子」という人の作品が出品されているらしい。町田で見た小林喜巳子氏の版画作品はとても面白いと思って印象に残った。どんな作家か知りたい、と思った。それでやってきたのである。
資料館入り口から向こう奥に、ポン! と毛利眞美(1926〜2022)氏の二点が目に飛び込んでくる。以前、南天子画廊での展示が話題になっていたひとの作品である。出版された評伝は私も読んだ。こういう人がいたんだなあ、と勉強になった。
が、慌てず、順路に従って、入って右側壁面の有馬さとえ(1893〜1978)氏の作品から見ることにした。はじめて知った人である。色がいい。
「五月の窓」は横長50号ほどの大きさ。画室であろうか、開け放った窓の外と室内の様子とを描いている。庭には光がいっぱい。室内の床にはいくつかの物品があるが、暗いし逆光だ。その二つの世界を窓枠が繋いでいる。繰り返すが、外は明るく、室内は暗い。物品は逆光である。これをどう描いてみせるか? 有馬氏は巧みな色使いで切り抜けていく。品のいい紫系統の何種かのグレイを画面の中間調子として成立させて、そこに庭の植物の逆光の有機的な形状の“抜け”として地面の明るさを位置付け、そして室内の椅子の背もたれや座面、テーブル上の花瓶に生けられた花、これらに極めて低明度ながら高彩度のブルーをアクセントのように当てがっている。オーソドックスな構成だといってよいし、作者のある水準の力量を感じさせる。室内の物品のうち、壁や窓枠にもたれかからせている額縁入りの絵や、ふつうはあまり見かけることがない石膏像(マリア・スフォルツァ像?)は、その本来の暗さをひと調子もふた調子も明るく“増感”させて描きこんでいる。しかも、単純な明暗ではなく「色」に置き換えている。ゆえに、床部にあざやかな緑が塗られていても気にならない。気になるのは、全体を上から見下ろした状況で描いているのに、床に置かれた石膏像の頭部が真横から見た形状で描かれていること。椅子の背もたれの形状に違和感があることである。また、描かれている物品は、テーブル上の果物を除けば、どれも“完全な”形状ではなくて、どこかで別の物品と重なっていたり、キャンバスの端部で切れていたりする。窓枠すらも上部は切れている。とはいえ、そこに造形的な意図を読み取ることはできない。日常の光景の片隅を取り出して描いた、それでいいのだ、と迷いがない。制作年は1946年。戦争で多くの都市は空襲されて焼夷弾で焼け野原となった。連合国軍の占領下でバラックが立ち並び、食糧にも事欠いた当時の日本にあって、こうした“楽観的な”絵を描けた、ということに驚きを持った。この絵は、戦後、いち早く再開した「日展」に出品された、という。第一回「日展」にはこういう“傾向”の絵が並んだのであろうか?
もう一点は「題名不詳(チャイナドレスの女性)」。1950年頃の作という。60号ほどの縦の絵である。相当に高級そうな木のダイニングチェアーにチャイナドレスの女性が座って足を組み膝上にギターを上向き水平に横たえて左手で支え、右手を添えている。座っているのは屋外であろうか。遠景に森が見えるが、そこまでどう繋がっていくのかは曖昧にされている。画面右下には四角い台上に花瓶に花が生けられている。固有色から逸脱せずに素直に描いている。確かに色には魅力がある。が、それ以外に何があろうか。
会場に置かれていた資料によれば、油絵を学ぶために女学校を辞めて鹿児島から上京し、岡田三郎助氏の門を叩いて、住み込みで学んだ。21歳で文展に入選し、以降、文展、帝展と入選を重ね、33歳で女性初の「帝展特選」を果たしたという。34歳から帝展無監査。1937年(44歳)に改組した新文展でも無監査。戦時中のことが気になるが、資料では触れられていない。戦後、1946年(53歳)、いちはやく開催された第一回日展に参加、その時の絵が「五月の窓」である。1954年(61歳)から審査員。1976年まで(83歳)出品。生涯独身ながら、お弟子さんがたくさんいた様子である(島津経子氏、鹿島卯女氏など)。
渋谷駅に降り立ち、丘の上の実践女子大学・渋谷をめざす。初めての場所。この道筋でいいのか、と途中で心細くなったが、なんとかたどり着けた。守衛さんのところで、書類に必要事項を書き込み、入校証を受け取って首に下げ、会場に向かった。香雪記念資料館。
「香雪」という名のついた美術館が関西にあったはずだが、ここの「香雪」は実践女子大学の前身=実践女子学園の創立者の下田歌子氏の号の「香雪」に由来するという。
表記の展覧会はSNSで知った。以前、町田市立国際版画美術館で関心を持った「小林喜巳子」という人の作品が出品されているらしい。町田で見た小林喜巳子氏の版画作品はとても面白いと思って印象に残った。どんな作家か知りたい、と思った。それでやってきたのである。
資料館入り口から向こう奥に、ポン! と毛利眞美(1926〜2022)氏の二点が目に飛び込んでくる。以前、南天子画廊での展示が話題になっていたひとの作品である。出版された評伝は私も読んだ。こういう人がいたんだなあ、と勉強になった。
が、慌てず、順路に従って、入って右側壁面の有馬さとえ(1893〜1978)氏の作品から見ることにした。はじめて知った人である。色がいい。
「五月の窓」は横長50号ほどの大きさ。画室であろうか、開け放った窓の外と室内の様子とを描いている。庭には光がいっぱい。室内の床にはいくつかの物品があるが、暗いし逆光だ。その二つの世界を窓枠が繋いでいる。繰り返すが、外は明るく、室内は暗い。物品は逆光である。これをどう描いてみせるか? 有馬氏は巧みな色使いで切り抜けていく。品のいい紫系統の何種かのグレイを画面の中間調子として成立させて、そこに庭の植物の逆光の有機的な形状の“抜け”として地面の明るさを位置付け、そして室内の椅子の背もたれや座面、テーブル上の花瓶に生けられた花、これらに極めて低明度ながら高彩度のブルーをアクセントのように当てがっている。オーソドックスな構成だといってよいし、作者のある水準の力量を感じさせる。室内の物品のうち、壁や窓枠にもたれかからせている額縁入りの絵や、ふつうはあまり見かけることがない石膏像(マリア・スフォルツァ像?)は、その本来の暗さをひと調子もふた調子も明るく“増感”させて描きこんでいる。しかも、単純な明暗ではなく「色」に置き換えている。ゆえに、床部にあざやかな緑が塗られていても気にならない。気になるのは、全体を上から見下ろした状況で描いているのに、床に置かれた石膏像の頭部が真横から見た形状で描かれていること。椅子の背もたれの形状に違和感があることである。また、描かれている物品は、テーブル上の果物を除けば、どれも“完全な”形状ではなくて、どこかで別の物品と重なっていたり、キャンバスの端部で切れていたりする。窓枠すらも上部は切れている。とはいえ、そこに造形的な意図を読み取ることはできない。日常の光景の片隅を取り出して描いた、それでいいのだ、と迷いがない。制作年は1946年。戦争で多くの都市は空襲されて焼夷弾で焼け野原となった。連合国軍の占領下でバラックが立ち並び、食糧にも事欠いた当時の日本にあって、こうした“楽観的な”絵を描けた、ということに驚きを持った。この絵は、戦後、いち早く再開した「日展」に出品された、という。第一回「日展」にはこういう“傾向”の絵が並んだのであろうか?
もう一点は「題名不詳(チャイナドレスの女性)」。1950年頃の作という。60号ほどの縦の絵である。相当に高級そうな木のダイニングチェアーにチャイナドレスの女性が座って足を組み膝上にギターを上向き水平に横たえて左手で支え、右手を添えている。座っているのは屋外であろうか。遠景に森が見えるが、そこまでどう繋がっていくのかは曖昧にされている。画面右下には四角い台上に花瓶に花が生けられている。固有色から逸脱せずに素直に描いている。確かに色には魅力がある。が、それ以外に何があろうか。
会場に置かれていた資料によれば、油絵を学ぶために女学校を辞めて鹿児島から上京し、岡田三郎助氏の門を叩いて、住み込みで学んだ。21歳で文展に入選し、以降、文展、帝展と入選を重ね、33歳で女性初の「帝展特選」を果たしたという。34歳から帝展無監査。1937年(44歳)に改組した新文展でも無監査。戦時中のことが気になるが、資料では触れられていない。戦後、1946年(53歳)、いちはやく開催された第一回日展に参加、その時の絵が「五月の窓」である。1954年(61歳)から審査員。1976年まで(83歳)出品。生涯独身ながら、お弟子さんがたくさんいた様子である(島津経子氏、鹿島卯女氏など)。