262 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

櫻井英嘉さんのこと
2013-09-30
 櫻井英嘉さんという画家(1935~1999)について書きたい。
先日、櫻井さんの没後14年を機に、奥様の櫻井充(みつ)さんが櫻井さんの作品集を発行された。また、これを記念して東京・茅場町のベイスギャラリーで回顧展が開催された。展覧会を訪れ、また作品集に見入りながら、久しぶりにしみじみと櫻井さんのことを思い出した。
私が櫻井さんを知ったのは1971年、東京・目白の「すいどーばた美術学院」で美大受験のために二年目の浪人をしていた時だ。櫻井さんは、隣のクラスの先生だった。ちなみに、反対側の隣のクラスの先生は高山登さん、私がいたクラスの先生は数野繁夫さん。この3人で「ブロック」と呼ばれるチームを作っていた。豪華メンバーである。
櫻井クラスではグレイの紙に鉛筆と白鉛筆とを使って小さな石膏像を克明にデッサンしていたり、高山クラスでは壁に針金のハンガーをひとつ引っ掛けて油絵を描いていたりで、いずれもちょっと“変わった”感じのことをやっていたが、数野クラスは“ふつう”のこと、デッサンは木炭で石膏像を、油絵は静物や人物・人体を繰り返し描いていた。私はぼんやりした受験生だったが、それでも両側の風変わりなクラスの様子は気になってときどき覗いていた。
ある時、階段に腰かけて『少年マガジン』を読んでケラケラ笑っている櫻井クラスの顔見知りの男に、「櫻井さんってどんな絵を描く人なの?」と尋ねてみると、その男は私には一瞥もくれずマンガのコマを追い続けながら、「櫻井さんは絵なんか描いていないよ」と言った。「絵を描いていない、って、それ…、どういうこと?」とさらに尋ねると、いかにもめんどくさそうに「チューショーだよ、チューショー」と言い、「あ、高山さんも絵を描いていないよ」と付け加えて、間をおかずマンガにまたケラケラ笑うのだった。私は、チュウショーだって絵ではないか、こいつはちょっと当てにならないのではないか、と思ったが、私のことを、どうせ田舎者だ、となめてることは分かった。だからといって、なめんじゃねえ、とかやってみてもしょうがない。田舎者なんだから。「ふーん」と言いながら、その場を離れたのだった。
私はその年の受験にも失敗し、もう一年浪人してやっと合格できた。その間に、櫻井さんと高山さんは創設された「創形美術学校」の専任の先生として転出し、受験指導はやらなくなった。
 大学に入って、私は勧められるまま「どばた」(“業界”では「すいどーばた美術学院」なんて呼ばないで略称を使う。いまならDBTとか呼んでいるかもしれない)の夜間部の“雑役”のアルバイトを引き受け、大学にはあまり行かず、毎日「どばた」に通っていた。「どばた」の教官室にはときどき櫻井さんも現れて、「アトリエに冷房を入れた。とても涼しい。それがうれしくてうれしくて、ずっとつけっぱなしにしていて風邪を引いた」とか言って、みんなを笑わせていた。その頃の櫻井さんは、幾分ぷっくりしていた。
 私の「どばた」でのアルバイトは一年で終わりにしたが、櫻井さんはやがて銀座のフマ画廊(当時)で大きな個展をしたのを皮切りに、活発な活動を開始した。発表のたびに見に行って、櫻井さんの作品にはずっと触れ続けてきた。ぼんやりした学生には正直難解な作品だったが、恐ろしいもので、その難解さにもだんだん慣れてくるのだった。大学院生の時、「どばた」の夏の講習会で今度は講師のアルバイトをしたが、特別ゲストの櫻井さんと一緒に講評会をさせられてひどく緊張したのを覚えている。そのとき櫻井さんはスーラの画集を示しながら熱心に受講生に語りかけた。スーラを手がかりにした、というそのことが、まさに作家としての櫻井さんの基本姿勢を物語っていたように、いまになって感じる。その姿勢は、たとえ相手が受験生であってもいい加減ではなかったように、どんな時も誰に対しても誠実に示され続けられて、けっして揺るがなかった、と思う。
そのうちいつの間にか、何故か分からないが、私は櫻井さんにかわいがってもらうようになった。松葉杖をついて足を引きずりながら私の個展に来てくれたこともあったし、顔を合わせれば飲みに誘ってくれた。二人展をやろう、と言ってくれたこともあった。さすがに恐れ多くて、二人展はお断りした。

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