251 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

関島寿子さんのトークを思い起こす(3)
2014-09-16
作品には通し番号がふられているが、いま600番台。いくらでも考えは浮かんでくる。材料のこと、空間のこと、内と外のこと、かげのこと、裏と表のこと、といったことに見方の変革の手掛かりはある。そして私は、日常とつながりながら作る。スパゲッティをゆでながら、新聞紙を束ねながら。ひも=なわのことを考え、カゴのことを考える。
材料は身の回りから意識的に調達する。拾ったり、もらったり、育てたり。カゴの材料として売られている自然素材は、実は技術的・意思的に寸法や質などが選ばれている。私はたいしたものでないものをあえて使い、そのことで別の発想と出会う。
はじめてカゴを作ったのは、興味本位で籐カゴを作った時。ほんとうの意味で、カゴと出会ったのはアメリカでのこと。主人の仕事の関係でニューヨークにいた時。ネイティブ・アメリカンのカゴを見たことや、当時の美術学校中心に盛んだった現代工芸=ニュー・バスケットに展覧会や雑誌で触れたのが大きい。その時、うまい・ヘタ、ではなく、考えることを楽しむ、という作り方があることを知った。そして、ジョン・マックィンのワーク・ショップでの2週間。何も教えてくれないから自分で考えた。それからのめり込んでいった。
私の技法はとてもプリミティヴだ。たとえばそこにある『立体的曲折』(2002年)。はじめてクマヤナギを曲げた。熱を与えて直角に曲げていく。その時、一つ決めてある。それは、同一平面でない方向に曲げる、っていうこと。それだけで、もうパターン化できない。それが面白い。こんなふうに、技術は一回性のものとして使う。技術はコンセプトをかたちにするためのものだ。私は、結果がわかると、やる気が失せる。だから同じことをやらない。
もういちど、なわの作品。裂をはさんだものがある。隣と絡めたものがある。では…、一本のなわに右回りの撚りと左回りの撚りを作れないか…?前にやったことや民族学などからの知見が浮かんで育ってくるものがある。結び目を作ってはどうか? 出来る。では、結び目って何?なわは、なわだけのためにありうるか? … こんなふうなのが私の興味。
私は、なりゆきで作ることはない。考えが先に決まっているから、目標が明快。その目標に向かって進む。当然のように様々な問題が生じてくる。どう対処するか、判断はその都度行う。しかし、絶対に目標は外さない。違った目標には絶対に向かわない。違った目標を混ぜ込まない。途中で浮かんできたアイディアや目標はメモして、別の時に試し、テーマとして育てていく。そうすることで、私の意図が伝わる。
作品の形状は自然乾燥によって固定される。だから、形状は「型」を作る時に決めてある。そうしないと作れない。「型」は段ボールなどで作る。形状が決まっていても、当然、細部までは決められない。作りながら生じてくる材料の制限に添うようにあるいは抗うようにして、ギリギリのところで細部を決める。
作品は年間20作品位。調べものをしたり、教えに行ったり、材料集めをしたり、交流したり、と忙しい。完成までの間、途中で作品が腐らないようにするのに苦労する。
ヤマボウシで作った『域を印すⅢ』には点々をつけてあるが、点々があるのは外。カゴは領域を確保すること。すきまだらけ、穴だらけでも領域の確保はできる。
カゴ作りは「穴」を作ることでもある。私は「穴」を作りたいから作っているのかもしれない。
カゴ作りで避けられない材料どうしを交差させること。それは立体交差。象形文字のよう。「文字そっくり」と思う。
カゴはとてもロジカル。私はそんなカゴに育てられた。

1時間ほどの関島さんのトークが、ちゃんととらえられているかどうか心もとないが、拙文を読んでくださった方々とその要旨が共有できれば幸いである。
(2014年9月3日 東京にて)
関島寿子さんのトークを思い起こす(2)
2014-09-10
8月30日の智美術館での関島さんの素晴らしいトークを、現場でのメモから思い起こしてみたい。

私の作品は、カゴの歴史、素材、構造、技術といったことについて考えながらできてきたもの。だから、一見カゴに見えなくても、私はカゴだと思っている。
作品のタイトルに「記録」とか「超組織」というような言葉を選んでいるのは、使っている自然素材で、“花鳥風月”の世界、というように見られたくないから。私は作る過程への興味、あるいは作る構造への興味から、その時知りたい、と思ったテーマをもとにして作る。
たとえば「なわ」の作品。縄はものをしばったりするための不定形のもの。編まれてかたちあるものとは異なるもの。そこに挑戦した。
関島寿子さんの作品を見た(1)
2014-09-04
東京虎ノ門・智美術館で開催中の『陶の空間・草木の空間 川崎毅と関島寿子』展(9月28日まで)をみて、関島寿子(せきじまひさこ)さんの作品にあらためて感心させられた。この展覧会の事は、数週間前のNHK「日曜美術館」の展覧会案内のコーナーで知った。
関島さんは日本を代表するバスケッタリー作家。素晴らしい作品を作り続けている。バスケッタリーというのは、バスケット=かごを作ることだが、関島さんの作品は私たちが普通にいう「バスケット=かご」の姿をしていない。バスケットというより、彫刻!といったほうがよさそうに思うくらいだ。
関島さんの事は、札幌の加藤玖仁子さんが作った本で1980年代のはじめに知った。加藤さんの事は、大学の先輩の美術家・宮前辰雄さんから教えてもらった。なんだか伝言ゲームみたいだけど、これらの人々はすべて「繊維(ファイバー)」でつながっている。
関島さんが書いた『バスケタリーの定式』(住まいの図書館出版局、1988年)は、今読んでもほんとうに素晴らしい。この本は万人の必読書。この本を読んで、私は私の“世界”を確実に拡げてもらったのだから、関島さんも私の恩人だといえる。
あ。関島さん、関島さん、と書いているが、お目にかかったのは一回だけ。関島さんが忙しくしておられる合間のごく短い時間、おそらく数分だった。それでも私はとても緊張し、すこしだけお話しできたことが今に至るまでの貴重な“体験”になっている。まっすぐで強い眼差し、明晰な言葉。関島さんは、本で感じたままの方だった。
関島さんの作品が素晴らしい、と私が思うのは、繊維である自然素材の特質と制作の方法論とがせめぎ合っているところ。その様が異様なくらいの繊細さと迫力とを同時に生じている。数学的、といってよいほどの厳密な方法論が一つ一つの作品に貫かれており、その方法論はそれぞれの作品で異なっている。同じ方法論は繰り返されない。絶えず作り方の構造が探られている。
方法論を基軸にして作品作りに取り組むこと自体が、この国では極めて珍しい。多くの作家が、超絶技巧や洗練へと向かうか、情緒的な好みや味づくりに流れるか…、というような中で、関島さんは意志的に屹立し続けている。以前、平塚市立美術館で、いくつもの関島さんの作品をみることができた時も感動したが、今回もとても感動した。出品されていた作品では、1994年作がもっとも旧作だった。その「無題かご」と「四箱」も素晴らしいが、とりわけ、「構造を持つ量塊Ⅳ」(2009年)、「九葉」(2009年)など、素晴らしい、と思った。しばし見惚れて時を忘れた。

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