64 藤村克裕雑記帳 | 逸品画材をとことん追求するサイト | 画材図鑑
藤村克裕雑記帳
藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

「シンビズム」展を豊科でみた その3
2021-09-07
     豊科で見た「シンビズム」展の北澤一伯など

 松澤宥氏に“沈潜”したあと、さらに廊下を先に進んで、ギョギョッとしてしまった。床に大量の角材が“二段重ね”でびっしりと敷き詰められている。部屋の中だけでなく廊下にも壁を挟み込むようになっている。二つある部屋の入り口の一つを取り外して廊下と部屋とを一体化させて敷き詰めているのだ。ところどころに、黒いもの白いもの透明なもの、いずれも小ぶりなものたち(正体不明である)が設置されている。
 これは、北澤一伯氏の作品。タイトルは『場所の仕事 光の筏』。
 確かに、これはこの場所のための作品だと言える。壁の凸凹にピッタリと合わせてあるだけでなく、取り外した扉の外枠の凸凹にもピッタリと合わせて細工してある。そういうディテールにも目は行くのだが、何と言っても、材木の物量感が迫ってくる。一般の柱材より一回り細いように見えるが本当にそうかどうか、判然としない。長さは、北澤氏によって何通りかに切り揃えられている。各所に「小ぶりなもの」たちを配するために凹部がある。二段ではなく一段のままにしてある箇所だ。そこにオブジェが設置してある。また、鉋がけしてあるのか、あるいは白いパテを塗り込んであるのか、材木の表面は滑らかで白い。その白さが照明の光を跳ね返している。木口もきちんと処理されている。“二段重ね”の柱材の全体が床からわずかに浮き上がっている。なるほど「筏」は浮かなければならない。浮かせるためにどうしているか、と床に手を膝とついて覗き込んでみると、厚い合板の板が敷かれている。床の養生もかねて、浮き上がる効果を呼び込んでいるのである。
 北澤さんの作品を初めて見たのがいつだったか思い出せないが、床面にほとんど高さのない作品が直接設営されていた。今回の図録に収録されている赤羽義洋氏の「再生の彫刻」という文章を読むと、北澤さんにとって「台座」の問題は極めて重要だったことが分かる。ということは、今回の作品は、台座が浮いて部屋いっぱいに広がって、ついには部屋から廊下へとはみ出して、自らが彫刻として成立できるか、というチャレンジを含んでいる、と考えることもできる。
 
「シンビズム」展を豊科で見た その2
2021-09-07
        豊科で見た「シンビズム」展の松澤宥

 廊下壁にも展示されていた小松さんのドローイング群に没入して我に返り、次の部屋へ向かおう、と振り返ると、廊下奥へと設営された大きな幟(のぼり)=あの「人類よ消滅しよう 行こう行こう(ギャティギャティとルビ) 反文明委員会」の幟と、廊下壁にポッカリと空いた隣の部屋の入口から奥に展示された天井まで届く大きな絵が目に飛び込んできて、再び声を上げそうになったが、なんとかこらえることができた。
 幟と絵と、どちらを先にしようか? と迷ったが、幟は後回しにさせてもらった。そこの部屋には松澤宥氏の「啓示」以前の作品群が並んでいるのではないか、と思ったのである(「啓示」とは、もちろんあの、「オブジェを消せ」との“声”のことだ。1964年6月1日の深夜のことだったそうだ)。
 部屋に踏み込んで、ついさっき目に飛び込んできた大きな絵に、引き寄せられるように近付いていくと、『プサイの意味—ハイゼンベルクの宇宙方程式に寄せて』(1960年)というタイトルの、84㎝×84㎝のサイズの9点の絵がそれぞれ額装されて3×3の状態で「全体」を形作っている作品なのだ、と分かった。額のガラスが照明のライトや非常口を示すサイン照明をはじめ私の姿や部屋の中の様々なものを反射して肝心の絵がよく見えない。見えないが、それぞれ豊かなニュアンスの褐色を基調にした“地”に、奇妙な形状が独特な色使いで描かれているのは分かる。分かるが、よく見えない。まさに、痒いところを靴の上から掻いている、という状態である。それでも目を凝らす。
 会場入り口で配布されていた「作品リスト」によれば、紙に水彩やパステル、クレヨンで描かれているらしい。ここに描かれている不思議な形状と何か似た姿のものはないか? と頭は猛烈に回転するが、中央最上部に描かれている形状は“クリオネ”に似ているかも、いや、プサイ(ψ)というギリシャ文字かも、とか思いつくのがせいぜいである。また、3×3の構成はただちに金剛界曼荼羅を想起させるが、そこからさらに踏み込んで鑑賞していく教養が私にはない。ともかく、独特な作品であり不思議なエネルギーが伝わってくる。この作品に限らず、次に展示されていた『プサイの鳥1』(1959年)やコラージュのある『不詳』(1960年前後)は、パステルやクレヨンの塗り込みの丁寧さ、描き出される形状の独特さ、金泥らしきものによる線も含む素材の扱いの丁寧さなどから、作者の確かな力量が伝わるばかりでなく、何よりも実現したい到達点を踏まえたその目と手の徹底した用いられ方がとても信頼できる。
 
「シンビズム展」を豊科で見た その1
2021-09-07
        豊科で見た「シンビズム」展の小松良和

 9月1日、安曇野市豊科近代美術館の階段を登って、最初に出食わしたのが小松良和氏の作品群だったので思わず、おーっ! いきなり小松さんか、と声を出してしまった。
 小松さんは、私も所属した研究室(中根寛教室)の三学年先輩で、互いの浪人時代には同じ人(数野繁夫さん)に教わった。そんなこともあって、小松さんの作品は比較的見てきた方だと思う。が、付き合いがあったわけではない。
 1985年に36歳で亡くなった小松さんの遺作展は、次の年に芸大の学生会館の展示室と神田の田村画廊とで行われて、私もそれを見ているが、あれからもう35年たってしまった(!)。
 今回の小松さんの展示は、亡くなった年とその前年の絵画とドローイングとで構成され、資料(手作りの冊子や、手書き文字印刷による文を集めたファイルなど6点)の展示も加えられていた。小松さんが実に豊かな才能に恵まれた人だったことは、いま見てもなお明らかであり、その才能ゆえの苦闘もあったことが、展示された作品群からありありと見て取れる。
 小松さんは大学院に進んでから激変し、風貌も服装さえも変化していった。学部卒業の年に一人でヨーロッパ旅行をしたようで、それが契機の一つだったのかもしれない。大学院の修了制作は、まだ絵のような姿はしていたものの、パネル張りの画用紙の地の上に点のような形状が間隔を置いて並んでいるだけで、具象的な形も色彩も完全に消えていた。そして、大学院修了後のスルガ台画廊での個展では、画用紙全面に黒鉛を擦り付けた作品が展示され、次の同じ場所での個展では大量の白い糸が印象的なインスタレーションになっていた。以降しばらくは、その都度、紙、ガラス、水、鉄、ウレタン、黒鉛、木材、小石、糸などを使って展開していたが、どんな時も小松さんの繊細さは決して失われていなかったと記憶している。やがて長野に戻って、1984年のアトリエ完成後、絵に“回帰”して猛烈に制作し、それが今回の展示に並んでいる。短時間によくもまあ、というのが率直な印象である。どれも一定の完成度を備えているのにも驚かされる。
 油絵具の乾きを待つ時間がじれったいのか、アクリル絵具が用いられ、筆の運びは走りすぎているくらいで、左利きの筆触が露わな作品が多い。時に鋭く引っ掻いたような表情の線が加わり、ドローイングでは、針で描いて、色材を擦り込んで針の線と色彩とを同時にキワ立たせるだけでなく、紙がささくれ立ってしまうほど激しく引っ掻くようなことさえしている。

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