立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
「フジオプロ旧社屋をこわすのだ !! 」展
2022-09-30
西武新宿線「下落合駅」あるいは都営バス「新宿駅西口←→練馬車庫」線の「目白5丁目」停車場から歩けば行ける中落合1丁目の「フジオプロ旧社屋」で取り壊し前の展覧会がある、というので行ってきた。
建物の改修や取り壊し前にそれを自由に使って美術展(など)を行う、という「手法」は誰が始めたことだろうか。ゴードン・マッタ=クラークなどが真っ先に思い浮かぶが、彼の場合、建物全体が作品と化してしまう。だから一味も二味も違うわけだが、ともかく改修や取り壊し前の建物を使う展覧会は今となってはそう珍しいことではなくなったが、フジオ・プロダクションが自分達が使ってきた社屋でそれを行う、というので見物してきた。半分以上、のぞき趣味というべきか。
「フジオ」というと、藤子不二雄と赤塚不二夫と、漫画界には巨星が二つ。赤塚不二夫の方のプロダクションの催しである。赤塚不二夫を知らない人はいないだろうが、若い人たちにはあまり馴染みがないかもしれない。
道に迷うことを心配したが、多くの花飾りに囲まれた暖簾が下がっていたのですぐに見つかった。建物自体は驚くほど地味で質素な印象。
検温してもらって、アルコール消毒し、予約を確認してもらう場所に入ると横にはグッズ売り場があり、三面の壁にタケヤマノリヤ、タナカカツキ、川口貴弘、黒田征太郎、しりあがり寿、高橋キンタロー、安斎肇、五木田智央、みうらじゅんの小ぶりな作品が並んでいる。奥の小さな部屋に野上眞宏、浅野忠信、宇川直宏、パラモデル、さらに廊下を隔てた小さな部屋は壁を真っ赤にしてあって田名網敬一、伊藤圭司など(「など」というのは、もう一人「EYE」に似た名前の人がいるのだが二つ目のE左右反転しており、どう操作すればそのフォントを呼び出せるかがわからない)が並んでいる。床や壁に直接線を引いたりペイントしたりしてもいるが、ほぼ無難で小ぶり、ふーん、という感じの作品が多かった。宇川直宏の映像=「バカ田大学」と称して五人の講師(大友良英、養老孟司など)が赤塚不二夫にちなんだ“講義”をしている映像を編集したもの、田名網敬一のド派手な絵、みうらじゅんの小品ながら意外な上手さに満ち満ちた絵、などが印象に残るが、特筆すべきものではない。
建物の改修や取り壊し前にそれを自由に使って美術展(など)を行う、という「手法」は誰が始めたことだろうか。ゴードン・マッタ=クラークなどが真っ先に思い浮かぶが、彼の場合、建物全体が作品と化してしまう。だから一味も二味も違うわけだが、ともかく改修や取り壊し前の建物を使う展覧会は今となってはそう珍しいことではなくなったが、フジオ・プロダクションが自分達が使ってきた社屋でそれを行う、というので見物してきた。半分以上、のぞき趣味というべきか。
「フジオ」というと、藤子不二雄と赤塚不二夫と、漫画界には巨星が二つ。赤塚不二夫の方のプロダクションの催しである。赤塚不二夫を知らない人はいないだろうが、若い人たちにはあまり馴染みがないかもしれない。
道に迷うことを心配したが、多くの花飾りに囲まれた暖簾が下がっていたのですぐに見つかった。建物自体は驚くほど地味で質素な印象。
検温してもらって、アルコール消毒し、予約を確認してもらう場所に入ると横にはグッズ売り場があり、三面の壁にタケヤマノリヤ、タナカカツキ、川口貴弘、黒田征太郎、しりあがり寿、高橋キンタロー、安斎肇、五木田智央、みうらじゅんの小ぶりな作品が並んでいる。奥の小さな部屋に野上眞宏、浅野忠信、宇川直宏、パラモデル、さらに廊下を隔てた小さな部屋は壁を真っ赤にしてあって田名網敬一、伊藤圭司など(「など」というのは、もう一人「EYE」に似た名前の人がいるのだが二つ目のE左右反転しており、どう操作すればそのフォントを呼び出せるかがわからない)が並んでいる。床や壁に直接線を引いたりペイントしたりしてもいるが、ほぼ無難で小ぶり、ふーん、という感じの作品が多かった。宇川直宏の映像=「バカ田大学」と称して五人の講師(大友良英、養老孟司など)が赤塚不二夫にちなんだ“講義”をしている映像を編集したもの、田名網敬一のド派手な絵、みうらじゅんの小品ながら意外な上手さに満ち満ちた絵、などが印象に残るが、特筆すべきものではない。
ルートヴィッヒ美術館展
2022-09-09
雨が降るかもしれない、という天気予報だったので、傘を持って六本木、国立新美術館に行った。「ルートヴィッヒ美術館展」が、さすがにもう終わりそうなので、やっぱり見ておきたい、と例によっての貧乏性である。
1:ドイツモダニズム、2:ロシアアヴァンギャルド、3:ピカソとその周辺、4:シュルレアリスムから抽象へ、5:ポップ・アートと日常のリアリティ、6:前衛芸術の諸相、以上6つのテーマで整理された展示だった。
東京会場での展示作品数は142点。1903年頃作のパウラ・モーダーゾーン=ベッカー『目の見えない妹』が最も制作年代が古く、2016年作のマルセル・オーデンバハ『映像の映像を撮る』が最も最近の作品だった。
絵画作品が最も多く、彫刻・立体、写真、映像、と展示されていた大部分の作品を初めて見た。写真図版などで知っていて実物を初めてみた、というのもあるので、ほぼ全部が初対面。それぞれ興味深く見ることができた。そういえば私はミュンヘン以外のドイツに行ったことがない。
以下、順不同でメモさせていただく。
絵画も彫刻も見応えがあったが、なぜか写真作品の前で長くとどまっていた。どうやっているのか分からない写真作品があったのがその理由の一つ。例えばハインツ・ハーイェク=ハルケ『裸体のコンポジション』。同一のネガフィルムからネガ・ポジを反転したり裏焼きしたりして、左右に配したものだろうか、”ルービンの壺”のことも想起させる。また、ヴェルナー・ローデ『パリスの審判』は6体のマネキン人形に下からの光を当てているが、よく考えるとそれだけではない。一体どうやって撮ったものか分からなくなる。マネキン人形の目の表情とあいまって不思議な写真になっている。同様、ヘルベルト・バイヤー『メタモルフォーゼ』では、向こうに森や地平線や空を見渡せる洞窟のような場所の手前に白い幾何形態がたくさんあって、右側からの光を受けている。これもよく考えてみると、幾何形態たちの置かれ方や光の受け方が不自然極まりない。一体どうなっているのか? と目を凝らしても分からない。合成写真か? とも思ってさらに目を凝らすが分からない。
一方、ヴォルス『舗装石』のように、何気ない路面を撮っているのだろうが、なんとも言えない表情を備えて実に魅力的な、そういうタイプの写真もあってこれらも見飽きることがなかった。
アレクサンドル=ロトチェンコの写真作品が並んでいた。私はこの人の写真が大好きなのだが、実物の写真作品とお目にかかれる機会は滅多にない。知っていた写真も初めての写真もあったが、彼の写真は、出会い頭のインパクトだけでなく、じっくり見てもまた面白い。例えば『ワルワラ・ステパーノヴァの肖像』の、細かな網目越しからの影が女性の顔の上に落ち、それが荒い網点のような効果になって女性の表情を柔らかく叙情的にしているところを的確に捉えたその微細な描写は素晴らしい(帰宅して、ロドチェンコの作品集を開いてみたが、図版ではあの凄さはとても捉えることができていない)。
彫刻。エルンスト・バルラッハ『うずくまる老女』や、ケーテ・コルヴィッツ『哀悼』の手の表現。物理的にはペチャンコなのに、手の厚みや表情、つまり立体を感じさせるのはさすがである。しかし、三次元の彫刻作品では、どうしたってペチャンコそのものに見えてしまう場所がある。ついそうした場所を見つけてしまって、面白がってしまう(私は意地が悪い)。
また、ハンス・アルプ『女のトルソ』は“前”と“後ろ”を保持しているようでもあるが、周囲を巡っていくと、“前”も“後ろ”もそれぞれに豊かな表情をもち「女のトルソ」を十分に感じさせていて、彫刻でなければできない表現になっている。“前”も“後ろ”もないのが彫刻というべきか。
ドナルド・ジャッド『無題』も心にくい。壁に設営されたこの作品は60センチほど観客のがわに迫り出しているが、一見した時には大げさに感じられたその「60センチ」が重要だ、と見た。レリーフ本体の半円に近い形状が鏡面ステンレスに映り込んで実像と虚像とで円を作っているかのようだが、よく見れば上下にわずかな“トンガリ”がある。その“トンガリ”を見出すことを誘い込むのは本体の60センチの奥行きであろう。この作品も私は初めて見た。
展示の中心を成す絵画・平面は、充実していた、と思う。キリがないので、いくつか。
マックス・ベックマン『月夜のヴァルヒェン湖』は使っている色数が少ないのに、堂々と成立している。白、黒、青緑、そして黄色、ピンク、褐色。キレのいい面白い絵だ。さすが、というべきか。
1:ドイツモダニズム、2:ロシアアヴァンギャルド、3:ピカソとその周辺、4:シュルレアリスムから抽象へ、5:ポップ・アートと日常のリアリティ、6:前衛芸術の諸相、以上6つのテーマで整理された展示だった。
東京会場での展示作品数は142点。1903年頃作のパウラ・モーダーゾーン=ベッカー『目の見えない妹』が最も制作年代が古く、2016年作のマルセル・オーデンバハ『映像の映像を撮る』が最も最近の作品だった。
絵画作品が最も多く、彫刻・立体、写真、映像、と展示されていた大部分の作品を初めて見た。写真図版などで知っていて実物を初めてみた、というのもあるので、ほぼ全部が初対面。それぞれ興味深く見ることができた。そういえば私はミュンヘン以外のドイツに行ったことがない。
以下、順不同でメモさせていただく。
絵画も彫刻も見応えがあったが、なぜか写真作品の前で長くとどまっていた。どうやっているのか分からない写真作品があったのがその理由の一つ。例えばハインツ・ハーイェク=ハルケ『裸体のコンポジション』。同一のネガフィルムからネガ・ポジを反転したり裏焼きしたりして、左右に配したものだろうか、”ルービンの壺”のことも想起させる。また、ヴェルナー・ローデ『パリスの審判』は6体のマネキン人形に下からの光を当てているが、よく考えるとそれだけではない。一体どうやって撮ったものか分からなくなる。マネキン人形の目の表情とあいまって不思議な写真になっている。同様、ヘルベルト・バイヤー『メタモルフォーゼ』では、向こうに森や地平線や空を見渡せる洞窟のような場所の手前に白い幾何形態がたくさんあって、右側からの光を受けている。これもよく考えてみると、幾何形態たちの置かれ方や光の受け方が不自然極まりない。一体どうなっているのか? と目を凝らしても分からない。合成写真か? とも思ってさらに目を凝らすが分からない。
一方、ヴォルス『舗装石』のように、何気ない路面を撮っているのだろうが、なんとも言えない表情を備えて実に魅力的な、そういうタイプの写真もあってこれらも見飽きることがなかった。
アレクサンドル=ロトチェンコの写真作品が並んでいた。私はこの人の写真が大好きなのだが、実物の写真作品とお目にかかれる機会は滅多にない。知っていた写真も初めての写真もあったが、彼の写真は、出会い頭のインパクトだけでなく、じっくり見てもまた面白い。例えば『ワルワラ・ステパーノヴァの肖像』の、細かな網目越しからの影が女性の顔の上に落ち、それが荒い網点のような効果になって女性の表情を柔らかく叙情的にしているところを的確に捉えたその微細な描写は素晴らしい(帰宅して、ロドチェンコの作品集を開いてみたが、図版ではあの凄さはとても捉えることができていない)。
彫刻。エルンスト・バルラッハ『うずくまる老女』や、ケーテ・コルヴィッツ『哀悼』の手の表現。物理的にはペチャンコなのに、手の厚みや表情、つまり立体を感じさせるのはさすがである。しかし、三次元の彫刻作品では、どうしたってペチャンコそのものに見えてしまう場所がある。ついそうした場所を見つけてしまって、面白がってしまう(私は意地が悪い)。
また、ハンス・アルプ『女のトルソ』は“前”と“後ろ”を保持しているようでもあるが、周囲を巡っていくと、“前”も“後ろ”もそれぞれに豊かな表情をもち「女のトルソ」を十分に感じさせていて、彫刻でなければできない表現になっている。“前”も“後ろ”もないのが彫刻というべきか。
ドナルド・ジャッド『無題』も心にくい。壁に設営されたこの作品は60センチほど観客のがわに迫り出しているが、一見した時には大げさに感じられたその「60センチ」が重要だ、と見た。レリーフ本体の半円に近い形状が鏡面ステンレスに映り込んで実像と虚像とで円を作っているかのようだが、よく見れば上下にわずかな“トンガリ”がある。その“トンガリ”を見出すことを誘い込むのは本体の60センチの奥行きであろう。この作品も私は初めて見た。
展示の中心を成す絵画・平面は、充実していた、と思う。キリがないので、いくつか。
マックス・ベックマン『月夜のヴァルヒェン湖』は使っている色数が少ないのに、堂々と成立している。白、黒、青緑、そして黄色、ピンク、褐色。キレのいい面白い絵だ。さすが、というべきか。
絶対音感の持ち主が音痴って
2022-09-05
今朝、たまたまつけていたテレビに、驚くべき人物が登場していた。「山口めろん」さんという。メロンのかぶりものをしていて、喋るときには語尾に必ず、メロン! とつける。司会者から、絶対音感の持ち主なのにとっても歌が下手、と紹介されて、ピアノの弾き語りを始めた。
滑らかにピアノを弾くが、歌の方は確かに音程もリズムもヘンだった。それは「音痴」と言ってよい風格であった。
私はこの事態が理解できなくて、思わず真剣に見入ってしまい、見入ったからといって理解できるはずもなく、スイッチを切ってもモヤモヤし続ける。
そこで、思い切ってここに書いて(打ち込んで)みれば少しはモヤモヤが晴れるのではないか、と考えた。うまく書けるはずがないが、、、。
絶対音感の持ち主が「音痴」、って、その意味が分からない。
だって、日常のどんな音もその高さと長さを五線譜上に記述できるのが「絶対音感の持ち主」ってことのはず。複数の音が同時に重なって聞こえてもその音の一つ一つを聴き分けて一つ一つ記述する、ということだってできる。ピアノの調律がちゃんとできていない/できている、なんてことは、絶対音感の持ち主にならすぐに分かるだろう。
ならば、自分が歌っているときの声も例外ではないはずではないか。
なのに「めろん」さんは、自分ではとっても上手に歌えていると思っていマスクメロン! などとニコニコしながら言うのであった。
昔、「ゆうこりん」と呼ばれていた小倉優子ちゃんは、じつは「こりん星」からやって来たのではなかった。今は誰でも知っている。
「山口めろん」さんも、じつは「音痴」ではないのではないか。
清水ミチコさんは、右手(だったか左手)で「大岡越前」の旋律を弾き、同時に左手(だったか右手)で「水戸黄門」の旋律を弾くことができる。
昔、これもテレビで見たのだが、高橋悠治さんがクセナキスという人が作曲したピアノ曲を弾いた。これを弾くには暗譜するしかないんですよ、と弾き終わってこともなげに言った。暗譜などとてもできそうもないような、乱暴に言えば“騒音”の連なりのような曲だったので、音楽家の凄さを実感したものだった。
旋律というまとまりではなく、ある時間のまとまりを薄く輪切りにして音を配し、それらをもう一度繋いでいけば“結果的に”旋律のある曲になる、というような捉え方が音楽をやる人にはあるのではないか。
「山口めろん」さんが「音痴」を装っていて、“普通の”ピアノ伴奏と「音痴」の歌唱との全体のまとまりを輪切りにして連ねているとしたら、絶対音感の持ち主なのに「音痴」なんです、という“奇妙さ”を売り物にした演奏は十分に可能だろう。とすれば、ずいぶん手の込んだことをするものだ。確かに、自分ではとっても上手に歌っていると思いますコリン、じゃなくて、思いマスクメロン、という発言に嘘はなかったわけである。ふ
ノコギリの歯をたわませてマレットで叩く。そして、“お・ま・え・は・あ・ほ・か〜”とやって笑わせる。あれは「横山ホットブラザース」だったか。あ、不意に思い出してしまった。
(2022年9月5日、東京にて)
山口めろんさんの動画
https://www.youtube.com/watch?v=Slh0AumYTnM
滑らかにピアノを弾くが、歌の方は確かに音程もリズムもヘンだった。それは「音痴」と言ってよい風格であった。
私はこの事態が理解できなくて、思わず真剣に見入ってしまい、見入ったからといって理解できるはずもなく、スイッチを切ってもモヤモヤし続ける。
そこで、思い切ってここに書いて(打ち込んで)みれば少しはモヤモヤが晴れるのではないか、と考えた。うまく書けるはずがないが、、、。
絶対音感の持ち主が「音痴」、って、その意味が分からない。
だって、日常のどんな音もその高さと長さを五線譜上に記述できるのが「絶対音感の持ち主」ってことのはず。複数の音が同時に重なって聞こえてもその音の一つ一つを聴き分けて一つ一つ記述する、ということだってできる。ピアノの調律がちゃんとできていない/できている、なんてことは、絶対音感の持ち主にならすぐに分かるだろう。
ならば、自分が歌っているときの声も例外ではないはずではないか。
なのに「めろん」さんは、自分ではとっても上手に歌えていると思っていマスクメロン! などとニコニコしながら言うのであった。
昔、「ゆうこりん」と呼ばれていた小倉優子ちゃんは、じつは「こりん星」からやって来たのではなかった。今は誰でも知っている。
「山口めろん」さんも、じつは「音痴」ではないのではないか。
清水ミチコさんは、右手(だったか左手)で「大岡越前」の旋律を弾き、同時に左手(だったか右手)で「水戸黄門」の旋律を弾くことができる。
昔、これもテレビで見たのだが、高橋悠治さんがクセナキスという人が作曲したピアノ曲を弾いた。これを弾くには暗譜するしかないんですよ、と弾き終わってこともなげに言った。暗譜などとてもできそうもないような、乱暴に言えば“騒音”の連なりのような曲だったので、音楽家の凄さを実感したものだった。
旋律というまとまりではなく、ある時間のまとまりを薄く輪切りにして音を配し、それらをもう一度繋いでいけば“結果的に”旋律のある曲になる、というような捉え方が音楽をやる人にはあるのではないか。
「山口めろん」さんが「音痴」を装っていて、“普通の”ピアノ伴奏と「音痴」の歌唱との全体のまとまりを輪切りにして連ねているとしたら、絶対音感の持ち主なのに「音痴」なんです、という“奇妙さ”を売り物にした演奏は十分に可能だろう。とすれば、ずいぶん手の込んだことをするものだ。確かに、自分ではとっても上手に歌っていると思いますコリン、じゃなくて、思いマスクメロン、という発言に嘘はなかったわけである。ふ
ノコギリの歯をたわませてマレットで叩く。そして、“お・ま・え・は・あ・ほ・か〜”とやって笑わせる。あれは「横山ホットブラザース」だったか。あ、不意に思い出してしまった。
(2022年9月5日、東京にて)
山口めろんさんの動画
https://www.youtube.com/watch?v=Slh0AumYTnM
「井上雅之展」補足
2022-09-02
笠間・茨城県陶芸美術館で「井上雅之展」の図録は売り切れだった。
「見本」の図録でもいいから売ってください、とお願いすると、ミュージアムショップご担当の紳士が、それはムリですが、東京の「ギャラリー東京ユマニテ」に何冊かあるかもしれません、お問合せなさればいかがでしょう、と教えてくれた。
帰路、思い切って「ギャラリー東京ユマニテ」に電話してみたら、ある、というので、予約して、次の日に京橋まで買いに行った。二冊組のとてもきちんとした図録だった。一冊は氏の全作品を収録し、もう一冊は今回の出品作を収録している。その内容の密度に比して、とっても安い。茨城県陶器美術館ミュージアムショップでは、売り切れ、というのも頷けた。
で、その図録を見てみると、私の書いた文章が間違っていたところが「作品解説」の欄に見受けられた。なので、それを踏まえて私の先の文を以下について訂正させていただきたい。申し訳ありません!
まず、完成した作品を逆さまにしている、という私の記述は違っていて、二つの器状の作品を組み合わせた「合子」状のものだ、ということである。どちらにしても、使える、という「用途」を前提にせず無視しているわけだが、単独の作品を逆さまにしたのと、二つの作品を合体して「合子」のようにしたのとは大いに違うことである。私が、美術館の展示の前で誤った見方をしていたことは事実なわけで、観察不足は否めず、軽率であった。お詫び申し上げる。
また、トビカンナを用いた“装飾”のある“太った”「橋脚」を備えた「橋」状の作品は、瞬間接着剤などは用いておらず、構成を確定後、施釉、焼成、という手順を踏んで計画的に作られたもの、とのことである。これについても誤解を招くような書き方があったかもしれない。お詫びして訂正させていただきたい。
以上、申し訳ありません! 訂正してお詫びします。
(2022年9月1日、東京にて)
「見本」の図録でもいいから売ってください、とお願いすると、ミュージアムショップご担当の紳士が、それはムリですが、東京の「ギャラリー東京ユマニテ」に何冊かあるかもしれません、お問合せなさればいかがでしょう、と教えてくれた。
帰路、思い切って「ギャラリー東京ユマニテ」に電話してみたら、ある、というので、予約して、次の日に京橋まで買いに行った。二冊組のとてもきちんとした図録だった。一冊は氏の全作品を収録し、もう一冊は今回の出品作を収録している。その内容の密度に比して、とっても安い。茨城県陶器美術館ミュージアムショップでは、売り切れ、というのも頷けた。
で、その図録を見てみると、私の書いた文章が間違っていたところが「作品解説」の欄に見受けられた。なので、それを踏まえて私の先の文を以下について訂正させていただきたい。申し訳ありません!
まず、完成した作品を逆さまにしている、という私の記述は違っていて、二つの器状の作品を組み合わせた「合子」状のものだ、ということである。どちらにしても、使える、という「用途」を前提にせず無視しているわけだが、単独の作品を逆さまにしたのと、二つの作品を合体して「合子」のようにしたのとは大いに違うことである。私が、美術館の展示の前で誤った見方をしていたことは事実なわけで、観察不足は否めず、軽率であった。お詫び申し上げる。
また、トビカンナを用いた“装飾”のある“太った”「橋脚」を備えた「橋」状の作品は、瞬間接着剤などは用いておらず、構成を確定後、施釉、焼成、という手順を踏んで計画的に作られたもの、とのことである。これについても誤解を招くような書き方があったかもしれない。お詫びして訂正させていただきたい。
以上、申し訳ありません! 訂正してお詫びします。
(2022年9月1日、東京にて)