藤村克裕雑記帳

藤村克裕雑記帳270 2024-11-26

雨模様の寒い日、「谷川さんの家」の方へ行ってみた

 一週間ほど前か、急にとても寒くなった日。
 さむい、さむい、と言っているうちに、詩人・荒川洋治氏の「◯◯◯◯◯はさむい」というあの有名なフレーズを思い出したのだが、「◯◯◯◯◯」のところをどうしても思い出せない。こんなはずはない、と思うのだが思い出せない。
 いつか古本屋で激安で買った『荒川洋治全詩集』を探し出して、さらにその中の『水駅』のところを探すと、あった。
 「◯◯◯◯◯」には「口語の時代」と入る。
 「口語の時代はさむい」。
 「見附のみどりに」という詩のおしまいのほうに出てくる。
 こうだ。


 見附のみどりに


 まなざし青くひくく
 江戸は改代町への
 みどりをすぎる
  
 はるの見附
 個々のみどりよ
 朝だから
 深くは追わぬ
 ただ 
 草は高くでゆれている
 妹は
 濠ばたの
 きよらかなしげみにはしりこみ
 白いうちももをかくす
 葉先のかぜのひとゆれがすむと
 こらえていたちいさなしぶきの
 すっかりかわいさのました音が
 さわぐ葉陰をしばし
 打つ

 かけもどってくると
 わたしのすがたがみえないのだ
 なぜかもう
 暗くなって
 濠の波よせもきえ
 女に向かう肌の押しが
 さやかに効いた草のみちだけは
 うすくついている 
 夢を見ればまた隠れあうこともできるが妹よ
 江戸はさきごろおわったのだ
 あれからのわたしは
 遠く
 ずいぶんと来た

 いまわたしは、埼玉銀行新宿支店の白金のひかりをついてあるいている。ビルの破音。消えやすいその飛沫。口語の時代はさむい。葉陰のあのぬくもりを尾けてひとたび、打ちいでてみようか見附に。

 改代町は「かいたいちょう」と読む(調べた)。埼玉銀行はいまや「りそな銀行」と名前を変えている(調べた)。白金には「はっきん」とルビがついている。尾けては「つけて」と読んでいいか?
 「埼玉銀行新宿支店の白金のひかり」というのだから、「埼玉銀行新宿支店」=「りそな銀行新宿支店」は白金(まさか、せいぜいステンレスとかだろう)が多用されたピカピカのビルなのだろうか? いや、そういうことではなくて、「埼玉銀行新宿支店」で何かが爆発して、瞬間、激しく光ったのだろうか? ともかく、そういうものにおじけることなく兄は歩いている。破音、飛沫、、、。おや、待てよ。何かが爆発したのではなくて、兄はピカピカの「埼玉銀行新宿支店」のビルで立ち止まってビルに向けて立ち小便しているのかもしれない。
 ともかく、江戸時代からひとりやってきた兄は、爆弾(?)の爆発にさえめげることなく歩きながら、あるいは、ピカピカのビルで立ち止まっておしっこしながら、「口語の時代はさむい」と感じているのだ。おしっこの後、ぶるぶるっと身を震わせたかもしれない。そして、葉蔭に江戸時代の妹のぬくもりが残るあの見附に「打ちいでて」みようか、と一部分を“文語”で思案している、、、。
 
 寒い日に、さむい、さむい、と言っているだけの私のようなものに比べて、詩人がカッコいいのはわかるのだが、「口語の時代はさむい」のなら「文語の時代はあつい」のか? とつい、まぜっかえしたくなった。そのくらい、その日は寒かったのである。それで、私は、さむい、さむい、と言う代わりに、口語の時代はさむい、口語の時代はさむい、と唱えて以降を過ごし、寒さをはぐらかした。

 次の日は晴天で、その日に谷川俊太郎氏の訃報を知った。知った直後、ふと書棚に手をのばし取って開いた吉増剛造氏の『太陽の川』のたまたまの見開きに「阿佐ヶ谷の谷川さんの家へ」という文があったのである。あまりの符合に驚いたあげく、「道順」という詩を「地図」にして散歩に出かけたい、なんて前回の「雑記帳」に書いた(打ち込んだ)のである。
 そんなことを書いた(打ち込んだ)セキニンというものがある。

 数日後、雨模様でまたまた寒い日だったが、職人さんたちの都合で拙宅の工事がお休みになった。
 しめた!「谷川あるき」ができる。
 
 頭の中には、「ひらたい感じの木造の家」の戸口に「丸に犬」の標識が縦に四つ並んでいる“映像”がありありと浮かんでいた。出かける前に、「道順」をケータイで写真に撮った。

 昼過ぎ、地下鉄・丸の内線・南阿佐ヶ谷駅に降り立って、青梅街道を東に進んだが、どこから右に折れるかが分からない。かなり歩いても大事な目印の「煙草屋」がないのだ。
 我慢できずに、あてずっぽうに右に折れて、坂を下って行くと、やがて善福寺川に出た。「道順」の中に善福寺川は出てこない。来すぎてしまったらしい。でも、途中、「枯れかかった樫の木」なんかなかったし、中学校はあったけど「小学校」なんかなかった。パン工場だって見つからなかった。まして、足の悪い男の子にも、言い争う老人たちにも、不幸な若い女にも出会うことはなかった。が、めげずに、行きつ戻りつ、あたりをウロウロ探して歩いた。小一時間。
 結局、「谷川さんの家」を見つけることはできなかった。
 「道順」という詩がいつ書かれたか知らない。「道順」を全文引用していた吉増剛造氏の『太陽の川』が出版されたのは1978年6月だから、それ以前に書かれたことは間違いない。ならば、ほぼ半世紀のあいだ、東京の同じ場所で、同じ人(家族)が同じように煙草屋を営んでいる、と考えること自体がおかしいのだろう。「口語の時代」のことはすっかり忘れて、さむい、さむい、とこの日の“探索”を切り上げた。あ、「口語の時代」とは谷川俊太郎氏の活躍のことか?
 「ひらたい感じの家」も、その戸口の四つの「丸に犬」の標識も見つけることができなかったが、この「雑記帳」に「谷川さんの家」への「道順」を紹介してしまったセキニンというものは少しだけ果たせたような気になった。「道順」に従っては「谷川さんの家」に行けない。

 その後、『荒川洋治全詩集』に挟まっていた「荒川洋治全詩集・栞」に、詩人・飯島耕一氏の文章を見つけた。「隙だらけの武芸者に賭ける」。

 ときどき、ふっと思うことがある。なぜ谷川俊太郎とか吉増剛造はコテンパンに悪くいわれることがないのだろうか。谷川へのきびしい批判というものをほとんどわたしはみたことがない。吉増剛造を痛烈に批判する文章も読んだことがないような気がする。/それにひきかえ、わたしや荒川洋治は何と批判や悪罵の十字砲火の中に立たされてきたことだろう。(略)
                   
 と始まる。
 つい笑ってしまった。
 飯島氏と荒川氏とが、いつ、どんな「批判や悪罵の十字砲火の中に立たされてきた」のか、事情に疎い私にはまったくわからない。が、たしかに、谷川氏はずーっと人気者だったし、吉増氏は今も人気者だ。ゆえに、私のような者の手元にもいくつかの資料が留め置かれてきたのだろう。でも、飯島氏の本だって私のところには何冊かある。

 谷川俊太郎氏といえば、私がただちに思い出すのは、詩人・渡邊十絲子氏の『今を生きるための現代詩』(講談社現代新書、2013年)である。この200ページほどのちいさな本は、読み応えがあった。とりわけ、1965年発行のあの分厚い『谷川俊太郎詩集』(思潮社)をめぐって書かれた次のような驚くべき箇所が忘れ難い。長くなるが書き写す。

「少しずつ百円玉をためながら大きな書店を見てまわり、何ヶ月かののちにわたしはほしかったものを見つけて買った。/思潮社から1965年に発行された『谷川俊太郎詩集』。/わたしが手にしたのは1977年の第十刷だ。グレーのボール紙の函に入れられた厚みのある詩集(略)/粟津潔のデザインが格好よかった。(略)」
「七百ページを超えるこの詩集をはじめてぱらぱらとめくってみたとき、最も衝撃的だった詩はつぎのようなものだ。まったく意味がわからなくて、でも鋭く光っていて、密度があった。ことばの格好よさをじっと味わっていると、意味がわからないことなどはまったく気にならなかった。

 25 世界の中で私が身動きする=230
 26 ひとが私に向かって歩いてくる=232
 27 地球は火の子供で身重だ=234
 28 眠ろうとすると=236
 29 私は思い出をひき写している=238
 30 私は言葉を休ませない=240
 31 世界の中の用意された椅子に坐ると=242
 32 時折時間がたゆたいの演技をする=244
 33 私は近づこうとした=246
 34 風のおかげで樹も動く喜びを知っている=248
 35 街から帰ってくると=250
 36 私があまりに光をみつめたので=252
 37 私は私の中に帰ってゆく=254
 38 私が生きたら=256
 39 雲はあふれて自分を捨てる=258
 40 遠さのたどり着く所を空想していると=260

 読者はすでにお気づきであろう。/これは、じつは目次の一部分だ。(略)/これが目次だと気づけば、ここに存在していた「詩」は消えてなくなるが、それまでのかぎられた幸福な時間、きわめて前衛的な詩として、わたしはここに書かれたことばを読んだのだった。誤読と呼ぶのも美化しすぎで、たんなるこどもの勘違いだが、少なくともわたしのこころのなかに、ほんものの詩篇とおなじかそれ以上の感銘を、この詩(でないもの)は与えたのである。/(略)」

 いい話だ。というか、素晴らしい。著者が中学生の時の話だという。すごい。

 「(略)/なんて自由なんだろう。ことばに番号をふるなんて!/言いかけて途中でやめてしまうなんて!/(略)」
 
 こんな感じ取り方ができた女子中学生! おじいさんになってしまった私は激しく嫉妬したのだった。
 
(2024年11月24日、東京にて)

・荒川洋治(あらかわ ようじ)
1949年4月18日 - 、日本の現代詩作家、随筆家。日本芸術院会員
参考文献:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B7%9D%E6%B4%8B%E6%B2%BB

・谷川俊太郎(たにかわ しゅんたろう)
1931年(昭和6年)12月15日 - 2024年(令和6年)11月13日、日本の詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家
参考文献:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E4%BF%8A%E5%A4%AA%E9%83%8E

・吉増剛造(よします ごうぞう)
1939年2月22日 - 、日本の詩人。日本芸術院会員、文化功労者
参考文献:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%A2%97%E5%89%9B%E9%80%A0

・飯島耕一(いいじま こういち)
1930年2月25日 - 2013年10月14日、日本の詩人、小説家、翻訳家。日本芸術院会員、元明治大学法学部教授
参考文献:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%B3%B6%E8%80%95%E4%B8%80

詩人・渡邊十絲子
『今を生きるための現代詩』(講談社現代新書、2013年)
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000210695

[前回の雑記帳]
藤村克裕雑記帳269 2024-11-20
晴天の日(11月17日、11月19日)のこと
https://gazaizukan.jp/fujimura/columns?cid=321


写真1:新宿区改代町にて
写真2:新宿改代町郵便局付近
写真3:善福寺川にて
写真4:『谷川俊太郎詩集』(現代詩文庫27、思潮社、1969年)の裏表紙より

藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

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