色の不思議あれこれ137 2019-07-29
「クリスチャン・ボルタンスキー」展を見た。その2
会場には作品のキャプションが一切ないので、配布された手元の「マップ」に頼らざるを得ない。暗い中で小さな文字を読むのはとても大変だ。かろうじてこれは「D家のアルバム、1939年から1964年まで」とのタイトルで、1971年の作品、と分かる。所蔵は‥‥、あれま、東京都写真美術館。もっと目を凝らして読んでいくと、ボルタンスキーの友人の家のアルバムの写真をそのまま複写・拡大して年代順に並べて作った作品だ、ということが分かった。ある家族の日常の情報を記憶のように留めた写真群。
ふと、床に設置されている金属枠の同一フォーマットの複数の作品が、壁の写真群と対になっているかのように感じられてくる。
床の作品は、作品と作品との間を歩き回ることができるので、表からも裏からも写真映像で構成された像が見える。裏側には作品を照らすライトがどこにもないのに、ちゃんと見えている。あれっ? なぜ?
注意して観察すると、透明な膜面にシルクスクリーンとかで印刷されているらしい。だからライトなしで見えるのでは? 「マップ」には「グラシン紙に印刷」とある。なるほど、それでフィルムのようなテカリがないのだ。そして、ここに構成されている写真情報もまた、先の“アルバム写真”が引用元ではないか、と確かめようとするが暗くて見えにくく、うまくいかない。再び手元の「マップ」を参照することになった。
「青春時代の記憶」とあって、2001年作。壁の150枚の写真とは出典が無関係で、人々の日常を示す写真群を構成して印刷したものらしい。それが複数、人が通り抜けられる間隔で配されている。当然のことながら、裏側から見ると表側の像の左右が反転している。
別の壁には胸の高さくらいに金属製の箱が設置されている。ちょっと見はジャッドを連想させる。立体を壁にカッコよく設置するには工夫が必要である。横から見てみるが設置の仕掛けがよくわからない。とてもうまい設置である。上から中を覗いてみる。が、よく見えない。薄暗いばかりでなく、上面に目の細かなネットがピンと張られているようなのが分かる。
このあたりで、一つ一つの作品をそのディテールまで凝視するのが大事ではなく、ぼーっと見ることが強いられているのではないか? と気づくことになった。気づいたあとは「見えにくい」というストレスを感じることはなくなった。「記憶」は、確かにぼーっとしているではないか。ぼーっとしていながら、しかし懸命に辿ろうとしたり、思いがけないときに明瞭に蘇る。
ストレスがなくなると、どうしてもボルタンスキーのテクニックへと目が向いていく。
光=電球=スタンドの使い方、コードの使い方、仮設壁どうしの隙間、その使い方、布の使い方、風の使い方、ピントの合った写真とピンボケ写真との使い分け、寸法の判断、ガラス板などの“てかり”の有無の使い分け、色、音、‥‥。
いちいち挙げないが、本当にムッチャ・テクニシャン。上手すぎる。フォーマルでさえある。
こうなってくると、豪速球、というより、うーん、超頭脳派の投球だ、と、ちょっと複雑な気持ちを抱えながら、会場を巡っていくことになったのである。
ボルタンスキー自身の目論見通りインスタレーション作品としてこの展示全体を見ると、ほぼ完璧だと私は思った。先日紹介した友人の意見とは異なってしまったが、しょうがない。もっとも、大阪と東京とでは違う展示になっているはずだ。
一方で、明らかに一つ一つの作品、という単位がある展示である。一つ一つの作品をもっとはっきり見たい、という私の欲望は宙吊りだ。とはいえ、展覧会の会場は明るくなければならない、ということはないのだった。それは理解しているつもりだが。
一緒に訪れていた家人が近づいてきて、スタンドの黒くて丸いシルエットが銃で撃ち抜かれた傷に見えてきて、とても怖い、と言った。なるほど。
最後の出口のある壁には、今度は赤い電球が並んで「ARRIVEE」=到着との文字が形作られていた。ちょっと気恥ずかしくなった。
(2019年7月20日、東京にて)
●クリスチャン・ボルタンスキー
日時:2019年6月12日~9月2日
会場:国立新美術館 企画展示室2E(東京・六本木)
開館時間:10:00~18:00(休館日・毎週火曜)
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
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