色の不思議あれこれ134 2019-07-19
土砂降りの国分寺駅に降り立った日のこと
また梅雨の季節。
6月15日(土)の東京は「土砂降り」の予報が的中していた。ずぶ濡れになる、とためらったが、えいっ! と私と家人は新宿から中央線・特快に乗り込み、国分寺駅に降り立ってバスで武蔵野美術大学を目指した。
あいにくの天気にもかかわらず、ムサビはオープンキャンパスで賑わっていた。その賑わいを“中央”から突破して「清水多嘉示資料Ⅲ」展の会場に向かう。
入り口で傘の雨を払い落とし、鍵のかかる装置(名称が分からない)に傘を預けた。ふと会場の方を見ると、茶色のいわゆる具象彫刻が大小、あたり一面にびっしり犇めいていて、あまりのことにその場で立ち尽くしてしまった。向こうまでずっと広がっている。
気を取り直して一歩二歩と会場入り口へと移動していると、係のお姉さんが、カバンをロッカーに預けてください、と言ってきたので我にかえることができた。
この展示のことは、ある方から教わった。その方は、すごいですよ、と言うのだった。そう聞いて、見たい! という欲望を抑えきれずに、こうしてムサビまでやってきた私と家人なのであったが、想像以上に、すごい! と私は思った。
まず、目の前に広がる作品群のその物量において。
資料によれば、並べられた石膏原型は約240点。壮観である。それらは、ほぼ全て、鋳物工場の煙などで黒に近い茶色で覆われているので、壮観さはさらに増している。
“見張り”のお姉さんの指示に従いカメラだけ携えて、入口から“結界”の向こうに足を踏み入れた。ともかく、目移りがする。一つ一つに目を凝らそうとするのだが、全然うまくいかない。何を見れば良いか分からない。集中できないのである。必死で見ていくが、すごい数である。公募展の彫刻部の展示とか大学の彫刻科の卒展の展示でさえ、もっともっと余裕があるだろう。ともかく、ビッシリ! 文字通り“詰め込まれて”いるのだ。というか、一人の作家がこんなにたくさん作ったのか! と“雑念”が入って、さらに動揺している。おいら、やっぱりサボりすぎたなあ、とすでに負けている。いや最初からとっくに負けているわけだが。
ともかく、一つずつ順番に見ていくしかない。
すごいぞ。
さすが「清水多嘉示」である。今や、とても懐かしい「彫刻」がここにある。
心棒を立てて棕櫚縄を巻きつけ、水粘土をくっつけ、さらにつけたり取ったりしながら手元に形を作り上げていく塑像。絵でいえば、もっともデッサンに近い。“実力”が露わになる。デッサンも塑像も、描いたり消したり=つけたり取ったりしながら、納得いくまで“世界”を追い詰めるのに最適なのだ。そう、清水多嘉示は塑像の彫刻家なのである。
たくさんの全身像を順に見ていくと、やがて「首」の像=「頭像」が少しずつ出てくる。これが素晴らしい。「実力」がいかにも露わなのだ。こんな「首」を作ることができる人は、彫刻家にだってそうそういるわけではない。もう、ごめんなさい! なのだ。
全身像は確かにすごい。すごいが、どれも頭部が異様に小さい、と思う。何故か?
思わず、高村光太郎「雨の日のカテドラル」や「根付の国」のことなどを思い出している。いるが、長続きしない。次々に作品が押し寄せてくるのである。
会場を巡り巡っていると、やがて若き日、パリでブールデルのもとで学んでいた頃に作ったらしき「首」が並んでいるところに行き当たった。
もう、すでに非凡さが露わである。ブールデルに可愛がわれたことが「当然だろう」と頷かれる。
ちょっとデスピオに似た“テイスト”の「首」の作品の前で、いろいろ試していたんだなあ、と家人と話していると、上品なご婦人から話しかけられた。なんと、清水多嘉示のお嬢さん、だった。
(2019年6月19日、6月16日のことを思い出しながら、東京にて)
(ぼやぼやしているうちに、一ヶ月も経ってしまった。すっかり忘れてしまわないうちにもう少し書き留めておきたい。)
つづく→
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
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