色の不思議あれこれ112 2018-10-31
足利市立美術館「長重之展」その1
いつだったか、東武線の不思議な家のことを書いた。しかし、肝心の「長重之展」についてのことが先送りされてしまっていた。あのオープニングの日から時間が経ってしまって、記憶が曖昧である。それで、もう一度出かけることにした。
実に興味深く見た。小さな美術館ではあるが、全体を巧みに使って、長年の長さん(1935年生まれ)の取り組みの推移をとてもよく示している。
足利は今なら浅草から東武線特急に乗れば一時間で行ける。でも、長さんが盛んに発表活動を始めた1960年代終わりあたりなら三・四時間要したのではないか。今でも、都内から各駅を乗り継いで行くと三時間ほどかかる。そういうところで作家活動を続けてきたのが長さんである。別に「田舎」を強調しようというわけではない。ないが、「田舎」で簡単に継続できることではない。
美術館入口で、正面の二つの大きな作品に迎えられる。各100枚ほどの画用紙にそれぞれ空を飛ぶ飛行機が描かれていて、長さんの作品の“テイスト”とは明らかに違っている。少しとまどう。説明文によれば、長さんが裏打ちした西澤彰氏の絵、ということだ。西澤氏はサバン症候群というのか、日常的に目にする色々な種類の小型飛行機の様々な姿を記憶だけで描いたものらしい。それが分かると、長さんが“下支え”したこの作品で観客を迎えているのが、いかにも長さんの人柄を示していて、嬉しくなる。優れている、すごい、面白い、と長さんが思ったものに対して、長さんは敬意を隠さない。そこには曇りのない目がある。
最初の小さな部屋では、長さんの出自というか問題意識の基底にあるものが巧みに示されている。
正面壁に映像作品『原野2』(1973年)のプロジェクション。床に古地図。 その右壁にそれぞれ長さんの大伯父=彫刻家・長渡南の作品、左壁に長さんの父親=図案家染色家・長安右衛門の作品。(長家は代々この地の代官だった、という。長さんの祖父=長祐之は村会議員、県会議員、足利町長。渡良瀬川の鉱毒が足尾銅山に原因があるといち早く指摘し、田中正造にも大きな影響を与えた人であった。)
つづく→
つまり、この部屋の展示だけで、長さんは旧家の大地主の長男として、第一線で活躍した大伯父を身近に感じつつ、これも第一線で活躍していた父親のもとで育った、ということを端的に示し、『原野2』のプロジェクションで長さんの美術家としての様々な問題意識の所在をも示している。
8ミリカメラで撮影された『原野2』は、築250年という長さんが生まれ育った屋敷の解体の記録である。大きな屋敷を重機が壊していく。舞い上がる埃。次々に内部を露わにしながら崩されていく屋敷=長家の歴史。屋敷が崩れるたびに、背後に隠れていた渡良瀬川の土手や向こうの山並みなどの景色が現れ出くる。その道路を車がのんびり走ったりしている。解体完了後、形を失った屋敷を、頬被りをしマスクを装着した男たちが、手作業で片付けていく。柱や板や石材をそれぞれまとめ、燃やしてしまってよいものを一箇所に積み上げていく。火を放つ。地面をならしていく。見落としていた細かなものをさらにまとめていく。男たちの中には、1972年11月にこの長さん宅の庭で「音響評定5」の発表を行なった藤原和通氏や、すでにもう旺盛な発表活動を行なっていて注目を集めていた高山登氏の姿も確認できる。
この『原野2』は先に述べたように極めて重要である。というのも、長さんが10歳の時(1945年)、父親の長安右衛門が亡くなってしまった。地主の立場は長男の長さんが引き継ぐことになった。折しも農地解放で、さらに台風による渡良瀬川の洪水など、まだ幼かった大地主の長さんが重ねた苦労は大変なものだったはずだ。そうした中で、例えば変容する土地制度を巡って「領域」「境界」という問題意識や、周囲の人々の「本当さ」を見抜く曇りのない視線が育まれたに違いない。逃れられぬ自らの“宿命”への愛憎が、映像の冒頭に映し出される屋敷に象徴されていたのではないだろうか。家督相続後ほぼ30年、それを自ら取り壊すことにして実行した、その記録が『原野2』なのである。
つづく→
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
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