色の不思議あれこれ080 2017-10-17
根本敬「樹海」を見に行ってきた その1
『美術手帖』誌で連載中の「根本敬・ゲルニカ計画」に興味を覚え、描いた絵を一般公開する、というのでモノレール・昭和島駅にはじめて降り立った。
狭くてまっすぐなホームに、まず現実感が失われてしまう。階段を下りて狭くてジグザグの通路を歩いて東口改札を出る。右に水平の大きな建造物。柵も水平。歩ける道幅は狭い。体の感覚がなくなりそうだ。何度か直角に折れ曲がって、車の通る道に出た。
ゆるやかに曲がる橋を渡り、高速道路の下をくぐると、おおきなコンテナが積み上げられている。こんな状況、見たこともない。スケール感がさらに狂っていく。が、かまわず歩いていく。途中、公衆トイレを見つけたのでおしっこをした。やがて、絵が公開されているらしき建物がある。壁に壁画があって、スプレーでごてごてに落書きされた手作りの小屋があったので見当をつけた。小屋はチケット売り場みたいだが人がいない。かまわず、建物の中に踏み込むと、特大の脚立に乗って根本敬氏が絵に手を入れていた。
すぐに私に気付いて中断し、脚立から降りようとするので、あ、気になさらずにお続け下さい、と言うが、いやいや、とか言って、脚立を片付け、私の視野から消えてしまった。私はもう絵だけを見ている。スピーカーからの音楽がリズムを刻んでいる。
大きな絵である。スペイン・マドリッド・ソフィア美術館にあるピカソ「ゲルニカ」と同じ大きさだというが、え、「ゲルニカ」ってこんなにでかかったっけ? というのが最初感じたことだった。「ゲルニカ」は、たしかにでかかったけど、ここにある絵よりは、もう一回りもふた回りも小さかったような気がしたのだ。まず大きさを感じさせる、ということは、この絵はうまくいってるんじゃないか、とまず思った。
目に飛び込んでくるのは、意外に(失礼!)きれいな色彩。さすがに描き慣れたひとだ。ただ者ではない。あたりまえだ。根本敬だもの。
色彩の綺麗さを認めるのと同時か、ほんの少しだけ遅れてテクスチャーの対比も見えてくる。筆によってためらわず描かれたいくつもの大きな形状だけでなく、細い“鉄線”でじつに細かな描き込みのなされたいくつもの領域が対比を成している。線はフェルトペンによるものらしい。複数の色が認められて複雑な表情である。とはいえ、視線はただちにその細部と全体の大きな組み立てとの関係を探ろうとしているが、何がどう描かれているか、一見して了解できるものではない。でかいだけでなく、例えば人体や動物らしきを認めたところで、その各所から妙なものが飛び出したり延びたりして、別のものに変容しようとしたりしている。その変容を支える法則のようなものも認めることができない。きっと、ひらめきとカン。
地と図とが絶えず反転する。ただデタラメでも、混沌としているのでもない。 「根本敬の世界」としか言えないような絵になっている。
根本敬氏の漫画を知らない人は、私の周囲にはあまりいない。いないどころか、敬意をもって語られている。かれの漫画には、おっぱいやチンチンや精子やうんこや内蔵や死体など、良識ある人たちが顔をしかめるようなものが頻出するので、誤解されているかもしれない。でも、ちゃんとその作品を読んでみれば、その世界は、正直すぎる愛と悲しみのようなものに満ち満ちていて、浄化の力さえ備えているように私は思う。
つづく→
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
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