色の不思議あれこれ074 2017-09-06
「極限芸術〜死刑囚は描く〜」展を見たその1
「芸術新潮」9月号の記事で知って、渋谷に出かけた。8月末日。東急文化村から通り一本隔てたビル5階のアツコバルー。
恐いもの見たさ、というか、興味本位、というか、正直、動機が不純かもしれない、という気持ちはあった。しかし、死刑囚という“特別な”人たちの描いた絵はめったに見ることができないだろうから、図版ではなく実物を見たい、という思いの方がまさったのだった。というわけで、会期終了間際に滑り込みセーフ。
メモを取りながら見たわけではないので、展示されていた作者が何人だったか、とか、それぞれの作品数など、大事なことを把握していないだけでなく、印象に残った(はずの)作品さえも、もうすでに記憶がボンヤリとしてしまっているなさけなさである。「芸術新潮」9月号と、会場で購入してきた櫛野展正編『限界芸術・死刑囚は描く』(クシノテラス、2016年)と『年報・死刑廃止2013、極限の表現・死刑囚が描く』(インパクト出版会、2013年)とを手掛かりに、頼りない記憶を呼び起こしながらメモしていきたい。
まず感じたのは、どの絵も互いにどこかよく似ている、ということだった。指導者がいるのではないか、とさえ思ったほどだ(当然のことながら、そんな指導者などいない)。線的に明瞭な形体、丁寧すぎるほどの塗り込み、といったことが共通しており、そのひたむきさは息詰まるほどである。若林一行という人のように、とても素人とは思えないほどの技量を示している人は例外だろうが、絵を描く素養のようなものとは無縁だった人たちが、ひたすら集中して、一生懸命に描いているのが伝わってくる。曖昧さはみじんもない。というか、どこにも均等な力が入っている。
北村真美という人のように、一見いかにもお気楽な漫画風いたずら描きのように見えてしまう作品も、紙の白い地のままの面積が多いゆえにそう見えるものの、よく見れば色の塗りなどは丁寧で、決してゾンザイに“やっつけた”たぐいのものではない。
松田康敏というひとの「バカボンのお正月」という作品は、点=小さすぎる円を集積させてパパを描いていた。色鉛筆とかの筆記具の先端で点を打ち続けて、いや、極小の円をひとつひとつ描き続けたのか? と観察すれば、そうではなく、点=極小の円自体にわずかな立体感=厚みがある。あれっ? これは何? その密集度は半端ではない。一方、描かれている図像はバカボンのパパである。その落差にため息が出るくらいだ。購入して持ち帰った上記の資料によれば、既成・手製の色紙に「芯のないボールペン」を押し当てて紙片を円にくり抜き、それをひとつひとつ丹念に貼付けて作り上げたものらしい。ひえーっ。そこまでしてのパパ。確かに、炭火で焼いたお餅が膨らんでパパが出現した、という“工夫”はある。うーん…、確かに、あるわけだが…(やきもちのパパ)…。加えて余白に「あけましておめでとうなのだ!」と、これまた極小の緑の円を丁寧に貼付けてあり、誰か大切な人に向けて年賀の挨拶として作ったことが想像できる。その誰かのために隅々まで集中し尽くしたとすれば、このひとの気持ちの一端に触れたような気がしたのだった。
つづく→
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
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