藤村克裕雑記帳

色の不思議あれこれ070 2017-08-09

石川九楊展「書だ!」に行ってきたその2

そして、特設の台上に延べられた全長85メートルという1980年作の「エロイエロイラマサバクタニ又は死篇」(以下「死篇」と表記する)。
 この驚嘆すべき作品は、70年代の氏の仕事の総決算であるとともに、「李賀詩」とは別の意味で今日の氏の仕事に繋がるすべてが含まれていると思われた。
 まず、70年代の総決算ということについて。
 70年代の氏の仕事は、今回6点の大作が会場一階の壁に展示されていたが、総じて、幼少期からの修練で身についた教養を解体するために、であろうか、紙を薄墨で染め、相互に継いで大きくし、書く墨の色も濃くはなく、筆の穂の根元を紙に強く押しつけたまま書いたかのようで、縦に横に斜めに、時に逆さまに、大きくも小さくも書いていて、線や塗りさえもためらいなく加えられている。貼り継がれて巨大になった紙の形状が、「艶歌へ」(1977年)のように不定形になったのもあるし、「言葉は雨のように降りそそいだ 私約イエス伝」(1975年)や「はぐれ鳥とべ」(1978年)のように縦長の同一サイズのものが複数で1点をなしているのもある。書かれている字は、大部分なんとか判読できるが、習字のお手本や活字のような形状の字ではないから、判読にはかなりの努力を要する。さらに注意深く見ていけば、6点の作品は、それぞれ異なった問題を設定しているのが明らかに見て取れ、氏の取り組みの真摯さが伝わってくる。1点ずつ検討していく余裕はここにはないが、いずれも、書の定石のようなものをどう脱臼させ、どう自分の表現を実現するかということに挑んでいる。
 
それで、「死篇」である。
 
70年代初頭にはすでに、「神よ、神よ、どうして私をお見捨てになったのですか」という意味の、キリストが喋っていたというアラム語をカタカナ表記してタイトルとした「エロイ・エロイ・ラマサバクタニ」(1972年)がある。6畳もの大きさのあるこの作品は、手応えを得た最初の作品だ、という意味のことを氏自身があちこちで語っている。筆を力ずくで紙に押し付け、ほとんど軸で書いたような印象で、書いた文や語を強調するかのような枠線やスペースを区切る線も多数引き加え、線は直線ばかりではなく弧や円も加わって目くるめくムーヴマンを形成して、ノイズで充満している。興味深いのは、下部中央に小さく書いた「エロイエロ/イラマサバ/クタニ」を丸い線で囲っている以外は、余白や隙間のスペースに、縦、横、斜めに、小さく「エロイ…」「神よ…」と繰り返し書いていることだ。それゆえ、「私には職がない」などと書き込まれた文言と語に絶えず影響を及ぼしている。一見乱暴そのものに書いているかに見えて、じつは周到に準備されていることを感じさせる作品である。
 このような70年代初頭の作品とほぼ同じタイトルを持ち、同じく薄墨で染めた紙にオーソドックスな筆法は全く無視して、「エロイ/エロイラマ/サバク/タニ/エロイ/エロイ/ラ/マサバ/クタニ/わが/神/わが神/…」と書き始めた「死篇」は、明らかに70年代の総決算を意識している。『聖書』、『蓮如御文』、『歎異抄』などからの引用が、大きく/小さく、素早く/遅く、根元で/穂先で、じつに多様に書き込んである。読めるようで読めず、読めないようで読める形状の書字が連なっていくが、巻物のような形式での展開は、“全体”というようなことを意識せずに書字に集中できたはずだ。
 ここでも、一つの文字が読めたのをきっかけに文の判読が可能になった時には、他に類のない感動が訪れる。
 たとえば最後の台に延べられたその始まりのところは先の不揃いな刷毛でザッと垂直になぞったかのようだが、よく見れば、米粒ほどの文字が行列のようにまっすぐに何本も書いてあり、それらの連なりが刷毛目のように見えているのが分かる。おやおや何を書いたものだろう、と近寄っても文字があまりに小さくて(小さすぎて)見えない、読めない。わずかに「…行なはんとなりしかるを汝らが…」と読めるものの“出典”が分からない。帰宅してあわてて調べてみれば、『方丈記』? あそこには『方丈記』がすべて書かれていた? 現場でそれがただちに判明するくらいの教養と観察眼があれば、と思うが、この年齢では、もはや無理だろう。ああ。
その3に続く→

 

 

藤村克裕

立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。

藤村克裕 プロフィール

1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。

1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。

内外の賞を数々受賞。

元京都芸術大学教授。

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