色の不思議あれこれ052 2016-06-20
気になる音のこと
むかし、ジョン・ケージがハーバード大学の無響室に入ったのだそうだ。無響室とは、完全に外部からの音を遮断し、部屋の内部で出された音も壁や天井や床で反響させずに“吸い取って”しまう部屋。
ジョン・ケージは、その体験のことを、無響室とはいっても音がまったく消えてしまうのではない、自分自身の血液循環の音と神経系統が働く音とがする、と言ったのだそうだ。
血液循環の音、というのは心臓の拍動の音だろうが、神経系統が働く音、というのはどんな音だろう、と近頃しきりに思う。というのも、このごろ耳鳴りがするからだ。
朝など、とても大きく聞こえるので、まるで、耳鳴りに起こされているような気さえする。とはいえ、今のところ、目覚めなければ聞こえないから、耳鳴りを目覚まし時計の代わりに使うことはできていない。この文を書いている今も、結構大きく聞こえている。この耳鳴りのことを「神経系統が働く音」とケージは言ったのだろうか? それとも、もっと別の音のことだろうか?
それはともかく、「耳鳴り」とはよく言ったものだ。
確かに耳の辺りから音がしている。耳が勝手に「鳴って」いるのだ。単一の音ではなさそうで、倍音を伴って鳴っているように感じる。私には「絶対音感」というものがないので、的確にこの「耳鳴り」の音をとらえて示すことができない。でも、ビブラートというか「うなり」がある。
「絶対音感」のある人は空調の音とかに苦しむ、という話を聞いたか読んだかした記憶がある。私の「耳鳴り」は、空調や換気扇や蛍光灯の音などの“雑音”と相性が良くて、相互に響きあわせて楽しむことができる。一方、物音や話し声などに注意が行くと「耳鳴り」は消える。あ、消えている、とそのことに気付くとまた鳴る。「地と図」の話を思い出す。
先日、久しぶりに大事な知り合いに会った。この「耳鳴り」のことを話すと、ああ、ストレスだな、と言った。そうかな? ストレスの自覚がない。
とはいえ、気になって調べてみると、耳鳴りは難聴を伴うことが多い、とある。たしかに、家人が何か言っていることにまったく気付かず、叱られることが増えた。耳の病気だけでなく、高血圧、動脈硬化、糖尿病、鬱病、神経症の症状として生じる、ともある。あれま、「老人力」だ。
朝、二度寝して寝過ごし、家人に、近頃眠ってばかりいる、鬱病ではないか? と思わず訴えたりすると、鼻先であしらわれる。家人の見立てでは、少なくとも鬱病ではないらしい。鬱病の人には申し訳ない。
そういえば、さっき書いた知り合いとは別の、これは年若い知り合いから、飛蚊症になってしまった、と先日手紙が来た。病院へ行っても、老化ですね、白髪と同じです、と言うばかりで相手にしてくれない、じつに憂鬱だ、と嘆いている。かわいそうに。
その知り合いは画家だから、私の耳鳴りより深刻だ。でも、ずっと以前、私の尊敬するある大先輩の画家と喋っていて、飛蚊症の話になって、その大先輩は、ボクなんか、もうずっと以前から、いろんなチカチカが飛んでいるのが見えて、それもまた面白いもんだよ、と笑い飛ばしていたことがあった。さすがだ。若輩者は見習わねば。
そういうわけで私の耳鳴りも、鳴るにまかせておくのがよさそうだ。“雑音”と響き合わせる楽しみも見つけたし、パーソナル・ミニマル・ミュージックと思えば苦にならない。日常生活で、必要な注意が別のところに向けば耳鳴りは消えてくれるのだから、当面は大丈夫だろう。
それにしても「耳鳴り」とは言っても「耳音」とは言わず、「足音」とは言っても「足鳴り」とは言わないのが、面白い。何かを耳でこすったりして音がでたら、それは「耳音」と言うのだろうか? 何かで足から音を出させると「足鳴り」と言うだろうか?
なんだか、拍手の音は右手から出ているか、左手から出ているか? みたいな話に“鳴って”きた。
五年前の今日は、あの大地震、大津波の日。私は京都にいたが京都でも揺れた。合掌。
(2016年3月11日、東京にて)
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
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