色の不思議あれこれ036 2015-11-04
長新太の仕事(1)
東京・上井草の「ちひろ美術館・東京」で『長新太の脳内地図』展をみた。どこだったかでチラシを見つけて、絶対に見たい、と思ってきた展覧会だったが、例によって会期終了間際になってしまった。
絵本に関心のある人なら誰でも長新太(ちょう・しんた、1927年〜2005年)の仕事を知っている。その影響は計り知れない。その証拠に、私ですら、思わず親しげに「長さん」と呼んでしまっている。昔、古くからの知り合いで、やがて絵本作家になった山崎克己氏が、「長さんの絵を買っちゃった」と言ったとき、どれだけ氏をシットしたことだろう。
以前、新宿・曙橋で信号待ちしている時に、となりに長さんが立っていたことがある。あ、長さんだ、と思って、すごくドキドキした。でも、あれは、一瞬の幻覚だったかもしれない。じろじろ確認できるわけがなかったし、もちろん、話しかけたりできなかった。あたりまえだが、こっそり、あとをつけたりもしなかった。
「ちひろ美術館・東京」では、長さんが亡くなったあと、時間をおかず、2006年に長さんの充実した展覧会を開いた。たしか、長さんの仕事場を再現したコーナーも設けられていた。書棚全部の実物大写真の前に仕事机などの現物。長さんの仕事場の様子は、雑誌などで知ってはいても、亡くなったあとでは、やはり感慨があった。そのことはよく覚えているけど、他の細かいことをもう忘れてしまった。あの時は、絵本と取り組む前の長さんが、比較的詳しく紹介されていたことをおぼえている。貴重な展示だった。その後、2013年にも『ずっと長さんとともに』という展覧会をやったと思う。が、これは見ることができなかった。いまでも残念だ。
今回の展覧会では、最初のアイディアを書き留めるために使っていた手帖の実物が三册紹介されていて、興味深く見ることができた。
長さんの手帖のことを最初に紹介したのは、長さんの没後に小さな特集を組んだ『芸術新潮』誌だったと思う。その記事では、出版社などからもらったスケジュール管理のためのありふれた手帖に、日々アイディア・スケッチを描き込んでいたことにふれ、その見開き写真を小さく載せていた。私はそれをカラーコピーして自分の手帖に貼った。
そうした長さんの手帖の現物が、ケースの中とはいえ置かれていたのである。手に取ってページを繰りたい、という欲望がつのる。せめて、コピーとかで冊子状にして中を見ることができるような工夫をしてもらえなかっただろうか。また、今後、宮沢賢治やコルビュジエの手帖のように、そのまんま実物大に印刷して出版してくれないだろうか。長さんのそんなものが刊行されれば、多少高価でも、私はぜったい買う。長さんの創造の秘密に分け入って、ツメのアカを見いだし、煎じて飲みたい…。そんなひとはたくさんいるのではないだろうか。誰か検討してほしい。あ、人任せだな。この際言っておくが、私がやってもよいぞ。金はない。が、労は惜しまない。
同時に展示されていたのが未刊、既刊の絵本の“ダミー”だ。『だっこだっこねえだっこ』(2005年)のための三つの“ダミー”と、刊行には至らなかった三種類の絵本のための“ダミー”。長さんは、一つの作品を作るにあたって必ず三つの“ダミー”を作ったという。当然、手帖でいろいろ検討したあとの過程の産物だろう。いうまでもなく、手作りである。これも手に取ってページを繰って、ああ、相互に見比べたいなあ。手帖の段階から絵本の姿になって出版されるまで、ずっと検討すれば、長さんが何に苦労し、何を考えていたかが、すごくよく分かるはずだ。ケース越しに見るだけでは、これはとてもムリ。ぜひ“ダミー”の複製も出版してほしい。私は絶対に買う。金のない私がそう言っているのだから、本気だ(くどいか? くどいな)。とはいえ、長さんほどのひとの生々しい創造の過程は、万人の財産として、共有されるべきだ、と私は思う。長さんの創造の過程に分け入っての本格的な研究もそろそろあってよいだろう。誰か、頼むぞ。あ、人任せ。うーむ、私がやってみてもよいが。
つづく
立体作家、元京都芸術大学教授の藤村克裕先生のアートについてのコラムです。
藤村克裕 プロフィール
1977年 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。
1979年 東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修了。
内外の賞を数々受賞。
元京都芸術大学教授。
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